ESSAY2000B-
LAST UPDATE/ 2000/12/30
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2000/8/1 黒い汗を飲みながら考えた

 週一回授業の帰りに川崎で夕食を食べるのですが、最近よく行くのが、駅前のルフロンの一階にある「カフェ・ハイチ」という店です。ここは、ハイチ風ドライカレーというのも美味しいのですが、そもそもその店に入ったのは、売り物であるらしい「ハイチ・コーヒー」というのはどのようなものか興味があったというのがきっかけです。ハイチ・コーヒーというのは、いままで自分が好みだと思っていた味とは全然違うように思うのですが、なんとなくはまってます。面白いのは、器(マグカップのような大きな器に、3分の1ぐらい入っています)ごとあたためるのか、来たときには「カップが熱いのでお気をつけください」と言われる、というのと、香り付けのブランデーというのが付いてくるということです。好みで入れろということらしいです。
 ところで、「ハイチ」と「コーヒー」という取り合わせからは、やはりあることを連想してしまいます。ハイチは、カリブ海に浮かぶ島です。コーヒーはアラビア起源の飲み物であり、そんなところにもともとコーヒーがあったわけがないわけで、そこがコーヒーの名産地となるにあたっては、そこにコーヒーを持ち込んで農園を作ったもの、そして、遠い地からむりやり連れてこられ、その農園で働かされた人々がいる、ということですね。
 臼井隆一郎氏の『コーヒーが廻り 世界史が廻る――近代市民社会の黒い血液――』(中公新書)には、こうあります。「オランダの商人が、従来のようにコーヒーをできるだけ安くアラビア商人から買い受け、競争者を排除しながらできるだけ高く売るという方法に代えて、みずからの手でコーヒーを生産するという方法を取った時、コーヒーはヨーロッパの植民地主義の歴史を黒々と湛える商品となり、文字通り地球上の自然と人間を改造する近代の代表的商品となる道を歩み始めたのである。(p.53)」最初の「植民地コーヒー」は、オランダ東インド会社による「ジャワ・コーヒー」です。「ジャワの農民はコーヒー・プランテーションで無報酬で働くか、あるいは自分の農地の一部をコーヒー栽培に振り向けることを強いられた。(p.53)」しかし、それ以上に過酷な経営が行われていたのが、スペイン・ポルトガルによる西インド諸島のコーヒー・プランテーションでした。
 そもそも西インド諸島はスペイン、ポルトガルによってもっとも残虐な植民地奴隷制度が実行された土地である。奴隷をモノと見倣す植民者の徹底した原住民酷使は、住民の数を恐るべき勢いで減少させた。
 コーヒーを「ニグロの汗」と呼ぶ、おぞましい語彙が残っている。人手のかかるコーヒー栽培を支える労働力は黒人であった。アフリカ西海岸に集められた黒人奴隷はキリスト教牧師の祝福を受けた後、西インド諸島のプランテーションへ運ばれ、奴隷を降ろした船は、今度は砂糖、タバコ、ラム酒、インディゴ、そしてコーヒーをヨーロッパに運ぶのである。〔……〕黒人の3分の1が輸送中に死亡したという。生き残った黒人奴隷がどれほど幸福な生活を送ることになるかは改めていうまでもない。アフリカからアメリカへは推定1500万人の黒人が奴隷として運ばれたにもかかわらず、18世紀の末、アメリカに現存する黒人奴隷は300万人しかいなかったといわれる。西インド諸島の大地は「ニグロの汗」を胎に受け、ヨーロッパ人の「神々の食事」を熟させたのである。(p.116)
