最近読んだマンガ

03/03/11 中沢啓治『はだしのゲン』

 イラクでもっとも高級なアッラシード・ホテルの玄関には、湾岸戦争当時のアメリカ大統領、つまり父ブッシュのタイル張りの顔がはめ込まれていて、そこには「BUSH IS CRIMNAL」(ブッシュは犯罪者だ)と書かれているそうです。ホテルに入る客は否応無くブッシュの顔を踏んでゆかなければならない、というわけです(森住卓氏のホームページその写真が掲載されています)。
 ところで、60年前の日本でも、同じ様なことがやられていたようです。中沢啓治の『はだしのゲン』に、ゲン兄弟と母親が憲兵に呼び止められ、地面に書かれたルーズベルトとチャーチルの顔(顔の横には「鬼畜米国ルーズベルト、鬼畜英国チャーチル」と書かれています)を踏まされる場面が出てきます(注1)。「きさまたちはなぜあれをふんずけて通らない!あのにくき鬼畜米英の指導者をふんずけられないとは、きさまたち非国民だぞ」怒鳴る憲兵にしたがってゲンたちは顔をふんずけますが、後でゲンの母親はこう言っています。「あんなものをふんずけて戦争に勝てると思っているんだから情けないね」。(図は『はだしのゲン』第1巻127ページ)鬼畜米英
 最近、マンガ喫茶で『はだしのゲン』を読んだのでこんな話からはじめたのですが、といっても私は、フセインが支配するイラクの軍国主義は、戦前の日本の軍国主義と共通している、とかそのようなことをいいたいわけではありません。そもそもどちらも実際に体験したわけではない私には、何も言えません。しかし、1945年の日本と2003年のイラクに共通点があることも事実です。それは、どちらの国も、疲弊し、アメリカに対抗する力をほとんど失っているにも関わらず、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍の攻撃を受け、多数の市民が殺戮された(されようとしている)、という点です。
 1945年7月、ベルリン郊外のポツダムでトルーマン・アメリカ大統領、チャーチル・イギリス首相、スターリン・ソ連首相が会談しました。会談ではドイツの戦後処理とともに日本についても話し合われ、7月26日、日本に対する共同宣言、ポツダム宣言が、米英中3国首脳の名で(注2)発表されました。宣言は、「日本軍国主義の駆逐」「日本国軍隊の完全武装解除」「日本の無条件降伏」などを含んでいました。7月28日、当時の日本首相鈴木貫太郎はこの宣言を「黙殺」すると言明しました。アメリカはそれを口実に、8月6日広島へ、8月9日長崎へ原子爆弾を投下しました。原子爆弾による死者は、広島長崎合わせて30万人を越えると考えられています。
 2003年3月、アメリカは、イラクが大量破壊兵器を隠し持っており、国連の査察に非協力的だ、ということを口実に、イラクへの攻撃を行おうとしています。その時に死ぬのはやはり多くの市民です。先日、アメリカの軍事関係者が、イラク攻撃について、開戦の初日に300発から400発のミサイルをイラクに撃ち込み、翌日も同じ数のミサイルを投入する、という作戦を明らかにしたそうです。集中的な大量破壊によってイラク側の戦意喪失を図るこの作戦について、この軍関係者は、それによって「ヒロシマのような効果」が期待できる、と言ったのだそうです。
 日本政府がこの発言に対して抗議したという話は聞きません。そして、日本政府は、アメリカが国連決議なしにイラク攻撃に踏み切った場合でも、アメリカの行動を支持する方針を固めたとのことです。小泉首相をはじめ、政府関係者は、しばしば「反戦の声が、イラクを、フセイン政権を利することになる」などと言います。アメリカに反対するということはイラクを支持するということだ、という発想、それは、アメリカの原爆投下を批判することは戦前の日本の軍国主義を免罪するということだ、というのと同じくらいバカげた発想です。
 いうまでもないですが、『はだしのゲン』のメッセージはそのような発想からまるで離れたところにあります。そもそも原爆は、作者中沢の父親(ゲンの父親のモデルでもあります)のような、軍国主義日本に反対していた人間をも殺したのです。中沢氏の父親は反戦活動を行ったため治安維持法違反として逮捕され、一年半留置場に拘置されています。中沢は小さいときから、日本がいかに無謀な戦争をしているか、と聞かされてそだったそうです。しかし、中沢氏が6歳の時、原爆が投下され、氏の弟と父親は、爆風で押しつぶされた家の下敷きになり、焼け死にました(お姉さんは一気に柱で押しつぶされ即死だったそうです)。物干し台にいて助かった中沢氏の母親の耳に、炎上する家の中から聞こえる、弟の「お母ちゃーん、熱い、熱いー!」と叫ぶ声と、父親の「キミヨー、何とか出来んのかー」と叫ぶ声が一生こびりつくことになったそうです。国民学校の壁によりそっていたため熱線の直撃を免れて助かった中沢氏は、その後、文字通りの地獄絵図を目の当たりにしました。「無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者共と、平然と原爆を投下したアメリカは許せん」という激しい怒りが、中沢氏に『はだしのゲン』を書かせました。(注3)
 さて、中公版の『はだしのゲン』には、評論家呉智英氏が『はだしのゲン』について書いた「不条理な運命に抗して」という文章が収録されています。次回はこの呉氏の文章について書くことにします。

