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2001/12/21 |
2001/2/2 教育の荒廃先日、NHKで「歴史でみる日本」という番組をたまたま見ました。「太平洋戦争」という回だったようですが、私が見た後半部分では、戦時下の教育の状況について説明されていました。戦時下の教育、ということでは、主に、「国民学校」「学徒動員」「学童疎開」などの話題になるわけですが、さまざまな映像によって、当時の雰囲気がよくわかり、大変興味深い内容でした。さて、戦時中は、学校教育も全面的に戦争に奉仕させられていくものになったわけですが、それを象徴しているのが、1941年4月1日から実施された国民学校制度です。この制度では、〈皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス〉(国民学校令第1条)という目的のもと、従来の教育制度の大規模な再編成がおこなわれました。義務教育年限や組織の改革とともに、教育方法の改革も行われました。「〔国民学校では〕教育方法も知識偏重の授業を排し,学校を〈少国民錬成の道場〉として儀式や学校行事を重んじるとともに,軍隊式の絶対服従論,竹槍で近代装備のアメリカ軍と戦うという非合理な竹槍主義,教師による多様な体罰などが教育の現場を支配するに至った。(平凡社『世界大百科事典』)」とのことです。文部科学省(名前変わったんですね…)のページ「学制百年史」によると、国民学校の教育方法として刷新強化されたおもな点は、次のようなものだったそうです。 (一)主知的教授を排し、心身一体として教育し、教授・訓練・養護の分離を避け、国民としての統一的人格の育成を期すること。「行進」や「整列」(「小さく前へならえ!」てのもありましたね。今思うと笑っちゃうけど。)といった軍隊的なもの、あるいは様々な儀式や学校行事というものは、私も学校でさんざん体験させられたわけですが、そうした要素が学校に取り入れられたのは、あるいは少なくとも強化されたのは、この時期だったようです。 「錬成」、「道場」、「型」、「行」、「団体訓練」というようなことばは、国民学校の教育方法として最もしばしば用いられたものである。そして、自由主義・個人主義というようなことばは、非国民的用語として極端に排撃された。当時は、一年生はおろか幼稚園児までも、朝の宮城遙(よう)拝につぐ団体行進や、かけあし訓練がしいられ、「勝つまでは」ということが絶対の制約として「必勝の信念」と「堅忍持久」の精神がたたきこまれた。前述の番組では、朝礼の風景についても説明されていました。校長先生の訓話があり、生徒は休めの姿勢をとっていたけれど、「おそれおおくも!」とか、「かしこくも!」とか、その後に天皇の話題が出るような言葉が聞こえたとたんに、生徒は全員「気をつけ」の姿勢をとらなくてはいけなかった、とか。 上で引用した「学制百年史」にはこういう記述もありました。「また礼法とか礼節が強調され、一五度とか三〇度の礼のしかたを正確にするため、大きな定規を作って、いちいち児童のからだに当てて指導した学校もあった。」これなんか、後の、スカート丈を定規で測る風景の原型のように思えてなりません。 さて、こうして学校は戦時体制に組み入れられて行ったわけですが、次第に戦局が進んでいくと、学校の生徒、学生たちは、勤労動員、学徒出陣という形で戦争に直接協力させられるようになっていったそうです。そして、勤労動員の増加に伴って次第に授業が減らされていき、ついに45年3月「〈決戦教育措置要綱〉は,国民学校初等科以外の生徒・学生をすべて通年の勤労動員の対象とし,授業そのものをやめてしまった。(平凡社『世界大百科事典』)」とのことです。前述の番組の担当者(木坂順一郎氏)の締めくくりの言葉が、非常に印象に残っています。彼は、「戦後生まれの方々には信じられないかもしれませんが」として、戦争末期に授業そのものが廃止されてしまった事実を紹介し、「これは、まさに教育の荒廃以外の何ものでもありませんでした」と言っていました。 