 さて、問題のハイチですが、フランスの植民地だったハイチのコーヒー栽培は1734年に始まったそうです。「多くの山岳を抱えたハイチは、コーヒー栽培に適した土地であった(p.138)」ということです。しかし、ここでも、足りない労働力はアフリカから連れてこられた黒人奴隷によってまかなわれました。過酷な境遇に置かれた黒人奴隷たちは、1791年8月、フランス革命の影響を受けて反乱を起こしました。闘争を指揮したのは、「黒いジャコバン」と呼ばれた、奴隷出身のトゥーサン・ルヴェルチュールで、彼は1801年に憲法を制定し、終身総督となりました。しかし、ナポレオンはそれをみとめず、軍を派遣して革命を弾圧。ルベルチュールは、交渉と称して誘い出され、逮捕され、1803年に獄死したそうです。しかし、彼の死後も闘争は続き、ルベルチュールの後を継いだデサリーヌは、フランス軍を撃退し、1804年1月ハイチの独立を宣言しました。「こうして,ハイチは世界で最初の黒人共和国、ラテン・アメリカで最初の独立国となった(平凡社『世界大百科事典』より)」ということです。
 このように、ハイチ・コーヒーは植民地主義の歴史と切っても切れない関係を持っているわけですが、それはハイチ・コーヒーだけでなくコーヒー一般について言えることです。また、それは単に歴史的な話であるだけではなく、現在も、依然として世界は植民地主義に起因する貧困や戦乱のただ中にあるということを考えると、ついつい、「ハイチ・コーヒーはなかなかうまいなあ」なんてのんきに言っていられないような気になってしまいます。前出の『コーヒーが廻り世界史が廻る』から再び引用します。
 コーヒーには茶や酒とは多少異なった点がある。「俺に今一杯のコーヒーが飲めたら世界はどうなっても構はぬ」と独り静かにコーヒーを飲み下すことができるためには、中南米やアフリカといった遠いどこかの世界がコーヒーを生産するようになっており(自然にそうなったのではない)、さらにそのコーヒー豆を無事にわれわれのもとに送り届ける一切の産業構造(輸出業者、仲買人、船舶会社、倉庫会社、輸入業者、焙煎業者、小売り店、喫茶店等々)がトラックの一台、人間の一人一人に至るまで、まっとうに機能していることを前提にしている。コーヒーを飲むという行為は、茶や酒を飲むのとはかなり程度の異なった極めて「不自然」な、人工的・文明的な行為である。それはヨーロッパ列強の植民地支配という長大な過去と円滑な世界交易の存在を前提にして初めて可能な行為であり、コーヒーを飲みたいという安穏な願いが時代の生産関係や政治事情に抵触することがあるのは、世界史のいくつかの事例に見てきた通りである。(p.221-2)
 そうなんです、そうなんですが、いうまでもなく「だからコーヒーを飲むのはやめる」などと言ってみても意味ないわけで、結局(これもありきたりな逃げ口上かも知れませんが)コーヒーを飲みながら、せめて、そうした歴史に思いをはせる、ということしかないのでしょうか。とりあえず、そんなときに、今回引用した臼井隆一郎氏の『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書1095)はおすすめです。この本は、コーヒーを巡って、発祥の地であるアラブからはじめて世界史をたどる、大変面白い本なのですが、私は特に文体が気に入りました。革命や植民地主義といった熱いテーマに対して身構えてしまいそうな読者を、臼井氏の洒脱な文章はリラックスさせてくれます。その意味では、この本自体、「コーヒー的」と言えるような気もします。 ▲TOP