※『はだしのゲン』は中公文庫版などで読むことができます。この中公文庫版には、ダウンロードしてパソコンで読めるeBOOK版もあり、10daysbookからオンラインで販売されています。こちらで購入できます。読んだことがない方は、ぜひお読み下さい。

-------注
*1 『はだしのゲン』は一応フィクションですが、作者の中沢啓治の体験に基づいて書かれているので、おそらく実際にこのようなこともあったのでしょう。

*2 ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名しませんでした(8月8日の対日宣戦布告ののち署名)。そのかわり、待介石中華民国総統の同意を得た、という形で、米英中3国首脳の名で発表されました。

*3 さらにいえば、『はだしのゲン』は、「悪いのは国家であって、民衆はいつも正しい」というような発想をも逃れています。『はだしのゲン』は、「あんな非国民はしごかんといけんのだ」と父親を密告した町内会長、原爆のやけどを負った息子をバケモノ扱いして部屋に閉じこめている一家、原爆孤児をさらって悪事をはたらかせるヤクザ、等々に対するゲンの激しい怒りが描かれています。ゲンは許せない人々を殴り、おしっこをかけ、立ち去ります。

2003/03/13

(前回からのつづき)
 と、いうわけで、中公版の『はだしのゲン』に収録されている、呉智英氏が1996年に執筆した「不条理な運命に抗して」という文章なんですが、ある意味でいつもの呉智英節ともいえる文章で、それなりに面白いとも言え、いちいち反論したりするようなものではないのかもしれませんが、あえてちょっと私の考えを書いてみたいと思います。
 呉氏の文章は、『はだしのゲン』の解説として収録されているわけで、当然『はだしのゲン』を評価(というか称賛)する内容になっています。ただし、その評価の仕方は、例のごとくかなりひねくれています。氏は「長年、『はだしのゲン』を愛読し、そのすばらしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとして使っている」そうなのですが、同時に、『はだしのゲン』の評価がある「定説」に支配されていることを憂えています。その「定説」とは、「『はだしのゲン』は反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核を訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核の思想は正しい思想である」というものだ、と呉氏は言います。しかし、氏は、この定説の前提となっている「反戦反核の思想は正しい」ということに対して疑問をなげかけ、反戦反核という思想は「正しいとは言えず、かといってまちがっているとも言えない」と言います(*)。
 この部分、『はだしのゲン』にかこつけて自説を展開しているだけとも思えるし、その内容にも納得いかないのですが、しかし、氏が感じているらしい、『はだしのゲン』がいつも「反戦反核の思想」と結びつけられて評価され、また逆に批判されてしまう、ということにたいするもどかしさのようなものは、なんとなくわかるような気がします。氏はこう言います。