最近、「教育の荒廃」という言葉がよく聞かれます。森首相の私的諮問機関である「教育改革国民会議」(座長江崎玲於奈)は、去年の12月22日に報告「−教育を変える17の提案−」を発表したのですが、 そこにも、この「教育の荒廃」という言葉が見られます。 〔……〕いまや21世紀の入口に立つ私たちの現実を見るなら、日本の教育の荒廃は見過ごせないものがある。いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、凶悪な青少年犯罪の続発など教育をめぐる現状は深刻であり、このままでは社会が立ちゆかなくなる危機に瀕している。 (強調引用者)確かに、学級崩壊などは、深刻なようです。私自身も、大教室での学生の私語には悩まされています。トランプをしている学生を発見した時はちょっと脱力しましたが(なんで来るんだろう(^^;))。また、自治体の主催するとある「儀式」における若者たちの狼藉が話題になりました。最近の子供たちはおかしい、というような話はあちこちで耳にしますね。で、件の「教育改革国民会議」の見解によると、こうした教育の荒廃を招いた一因は、戦後教育にある、といいたいようです。ではどうすればいいか、というと「自分自身を律し、他人を思いやり、自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬の念を持ち、伝統文化や社会規範を尊重し、郷土や国を愛する心や態度を育てる」のだそうです。そのための提案の一つに「教育の原点は家庭であることを自覚する 」というのがあるのですが、「家庭は、命を大切にすること、単純な善悪をわきまえること、我慢すること、挨拶ができること、団体行動に従えることなど、基礎的訓練を行う場である(強調引用者)」などと言う表現に国民学校令の「団体訓練」や「基礎的錬成」という言葉を思い出してしまうのは、ちょっと意地悪すぎますかね……。しかし何と言ってもこの報告における提案の目玉は「奉仕活動を全員が行うようにする 」です。「小・中学校では2週間、高校では1か月間、共同生活などによる奉仕活動を行う。〔……〕将来的には、満18歳後の青年が一定期間、環境の保全や農作業、高齢者介護など様々な分野において奉仕活動を行うことを検討する。」だそうです。うーん……勤労動員?…… いや、別に森君の諮問機関の揚げ足を取るのが目的ではないのです。しかし、こうしたものが理想としている教育、というのには、どうしても戦前の国民学校が重なって見えてしまうのは事実だと思います。そして、それは、別の意味で「教育の荒廃」だったわけですよね。もちろん、彼らとて「伝統や文化の認識や家庭教育の必要性の強調は決して、偏狭な国家主義の復活を意図するものではない」てなことは言っています。しかしですねえ…… えーと、多分に「センスとして」という話なのですが……たしかに、成人式で爆竹ならすのもどうかとは思います。しかし一方で、何百人もの同じ坊主頭が粛々と整列し、「かしこくも!」という言葉に一斉に「シャキーン」と硬直する、という図も、滑稽かつかなり気味の悪いものだと思うのですが……。 それから、「教育の荒廃」を嘆く人だけではなく、私も含めて、われわれの頭の中には「学校というもののあるべき当たり前の姿」のイメージが何となくあると思うのですが、ひょっとすると、そういうイメージの学校というのは、国民学校とともに出来た部分も多いのかもしれない、と、あの番組を見て私は思いました。「ずーっと昔から続いている当たり前のこと」と思っているものも、意外とそうでもない、というのはよくあることですしね……。 まあ、こういうことを言うと、「なんだ、『戦前回帰を許すな』『いつか来た道』式のカビの生えた話か」とか思われちゃうんでしょうかね。うーん、困っちゃいますね……。▲TOP |