2000/10/19 ヴィヴィアン・ガールズとヘンリー・ダーガーの孤独な戦い

 先日本屋でたまたま手にして『アウトサイダー・アート』(求龍堂2,900円)を買いました。これがすばらしい。「outsider art」とは、フランス語の「art brut」の訳語として作られた言葉らしいですが、精神病者、交霊術者、囚人、世捨て人などの、専門的美術教育を受けていない人々による芸術作品のことだということです。山下清なんかも入るのかもしれませんが、この本に収録されている絵は、彼の作品からイメージされるような、素朴で、見る者の心を和ませる、といったものはほとんどありません(もっとも私はあまり山下清の作品を見たことはないのですが、イメージとして、ということです)。素朴といえば素朴なのですが、グロテスクな、ぎらぎらした輝きをもった作品が多いです。その中に、途方もない純粋さが隠れている、というか……まあ何か言葉で言うとこれまた陳腐になってしまうのですが……。
 30人の作家の作品が数点ずつ載っているのですが、中には、以前NHKのドキュメンタリー番組で取り上げられていた、「グギング芸術家の家」(精神病者の芸術家が共同生活する家)のオスヴァルド・チルトナーの作品もありました。テレビを見た時に、この芸術家の家のほかの作家の作品にも感銘を受け、関心は持っていたのですが、今回買った本によって、ほかにもいろいろなすばらしい作家がいることがわかりました。
 特に感動したのは、ヘンリー・ダーガー(Henry Darger 1982-73)に関するエピソードです。シカゴで生まれた彼は、病院で清掃や皿洗いをしながら暮らしていたのですが、彼の死後、40年間孤独に暮らしていたアパートの一室を家主が片づけようとしたところ、とんでもないものが発見されたのです。それは、『非現実の王国におけるヴィヴィアン・ガールズの物語、あるいは子供奴隷の反乱に起因するグランデコ対アンジェリニアン戦争と嵐の物語』という長い題を持つ空想物語で、タイプライターで清書した手製の本が7冊、手書きの原稿が8束(15,145ページ!)さらに、物語を図解した挿し絵が数百枚見つかったのだそうです。私が買った本には、挿し絵の中から数点が掲載されているのですが、これがいいのです。彼は自分は絵を書けないと信じていたので、新聞や子供用のスタイルブックなどから集めた少女の図版をトレースして挿し絵を描いていて、その中にはモートン・ソルト社やコパトーン社などのキャラクターも使われている、ということです。しかし、そうだとしても、キャラクターを配置するデザイン感覚や、色彩感覚にはすばらしいものがあります。かわいらしい少女たちが嵐の中逃げまどう絵などがあり、一見、めるへんちっくな絵に見えるのですが、よく見ると、少女たちの股間にはなぜかかわいらしい男性器が描かれています。また、空中には、鮮やかな蝶の羽をつけ、鱗のあるしっぽをつけた少女たちが飛び交っています。別の絵では、戦いに敗れ、はらわたを見せて倒れている子供たちが描かれています。しかし、全体の画調は、あくまで淡い色調で描かれたおとぎ話の挿し絵風なのです。
 物語のストーリーは、子供たちを奴隷として虐待する残虐な大人の男たち「グランデリニアン」との、ヴィヴィアン・ガールズたちの壮絶な戦いを描いたものなのだそうです。
 ダーガーは信心深いカトリック教徒だったが、自分の人生や世の中にあまねく存在する悪や不条理に対して神が何もしようとしないことへの怒りから、神を見限り、もうひとつの世界にその解決を求めようとした。ダーガーの妄想は、孤独の中で培養され続け、おとぎ話のファンタジーとキリスト教信仰、残虐行為の克明描写が混在する、特異な表現となって噴出した。
(『アウトサイダー・アート』151ページ作家略歴より)
 かれは、この物語を、誰にも知られることなく、集めてきたがらくたでいっぱいのアパートの一室で書き続けていたのだそうです。そのことを思うと、心が打たれます。死後この作品を発見したアパートの家主ネイサン・ラーナーは、自分自身も芸術家(写真家)だったらしいのですが、もし、家主が別の人であったとしたら、この作品は、独居老人の部屋に残されたがらくたとして捨てられていたかもしれない、というかその可能性は高かったでしょう。
 うーん、しかし、あまりに出来過ぎた話で、事実とは思えないほどです。とりあえず、彼の書いた絵をもっと見てみたい、と思いました。
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2000/12/30 ボンバイエ!――黒い叫び――