 そもそも、何かを訴えたマンガが、何かを訴えているが故に良いマンガという評価の仕方に疑問もある。こうした評価の仕方だと、そのマンガの訴えが誤っていたら、マンガ自体を否定しなければならなくなる。もっとも、マンガ自体が否定されてもしかたがないような作品もある。それは、訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガだ。政党や宗教団体の宣伝マンガが、その好例である。
  マンガにしろ、美術にしろ、文学にしろ、何かを訴えるということは評価の基準にならない。その訴えた何かが正しかったか、まちがっていたのかなど、本質的な問題ではない。反戦を訴えようが、逆に好戦を訴えようが、また、反戦も好戦もその他の何も訴えていなかろうが、良いマンガは良いのだし、良い美術は良い美術なのだし、良い文学は良い文学なのある。それよりも、人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ。「はだしのゲン」は、この意味においてこそまさしく傑作マンガである。


 この氏の主張には、基本的には賛成です。たしかに、『はだしのゲン』を評価する人の中に、このマンガを「マンガとして」評価せず、「正しい思想を描いているから」というだけで評価している人がいるのは事実なのでしょう。そういう人は、『はだしのゲン』を評価しているつもりでも、実は『はだしのゲン』を本当の意味で読んではおらず、それどころか、マンガという表現手段を実は心のどこかでバカにしている、という人も多いでしょう。しかし、『はだしのゲン』は、「反戦を訴えているから」傑作なのではなく、「マンガとして」傑作なのだ。その通りです。……が、呉氏の次のように言うとき、私は「それは違うのではないか」と反射的に感じました。

『はだしのゲン』の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、『はだしのゲン』は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。

 さて。呉氏の言う、「稚拙な政治的言葉」とは、次のようなもののことでしょうか?

「戦争はわしらを不幸にするばっかりだ 日本は武力ではなく平和の道にすすまんといけん……わしはそう信じているんだ」(『はだしのゲン』eBOOK版第1巻40頁)

「ばかたれっ 朝鮮の人をばかにするようなことをいうなっ」「だ、だってみんないうとるぞ、朝鮮人や中国人はばかだって」「だまされるんじゃない! 戦争をはじめた日本のオエラ方がばかだとおしえこんだんだ。日本人がすぐれていて朝鮮人や中国人はばかでダメな人間だとな。よその国の人間はみんなだめで鬼みたいなやつだとおしえ……弱い相手だから日本は戦争に勝てるとしんじさせるためだ(……)おまえたちはだまされるんじゃないぞ。朝鮮の人や中国の人みんなと仲よくするんだ。それが戦争をふせぐたったひとつの道だ。軍人が政治の権力をにぎると軍国主義の暗いおそろしい世の中になるんだ。」(eBOOK版第1巻79-80頁)

「いつの世でもひとにぎりの権力者のために戦争で死んでいくのは名もない弱い国民だ……。」(eBOOK版第2巻109ページ)


 まず第一に、私は、呉氏の「稚拙」という言葉使いにずるさを感じます。ある政治的言葉が「稚拙」かどうかは、いったい何を基準にして決まるのでしょうか。また仮に『ゲン』の政治的言説が「稚拙」だったとして、それはその言説の正しさとは関係のないことです。こう言うと、「ほらお前は思想の『正しさ』にとらわれている」と言われそうですが、いや、私の言いたいのはそういうことではないのです。私が問題にしたいのは、むしろ、呉氏がさらに、その「稚拙」な政治的言説を「作者の訴えと単純に解釈してはならない」と言っている部分なのです。どうしてそのようなことが呉氏に断言できるのか、不思議です。むしろ、『ゲン』の政治的言説が作者中沢啓治の訴え「ではない」などと、どうして言えるでしょうか。
 中沢啓治はすばらしいマンガ家なのだが、ところどころイデオロギーに影響されて「稚拙な」政治的言葉を書いてしまっている。が、そういうところは気にせずに、人間を描いた傑作として『はだしのゲン』を読め、と呉氏はおそらくそういいたいのでしょう。彼はこう言っています。

素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない 中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。