2001/04/25 キャラメルマン今日、電車に乗って、座席に座って本を読んでいたら(比較的すいていました)「ぷしゅ」という音がするので顔をあげると、正面の座席に座ったおじさんが缶ビールを開ける音でした。いや別にいいんですが、普通は通勤電車であんまりやらないかな、と思ったのでちょっとびっくりしました。といいつつ実はその人のことは今回の話には関係ありません。私はその後うとうとしていたのですが、私の隣に座った人が「この電車、○○に行くの?」と私に話かけていることに気づいて、目がさめました。ふと隣を見ると、混んでもいないのに私に体をぴったりつけるように座っているその男は、なんと言うか、人のことは言えませんが、ちょっと「怪しい」感じの人だったのです。年は40代か50代、やせていて、黒くて細いサングラスをかけていますが、ちょっとずり落ちそうな感じ。大きく足を組んで、ふんぞりかえったようにだらしなく座っています。そうして、私に顔をくっつけるようにして、話しかけているのですが、視線は微妙にそらしている模様。酒の匂いはしなかったので、酔ってはいないようです。私は、もちろん、人を見かけで判断するようなことはいたしませんので、動揺もせず、落ち着いて、○○駅にはとまるということ、△△に行きたいというので、△△には、○○駅で××線に乗り換えればよいのではないか、とあやふやな知識でお教えしました。私も○○駅で降りなくてはならず、また○○駅まではあと二駅だったので、私は、よかった……じゃない、残念だなあ(もっとおじさんとお話したいのに)と思いながら、本をかばんにしまいました。ところが、意外と駅間が長くて、なかなか着かない。おじさんは私にいろいろ話しかけて来ます。 「荷物、電車においてきちゃってさあ。とりに行くんだけどさ。もう電車出ちゃってんだろな。」 「ああ、そうなんですか……。」 「……おれ切符持ってなくてさ、ピンポーンピンポーンてなったんだけどさ、入っちまえばこっちのもんだよ。……出るときもねえからさ、にいちゃん、切符もってんだろ、にいちゃん先に出てくれよ。おれにいちやんの後にくっついてくからさ。ピンポンピンポンてなってもしったこっちゃないからさ。な、たのむぜ、にいちゃん。」 「……は、はあ……。」 「…………。」 「…………。」 「(小声で)あー……はらへった……めし食ってねえんだよね……」 これにはちょっと吹き出しそうになりましたが、一方で、正直いってちょっとまいったなあ、と思っていました。と思っていたら、悪いことに、じゃなくて幸い、電車は駅のはるか手前で突然急停車したのです。どうしたのかな、と思っていたら、車内放送で「線路内に人が立ち入っているので、緊急列車停止装置が作動しました。安全確認の後発車いたしますので、しばらくお待ちください」とのこと。私が乗っている車両は一番前の車両だったので、窓のそとを見てみると、線路脇の土手にたしかに人がいるのです。よくみると、そのおじさんは、柵を乗り越えて線路に入ってきたようなのですが、チェーンソーのような草刈り機を持ち、長い延長コードをひきずって、にやにやしながら歩いています。線路脇の草刈りでもしようとしていたのでしょうか。よくわかりません。どうやら運転手に怒られて、罰が悪そうに退散するもようですが、発車するまではまだ時間がかかりそうです。私の隣の例のおじさんは、いらいらしてきました。 「なんだよ。どしたのよ。」 「何か、人が入ってたみたいですね。」 「あいつかよ。なんだよ。ったく。……あー、おれ、吸っちゃうよ。ったく、誰が決めたんだよ。法律があるかってんだよ。日本国憲法に書いてあるかってんだよ。」 とかいいながら、あらあらおじさん、ポケットからたばこを出して吸い始めました。ははは(ちょっとひきつった笑い)……。そうこうしている内に、5分ぐらいで、「侵入者が立ち去ったので」電車は動き始めました。おじさんはなおも話しかけてきます。 「あんた、どっから来たんだい」 「え?□□から……」 「あんた学生さんだろ。就職なくて大変なんだろう」 「いや、学生じゃないです」 「どこの大学出てんだい」 「……東京の大学です」 「東京のどこだい」 「都立大学です」 「へー、むずかしい大学じゃねえか。えらいもんだ。……おれはね、東大出てんだよ」 「あ、そ、そうなんですか」 そしてその後、彼はさる超大手の銀行の名前を出し、そこに勤めていた、と言います。