* * *

 カリブ海のほぼ中央に浮かぶその大きな島にコロンブスが上陸したのは、1492年である。彼はその島をヒスパニオラ島と命名した。やがてやってきたスペイン人たちは、この島を蹂躙し、住民たちを虐殺し、ここを彼らの植民地とした。9万から10万人いたこの島の先住民は1530年頃にはほぼ全滅していた。1697年、フランスがこの島の西半部をスペインから譲り受けた。フランス人がサンドマングと命名したその土地は、後にハイチと呼ばれることになる。
 1734年、フランス人たちはこの地でコーヒー栽培を開始した。不足した労働力を補うために、アフリカから多数の人々が奴隷として運ばれた。奴隷商人にさらわれたアフリカ人たちの多くが輸送途中で死亡したが、運よく生き残ったものには、農場での過酷な奴隷労働が待っていた。
 はじめてサンドマングを訪れた者は、笞の音と押し殺した悲鳴、そしてニグロの呻き声で目をさました。ニグロにとって日の出は、労働と苦痛の始まりを意味するにすぎず、日の出を呪った。日の出とともに仕事が始まり、八時に簡単な朝食をとり、そして正午まで働きづめだった。二時に仕事を再開し、日の入りまで、ときには夜の一〇時、一一時まで働いた。(C.L.R.ジェームズ著『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』24ページ)
 満足な食事も与えられず、家畜小屋のような住居につめこまれ、家畜のようにむち打たれながら働かされた。少しでも反抗したものは、残忍な拷問が待っていた。
 1791年、そのサンドマングで、黒人奴隷たちが大規模な反乱を起こした。この反乱は、奴隷出身のトゥーサン・ルヴェルチュールという卓越した指導者を得ることによってハイチ革命に発展した。トゥーサンは騙されて捕らえられ、獄死したが、後を引き継いだデサリーヌに率いられた黒人たちは、1803年、ナポレオン軍をやぶり歴史上初めての黒人共和国ハイチを樹立した。
 蜂起した黒人たちは、集会や行軍の際に次のような歌を歌っていた。
Eh! Eh! Bomba! Heu! Heu!
Conga, bafio te'!
Conga, moune' de le'!
Conga, de ki la
Conga li!
 クレオール、すなわち、植民地の黒人たちがフランス語とアフリカの諸言語をもとに作り上げた言語で歌われたこの歌の意味は、実ははっきりとはわかっていない。しかし、これが、もともとはヴードゥー教の儀礼の際に歌われたものであることは間違いない。ヴードゥー教とは、アフリカ系土着信仰とキリスト教の融合によってできた宗教であり、憑依現象をともなう儀礼を特徴とする。ヴードゥー教は、ハイチの黒人蜂起において奴隷たちの戦いの精神的支えでもあった。この歌詞の訳例をいくつかあげておく。
白人と白人の全財産を破壊することを誓う。この誓いが守れぬくらいなら死んでしまおう。(C.L.R.ジェームズ著『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』32ページ)
エー!エー!ボンバ!エー!エー!/私は黒人に誓う!/私は白人に誓う!/私は精霊たちに誓う!/アリャー!/あなたも彼らに誓いなさい(同書436ページ)
エー!悪魔ボンバよ、黒人を捕らえよ、白人を捕らえよ、魔法使いを捕らえよ、彼らを捕らえよ(浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』110ページ)
 「ボンバ!エー!」というこのかけ声には、過酷な奴隷労働を強いられてきたハイチの黒人たちの怒りと怨念が込められていた。
 この同じかけ声が、ハイチ革命から200年後、アジアの島国、しかもプロレスリングの試合会場にこだますることになる。それは、プロレスラー・アントニオ猪木のテーマソング、「炎のファイター」である。印象的なトランペットの旋律が流れた後、ドラムに合わせたかけ声が入る。「イノキ!ボンバイエ!イノキ!ボンバイエ!……」しかし、ハイチのコーヒー農園の黒人奴隷たちと、日本のプロレスラーを結びつけるのは、「ボンバイエ」というこの言葉だけではなかったのである。