 だが、私はこう思うのです。たとえ「稚拙」であろうと、「とってつけた」ように見えようと、『はだしのゲン』の中に見られる「政治的言葉」は、まぎれもなく作者中沢氏の言葉だったのであり、彼が心から訴えたかったことだったのではないか、と。そして、その「政治的言葉」は、一個のマンガ作品としての『はだしのゲン』、そしてそのすばらしさと決して切り離すことができないものなのではないか、と。呉氏は「政党や宗教団体の宣伝マンガ」を貶めて「訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガ」といい、『はだしのゲン』はそのようなマンガとは違う、と主張していました。しかし、私は、「訴えを除いてしまったら何も残らない」ということは、『はだしのゲン』にも、別の意味でやはりまさしく当てはまると思います。「稚拙」であろうとなんであろうと、反戦反核の「訴え」を取り除いた『はだしのゲン』は、もはや『はだしのゲン』ではありません。というのは、反戦反核の思想は、『はだしのゲン』という一個の作品を構成する不可欠な一部分だからです。
 『はだしのゲン』のマンガ表現が、政治の言葉に付随する単なる挿し絵にすぎないと考える人がいたら、それは、『はだしのゲン』に対する冒涜だ、と言いたくなります。が、逆に、『はだしのゲン』にみられる政治の言葉が、マンガ表現としての傑作に付随するとるにたらないものだと考える人に対しては、やはりそれも『はだしのゲン』に対する冒涜ではないか、と言いたくなります。『はだしのゲン』に見られる政治の言葉は、卓越したマンガ表現と結びついているからこそ訴える力をもつのだし、また逆に、『はだしのゲン』というすばらしいマンガ表現は、反戦反核の「訴え」と結びつくことによってはじめて輝きを得るようなものだと思います。「思想」と「表現」が分かち難く結びついた一個の作品が、傑作『はだしのゲン』なのであって、その意味では、マンガは思想の挿し絵だと思っている読み手と、思想はマンガの夾雑物だと主張する呉氏は、思想と表現を切り離しているかぎり同じアナのムジナであると思います。
 ところで、呉氏はこう言っています。

 私は他の場所で書いたことがある。『はだしのゲン』は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。二種類の政治屋とは、『はだしのゲン』は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。

 たしかにそうかもしれません。が、私は上の文章に、『はだしのゲン』を誤解した三種類めの政治屋、というのを付け加えたい気分です。すなわち、「『はだしのゲン』のすばらしさは反戦反核の訴えとは無関係だと主張する政治屋」つまり呉氏自身です。
 おそらく、呉氏のことなので、私ごときのこのような「稚拙な」反論は十分想定ずみだと思います。そうしたことをすべて見越した上で、あえて『はだしのゲン』の解説を書き、いわば「褒め殺し」を行う、という政治的魂胆が呉氏にはあったのではないか、というのは勘ぐりすぎでしょうか……。

※呉氏の文章は、中公愛蔵版『はだしのゲン』第三巻巻末を参照しました。

--------注
* 氏の議論はこうです。冷戦においてまがりなりにも平和が保たれていたのは、そもそも、核均衡理論という、「観念的な平和主義や核アレルギーとは違ったリアルな軍事観・政治観」があったからだ。だが同時に、核均衡理論自体が、観念的な平和主義や核アレルギーの広汎な存在がなければ成立しない理論だった。「もし、核兵器が恐ろしくないという誤解が広まったら、いつ戦争が始まったかわからない。核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡理論を支えているのである。」
 まともに相手をするべきではないのかもしれませんが、ちょっと稚拙な反論を試みてみます。まず、そもそも「均衡」という言葉そのものが欺瞞ではないでしょうか。米ソの双方は、常に均衡を破ろうと軍拡競争を行っていたわけですから。それがあとづけ的に「均衡理論」だの「抑止理論」だのと呼ばれただけです。また、平和主義が核均衡理論を支えていたなどというのはまったく嘘で、米ソの指導者たちの、報復、つまり自国が攻撃されることに対する単なる恐怖は、「平和主義」とかけらも関係がないと思います(報復がなければ戦争を起こそうとすることのどこが「平和」主義でしょうか)。