その銀行の合併の過程などを妙に詳しく説明しはじめました。そして、こういうのです。 「にいちゃん、もう銀行はだめだぜ。悪いことはいわない。預金するなら郵便局にしな。あそこはつぶれねえからな。コイズミが民営化とかなんとか言ってるが、そんなものはできっこねえんだから。」 「でも、コイズミは首相になっちゃうみたいじゃないですか。」 「そんなことはねえ。そんなことはわかったもんじゃないね。」 「いや、でもテレビで見てたら、もうほぼ確定みたいですよ。」 「なんだい、あんたテレビで言ってること信用するのかい。あんなもの信用できるわけないじゃねえか。考えてもみな。天気予報だって当たんないんだぜ。な?そうだろ?」 ちょっとうますぎるオチですが、実話です。 そうこうするうちに○○駅に着いたのですが、おじさんは、もっと先まで行って乗り換えることにしたそうで、「じゃ」と行って別れました。ふと見ると、おじさんはなぜか小さな花束を持っていて、お尻のうしろに置いているのでした。電車を降りてから気がついたのですが、私の後にくっついてピンポンピンポンぶっちぎり作戦はできなくなったわけで、切符ももっていないのにどうするんだろう。 というわけで、私は、今後テレビや新聞でいかなる報道がなされても、コイズミが総理大臣になったというニュースを信じないことにします。だって、どうして信じられるというんですか。直接見たわけでもないのに。天気予報すら当たらないというのに。今後、「コイズミ総理大臣」がテレビに映ったって、そんなもの偽物に決まってます。キャラメルマン1号に決まってます。だまされてはいけません。東大を出て、三○銀行に勤めていたおじさんが言うのですから、確実です。え?そんなのウソに決まってるって?いやいやむしろ、なぜテレビを信じておじさんの言うことを信じないのです? ▲TOP |
2001/10/31 演技と殉教(執筆は2000年春です)電車に乗ってうとうとしていたら、「ガタン」という音で目を覚ました。何かと思ったら、近くの座席に座った男子高校生たちの笑い声が聞こえ、床に携帯電話が落ちていた。「ガタン」という音はこの携帯電話が落ちた音だったのである。しかし、すぐに、その携帯電話は「落ちた」のではなく、「落とされた」ないし「投げつけられた」のだ、ということがわかった。 ちなみに、私が乗っていた電車というのは、JR相模線という、神奈川県を走るローカル線である。終点は、あのサザンの故郷、茅ヶ崎。単線で、ドアを開けるときには自分でボタンをおさなくてはならない、というのどかな電車である。車窓に見える風景もほとんど田園風景。しかし、乗っていて、ほのぼのした気分になるかというと、そうともかぎらない。それは、このとき目撃したような場面によく遭遇するからかもしれない。 私が乗っていたのは最後尾の車両だったのだが(といっても4両ぐらいしかない)どの車両も乗客はまばらだった。その4人の学生は、2人ずつ向かい合って座っていた。いや、一人は、靴を脱いで座席に寝そべっていたから、座っているもの「も」いた、かな。彼らは、紺のズボンに白いワイシャツ、ネクタイという制服姿だった。髪は黒く、短くて、一見したところ「普通」なのだが、みな一様に胸をはだけ、浅黒い顔をし、ドロンとした目つきをしている。一人は耳に銀色のアクセサリーをつけていた。つまり、いわゆる「不良少年(もう死語かな)」特有の匂いを発していたというわけだ。しかし、そのことは問題ではない。いや、これは言い訳めいているな。多少「眉をひそめる」ような気持ちもあったかもしれない。しかし、私が彼らに抱いた感情は、道徳的な非難というよりは、なんと言うか、好奇心である。とりあえず、その後私が見た情景を描写しておこう。 A:(落ちていた携帯をひろって)なんだ、強ええな、おまえの携帯。壊れてねえじゃん B:(笑顔で)そんなんじゃ壊れねーって A:うそ、どんぐらい強ええのかな。じゃもう一回やっていい?? B:(笑顔で)なんだよ C:(ガハハハ)ばか、かわいそうじゃんかよ A:大丈夫だよ。強ええから。なあB B:(笑顔で)…… A:じゃ今度さあ、上に投げてみよっか。