* * *

 アントニオ猪木、本名猪木寛至は、1943年横浜に生まれる。幼くして父を亡くした猪木は、祖父のもとで育てられた。体は大きかったが、平凡な子供だったらしい。しかし、中学2年の時、彼の生活は大きな変化を迎えることになる。一家でブラジルに移民することになったのである。1957年2月3日、猪木家を乗せた「サントス丸」が、ブラジルに向けて出航した。猪木家は、アメリカに嫁いだ姉と次男を除く総勢11名である。しかし、猪木の最愛の祖父は、航海の途中、毒性の高い青いバナナを食べたことがもとで腸閉塞にかかり、あっけなく死んでしまう。一ヶ月半の航海を終え、猪木家を乗せた船はサントス港に入港した。そして、猪木とその家族は、上陸してすぐ、ブラジル奥地のコーヒー農園で働くことになったのである。楽園を夢見てブラジルに渡った猪木家は、ファゼンダ・スイッサ(スイス人の大農場)というスイス人の経営する広大なコーヒー農場で、一年半の契約で働くことになっていた。ところが、家族にあてがわれたのは、土間に板張りの粗末な家で、電気も水道もきていないうえに、便所もないという代物だった。そして、彼らを待っていたのは、「奴隷労働」だったのである。
 次の日から、希望に燃えた私たちを待っていたのは、過酷な奴隷労働であった。私は今でも、あの頃の夢にうなされることがある。着いた翌朝は五時にラッパの音で叩き起こされた。空はまだ薄暗い。私は畑用の靴を用意していなかったので、裸足でコーヒー畑まで歩いた。朝露で濡れた赤い大地は、ひんやりと冷たかった。仕事の内容はコーヒー豆の収穫。一年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないのである。〔……〕
 実を落とすためには枝をしごかなければならない。最初は用意していた軍手をはめて、しごいていたのだが、すぐボロボロになるし、軍手に枝が刺さって使い物にならない。仕方なく軍手を捨てて素手でしごくのだが、これが物凄く痛いのである。手のひらに棘が刺さって、血が噴き出してくる。それでもしごいていると、やがて皮がズルリと剥け、傷口に棘が食い込む。痛みで涙を滲ませながら、何とか作業を続ける。それを夕方五時まで十二時間。やっと家に戻って、手のひらに赤チンを塗り、フェジョアーダという、豚の干し肉と豆を煮た不味い料理を食べると、ボロ雑巾のようにベッドに倒れ込む。そしてまた翌朝五時に叩き起こされ、傷が癒える暇もなく同じ労働が続くのだ。数日後、夜逃げした家族が撃ち殺されたという話を聞いた。〔……〕
 一ヶ月後に賃金が支払われた。家族が死にもの狂いで働いて、作業や生活に必要な物を買ったら、ほとんど手元に残らない金額だ。ここから抜け出せないようなシステムになっているのである。私たち一家は奴隷だった。馬に乗った作業監督は一日三回見回りに来る。彼の腰にはいつもピストルと鞭が下がっていた。(猪木寛至『アントニオ猪木自伝』47-50ページ)
 その後、コーヒー農場との契約を終えた猪木家は、落花生栽培の成功で財産を築き、サンパウロに家を買う。そして、1960年、青果市場で働いていた寛至は、ブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、レスラーになるため日本に帰国することになる。猪木がブラジルの地を踏んでから3年後のことである。猪木は18才になっていた。
 1791年、ハイチのコーヒー農場の奴隷たちが白人に対する戦いに立ち上がり、「ボンバ!エー!」とときの声をあげた。その200年後、ブラジルのコーヒー農場で奴隷労働を体験した日本のレスラーが、リングの上で「ボンバイエ!」という声援をあびる。もちろん、猪木は本当に奴隷であったわけではないし、いくら過酷であったとはいえ、ハイチの黒人たちの境遇はそれをはるかにしのぐ悲惨なものだったかもしれない。それにしても、偶然にしてはできすぎたこの符合に不思議な因縁を感じるのは、私だけではないだろう。
 では、ボンバイエというこの不思議なことばと猪木を結びつけたのは、何だったのだろうか。実はそれは、猪木と、虐げられた同胞のために戦い続けた一人の偉大な黒人ボクサーとの友情だったのである。