なあB、いい? B:(余裕の笑顔で)いいよ A:(Bの顔をじっと見つめて)うそ、いいの?ほんとにやるよ、おもっきりやるよ B:(ますます余裕の笑顔で)いいよ A、かるく勢いをつける動作をやったのち、Bの携帯を、ほんとに思い切り上に投げる。 ガコッ!!(携帯が電車の天井にあたる音) ボコッ!!(跳ね返った携帯が床に落ちる音) A・B・C・D:ギャハハハハハ!!(大爆笑) Aは、Bの携帯をひろう〔Bよ、なぜ自分でひろわない……〕 A:おーっ!!強えー!こわれてねえ! Aは、Bの携帯をもてあそびながら、ひとしきり無責任にしゃべりまくり、しばらくしてから、もう飽きた、という表情で、向かいに座ったBに携帯を無造作に投げて返す。ところが…… C:(突然)なあ、俺にもやらせて!一回だけ B:(笑顔で)ばか、やめろよ、俺の携帯、「痛い、痛い」って泣いてるよ C:(残酷な笑顔でBを見つめ)大丈夫大丈夫、もう一回ぐらい。たのむ、やらせて しばしの沈黙のあと、B、とびきりの余裕の笑顔で、向かいに座ったCに携帯を投げてよこす〔なぜ渡す……〕。 そして、Cは投げようとするが、一瞬躊躇する。 A:何だよ C:ちょっ、車掌が見てるからさ…… Cは、運転室の車掌が向こうを向いていることを確認し、そして…… 「ガコッ!」「ボコッ!」「ギャハハ!!」…… こうして、あわれなBの携帯は、やっと持ち主のもとに返った。その後の彼らの話題は、競馬に移っていった。高校生なのに馬券を買ったのが係員にばれて、怒られた話とか、他愛もないものである。 このシーンを見ていて、まず思ったのは「ああ、こういうの、あったなあ」という嫌な感じである。まあ、普通に見れば、このシーンは、まさしくいわゆる「いじめ」のシーンだったのかもしれない(もちろん実情は、短時間の観察ではわからないが)。しかし、上のシーンは、単純に「AとCがBをいじめている」と記述できるようなものではなく、もっと微妙なものであったのではないか。見方によって「うさぎ」にも「あひる」にも見える図形があるが、それと同様に、上のシーンも、見方によって「いじめ」とも「じゃれあい」とも見える不安定さを含んでいる。そして、彼らのやりとりの中には、自分たちの居る状況の意味づけをめぐる、暗黙のうちになされていた駆け引き、いや戦いがあったのではないだろうか。 つまり、彼らは一種のゲームをやっていたのだとも言える。しかし、このゲームにおいては、誰がどの役割を演じるかが決まっていない。むしろ、状況を意味づける主導権をにぎって、優位な役割を獲得すること自体が、このゲームの目的なのである。 Bの(おそらく装われた)余裕は、それを物語っている。もしBが狼狽し、携帯を投げるのをやめてくれ、と懇願したならば、その瞬間、このゲームは「Bいじめ」である、ということが確定し、またBの役割は「いじめられっ子」であることが確定してしまう。このとき、Bは、みずからいじめられっ子「になった」と言えるかもしれない。そして、Aらにとっては、「Bがみずからいじめられっ子の役を引き受けたこと」自体が、Bをいじめる材料となるだろう。「弱さを自ら認めること」自体が、「弱さ」だからである。 つまり、このBの余裕は、このゲームでぎりぎりの優位を保とうとするBの戦略である。Bが余裕を見せているかぎり、AらはBを「いじめという意味でいじめる」ことはできない。というのも、このゲームは「じゃれあい」だからである。Aらの行為は何をやっても「いじめ」という「意味」をもつことができなくなる。AらがいくらBをいじめても、それは、「一見いじめに見えるが本当はじゃれあい」でしかないものになってしまうわけであり、Aらの行為は毒を抜かれたものになってしまう。そもそも、いじめとは、いじめの「行為そのもの」が問題であるというよりも、「いじめられっ子が困っているのを見る」ことが目的なのである。Aが飽きてしまい、いったん携帯をBに返したとき、Bのこの戦略は成功したかのように見えた。 しかし、Aらは、このBの戦略を逆手にとることもできるのである。Aらにとっては、何をやっても「いじめ」という意味をもち得ないということは、逆に、「じゃれあい」という口実のもとに何をやってもいい、ということにもなる。「ほお、これはいじめじゃない?じゃ、何やってもいいんだな?」というわけである。そうして、Aらは、大手をふって、行為そのものをエスカレートさせていけばいい。「いじめという意味」が問題だったAらは、戦略を変更し、「いじめの行為そのもの」に照準をあわせたのである。 ある意味ではこう言える。さきほどBの戦略によって「いじめに見えるが本当はじゃれあい」として毒を抜かれたAらの行為は、ふたたび転換され、「じゃれあいに見えるが本当はいじめ」になったのである。正確に言い直せば、こうなる。「『いじめに見えるが本当はじゃれあい』であるように見えるが実は本当にいじめ」。こうして、Cが突然自分にも携帯を投げさせろ、と言ってきたとき、Bの第一の戦略は崩れ、Bは再び窮地に陥ったと言えるだろう。 窮地に立たされたBも、再び微妙に戦略を変化させるのである。余裕を見せていたBが、「携帯が痛がっている」と言う言い方をし始める。このとき、もちろん推測でしかないが、Bは危うい賭けに出たのかもしれない。弱みを見せることは負けにつながるが、あまりに行為をエスカレートさせようとするAらに対して、このときBは「それ以上やると、しゃれにならなくなるぞ」というメッセージを送ったのではないだろうか。「しゃれにならない」とは、またもやゲシュタルトが変化する、ということである。量が質に変化する点がある。度を越した「じゃれあい」は、もはや「じゃれあい」ではなく、明確に「いじめ」の意味をもってしまう。そうなると、お前らはあきらかに弱いものいじめをする悪者になるがそれでもいいのか?と、Aは弱虫になる危険をおかしながら、それとなく訴えたのではないだろうか。そんなことを私は考えた。 ここで、この段階での、ゲームの参加者双方の目的をまとめておこう。 ・Aらの戦略は、これはいじめじゃない、と言いながらいじめること、つまり、いじめという意味づけを否定しながら、実際には行為としてのいじめを行うこと、である。 ・Bの戦略は、いじめられている、と認めることでいじめをやめさせること、つまり、いじめとしての意味づけをちらつかせることによって、行為としてのいじめをやめさせること、である。 どちらにとっても、いじめ「であり」かついじめ「でない」という状況がめざされていたのである。 「いやなことはいやと言う勇気をもて」などというが、そんな気楽なことが言えるのは、ゲームの外側にいる人間だけである。この閉じた空間では、自分の存在の意味づけをかけた闘争の中でもっとも有効な戦略が、携帯を渡すことだったのではないか。彼は、プライドのダメージと、携帯が受ける物理的ダメージを計りにかけ、相手の人数も考慮に入れて、計算した結果、あの行動を選択したのではないだろうか。 A「この間のG1、何だっけ、菊花賞だっけ」 B「それは秋でしょ。菊は秋じゃん〔論理的だ……だからいじめられるのか?〕」 A「なんだよ、しらねえよそんなん。夏はひまわりか?」 B「ばーか」 こんな会話を聞きながら、のろのろと進む相模線の列車の中で、私は窓の外に広がる田園風景をぼんやりと眺めていたのだった。▲TOP |
2001/12/21 アマタイについてここで見つけたんですが、大流行の『ハリー・ポッターと賢者の石』の原書タイトルは"Harry Potter and the Philosopher's Stone"らしいのですが、それがアメリカだけ違うらしいのです。アメリカでは"Harry Potter and the Sorcerer's Stone"になっているらしいのですが、その理由が、ほとんどのアメリカ人は"Philosopher"の意味がわからないから、という話です……て、ほんとかよ。ところで、私、ハリポタって、読んだことないんですが、なんか流行ってるみたいですね。でも私はあんまり読む気がしません。というのも、私としては「猫も杓子もハリポタ、ハリポタって……日本にはアマタイがあるだろ!」と言いたい感じなのですよ。