* * *

 モハメド・アリーは、1942年、アメリカ南部、ケンタッキー州ルイビルの黒人居住区に生まれた。生まれた時の名はカシアス・クレイ。21才の時彼はこの名前を捨て、モハメド・アリーと改名することになる。父親は看板絵描きだった。アリーの少年時代のアメリカ南部では、ジム・クロウと呼ばれる人種隔離法のもと、黒人の権利が著しく制限されていた。多くの公共施設が黒人用と白人専用に分けられていた。選挙権も実質上奪われていた。白人たちによる黒人に対するリンチも横行していた。アリーが13才の時、シカゴからミシシッピー州の伯父の家を訪れていた14才の黒人少年エメット・ティルが、白人優越主義を掲げる秘密結社KKKのメンバーと見られる3人の白人男性に殴られ、射殺されたあげく、川に放り込まれるという事件が起こった。ところが、逮捕された3人の男は裁判で無罪判決を受けた。アリーはこの事件に衝撃を受け、白人中心のアメリカ社会に対する強い不信感を抱くようになる。
 この事件の少し前から、アリーはボクシング・ジムに通うようになっていた。早くから才能を示した彼は着々と実力をつけていき、1960年のローマ・オリンピックではついに金メダルを獲得し、アマチュア・ボクシング界の頂点に立った。ところが、故郷ルイビルに金メダルをもって凱旋したアリーが町の食堂に入ったところ、黒人だという理由で給仕を拒否されてしまう。食堂を追い出されたアリーは、金メダルをオハイオ川に投げ捨てる。人種差別国家アメリカとの決別であった。
 その後プロに転向し、快進撃を続けた彼は、1964年ついに世界ヘビー級チャンピオンになる。同じ頃、彼はブラック・ムスリム組織「ネーション・オブ・イスラム」に入り、カシアス・クレイという「奴隷の名」を捨て、モハメド・アリーと改名した。ところが、1966年、絶頂期の彼を選手生命の危機が襲った。
 当時、アメリカはベトナムでの戦争にのめり込んでいた。1965年に北爆が開始され、戦争は泥沼化していた。アメリカ国内では若者を中心に次第に反戦の機運が高まっていた。そんな中、ベトナム戦争を、アメリカ白人支配階級の植民地主義によって引き起こされたものと主張するネーション・オブ・イスラムの考えにしたがって、1966年に、彼は「俺はベトコンに恨みはない」と語って徴兵を拒否した。彼はこのような言葉も残した。「黒人を奴隷にした白人が、有色人種を支配するために、遠い外国で貧しい人々を殺している。私はそんなことを手助けするつもりはない。」彼は起訴され、最初の裁判で有罪判決を受ける。その後も裁判闘争は続くが、アリーはパスポートを奪われ、ボクシング・ライセンスを剥奪され、国内での試合を3年5カ月禁止されてしまう。絶頂期に長期間ボクシングのできない生活を余儀なくされたわけだが、彼は1970年にカムバックする。そして翌1971年、ザイール(現コンゴ)でジョージ・フォアマンとの壮絶な試合を行い、ヘビー級タイトルを奪い返すのである。
 「ジャングルの中の闘い」と呼ばれたこの世紀のヘビー級タイトルマッチは、ザイールの首都キンシャサ市外の巨大なスタジアムで行われた。この試合をザイールに招致した大統領モブツは、独裁政権の宣伝のためにこの試合を利用しようとしたのだが、アリーにとって、祖先の土地であるアフリカの地で試合を行うことは特別に意味のあることだった。
 試合当日の10月30日、スタジアムは8万人の観衆で埋め尽くされていた。そして、アリーが入場したとき、アフリカ人たちは熱狂的な声援で彼を迎えたのである。「アリー!ボンバイエ!アリー!ボンバイエ!……」
 試合は、フォアマンの圧倒的有利とされていたが、8ラウンドの死闘の末、アリーのパンチがフォアマンの巨体をキャンパスに沈めた。観客は総立ちになり、リング・アナウンサーの声は、「アリー!ボンバイエ!」を連呼する声にかき消された。

* * *

 スーパースターとなったアリーだが、その後次第に衰えを見せ、1976年9月、一端引退する。その直前の6月26日、アリーは日本に招かれ、日本武道館で猪木との「格闘技世界一決定戦」を行った。アリー側の提示した、立った状態でのキックを禁止するという条件を呑まされ、プロレス技を封じられた猪木は、リングに寝た状態のままキックを繰り返すという奇策をとった。このため、引き分けとなったこの試合は「世紀の凡戦」と酷評された。アリーを招いた新日本プロレスは、9億という莫大な負債を抱えることになった。猪木の人気も落ち、観客動員数も一時減少した。
 試合直後は「あの試合はお遊びだった」と言っていたアリーだったが、いつしか猪木とアリーの間には友情が生まれていた。そして、アリーから猪木にプレゼントされたのが、アリーの伝記映画「アリー・ザ・グレイテスト」のテーマソングだったのである。こうして、「アリー!ボンバイエ!」を「イノキ!ボンバイエ!」に変え、猪木のテーマソング「炎のファイター」が生まれた。モハメド・アリーはその後パーキンソン病におかされ、病と闘いながら平和運動を続けるが、1998年、猪木の引退試合の会場に、そのアリーの姿があった。
 「ボンバイエ!」日本のプロレス・リングに歓声が響き渡った。しかし、この言葉には、ハイチのコーヒー農園、ブラジルのコーヒー農園の黒人奴隷たち、そして、アメリカの、コンゴの黒人たちの、自由をもとめる叫び声が、はるかにこだましていたのである。

参考文献
  • 猪木寛至著『アントニオ猪木自伝』新潮文庫
  • 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書
  • C.L.R.ジェームズ著、青木芳夫監訳『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』大村書店
  • 浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』北海道大学図書刊行会
  • 平岡正明著『黒い神』毎日新聞社
  • ジャック・ルメル著、国代忠男訳・解説『モハメド・アリー――ブラック・アメリカン・ファイター』解放出版社
※そのほかインターネット上のいくつかのサイトから貴重な情報を得ました
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