アマタイ、すなわち天沢退二郎、純国産本格ファンタジーノベル作家です。実は私は、中学生から高校生 のころ、天沢退二郎に、か・な・り、はま っていました。というか、私の人格形成に大きな影響を与えたと言っていいかもしれない。しかし、天沢退二郎といっても知らない人が多いでしょうね……。この人は、詩人であり、宮沢賢治研究家としても有名なのですが、本職(?)は、明治学院大学の仏文科の先生です。で、この人が、1970年代後半から80年代にかけて、少年少女を主人公にした幻想的な冒険物語を何冊も出版しているのです。一応扱いとしては児童書ということになるのでしょうが、しかし、その独特の暗いトーンをもった濃密な神話的世界は、とても「子供向けの読み物」という枠には入りきらないものでした。私は1976年に出た『闇の中のオレンジ』という短編集を読んで打ちのめされて、以後、すっかりアマタイワールドのとりこになってしまったのです。その後、筑摩から同じ世界観を共有する連作「オレンジ党」シリーズを出したり、名作『光車よまわれ!』を出したりしていたのですが、80年代後半になって、そうした物語の発表はぷっつりととまってしまったのでした。本業がいそがしくなったのか、行き詰ったのかわかりませんが、非常に残念でした。「オレンジ党」シリーズの挿絵は、林マリ(たしか天沢夫人)によるモノトーンのものでしたが、この効果もすばらしいものでした。というわけで、ハリポタハリポタと言っている人にこそぜひ読んでほしいのですが……ところが、なんと!天沢退二郎の物語作品は、現在ほとんとすべて絶版で入手不能なのです!しどいわ……筑摩……。というわけで、興味をもたれた方はこちらの「復刊ドットコム」で投票を……。 別に国粋主義者ではないのですが、ハリーといういかにもイギリス人風の名前で、魔法使いてんじゃ、なんか、読む気が起きません。「ハリー」とか「ダーズリーおじさん」という名前を持った登場人物は、イギリス人の子供にとってはもちろん違うのでしょうが、日本人の我々にとっては、いわばリアリティがなさすぎると思います。つまりそれらは「お話の登場人物」の名前です。ほとんどの日本人は「ハリー」という名前の人間をお話の中でしか知りません。もともとファンタジーなんだからリアリティなんてなくたっていいじゃないか、と思うかもしれませんが、いやー、違うと思うんですよ。我々にとって馴染み深い現実の中に、突然虚構が現れる、あるいは、現実の中に突然ぽっかりと異界へ開かれた穴が現れる。この、「現実と虚構の境界」が生み出すどきどきさせる感じ、それがファンタジーの醍醐味ではないか、と私は勝手に思っているんですが。ハリーだのダーズリーおじさんだのという、(日本人にとっては)最初からうそくさい登場人物だと、なんか面白くない……。その点、アマタイの場合には違います。主人公は、ルミや一郎といった、「同じクラスにいてもおかしくない」子供たちです。以下は代表作のあらすじです。(こちらのページより借用させていただきました) ルミがお父さんと郊外の家に移り住んだ日、庭石の下に穴がのぞき、黒い影がうごめいた。その次の日から近くの空き地を中心に黒い悪魔が跳梁しはじめる。これに悠然と立ち向かう子供たちと彼等を助けるなぞの老人の冒険物語。 夢で見た黒い沼が、ある日突然現実となってその姿を現した。その正体とねらいは何か?沼の王との戦いに立ち上がった少年少女5人組<オレンジ党>の仲間達の前に、黒々と広がる無気味な世界……子供の心をとらえて離さない魅力あふれる長篇ファンタジー。 ある雨の日、一郎が見た黒い大男たち。そしてその日、水たまりから黒い手がのびて、一郎をひきずりこもうとしたのだ。なにかおかしなことがはじまっている……心おどる長篇ファンタジー。どうです、このわくわく、どきどきする感じ。この、「異界との境界」が生み出すどきどき感は、我々の世代が少年ドラマシリーズの「放課後の前衛性((c)中森明夫)」にはまった、ということに通じるかもしれません。そして、こうした感覚は「イギリスの全寮制の魔法使い学校にかようハリー」の物語ではたぶん得られないものじゃないかなあ……。▲TOP |