最近読んだマンガ

2003/11/16 手塚治虫『火の鳥』


 某大学の授業で手塚治虫の『火の鳥』の話をしている関係で、この機会に『火の鳥』を読み直しています。これが、やはりすごい。が、そんなことはみんながみんな言っていることなのであえて繰り返すことはやめましょう。角川文庫版で読み直しているのですが、昔読んだ巻と、読んでいない巻がありました(なんとなく、全部読んだような気になっていた)。で、読んだことのある巻は、本当に細部まで覚えているので驚きました。私が『火の鳥』を読んだのは、おそらく小学生のとき、もう20年以上前なんですが。当時は手塚治虫はまだ現役ばりばりで、かつ巨匠という位置づけでした。が、『火の鳥』は、大人向けというか、まわりの小学生は存在も知らない人が多かったように思います(なんか自慢してるみたいですが)。私の場合も、自分で読もうと思った、というよりは親が持っていたので読んだ、という感じです。当時読んだときは、強い印象をもった記憶があります。ときどきあらわれるちょっと古いセンスのギャグ的表現にとまどいながらも、なんだかすごい話だ、と圧倒されたように思います。で、今回20年以上ぶりに読み直してみたところ、当時と同じように圧倒されてしまったので、あらためて感心した、という次第です。ただ単に壮大なだけの薄っぺらい話、というのならいくらもありますが、『火の鳥』は壮大にして、なおかつ濃密です。といっても、長い期間にわたって断続的に書かれた各巻の間には、雰囲気と密度にかなりな差があるようです。まだ全巻読んではいないのですが、いまのところ、やはり初期のころのがすごいですね。どれもすばらしいですが、1969年に連載された『鳳凰編』は、ストーリー、絵、どちらをとっても非常に密度の高い、大傑作だと思います。
 で、今回、70年代、80代に書かれた後期の諸巻をほとんどはじめて読みました。「ほとんど」と書いたのは、中には、当時私が雑誌に連載されていたものをリアルタイムで読んだものもあったからです(『望郷編』『乱世編』など)。『COM』という幻の雑誌(私が小学生の時にはすでに廃刊となっていた)に連載された初期の諸巻を、私はいわば幻の傑作として単行本で読んだわけですが、そのころ(今調べたら1976年、小学6年生のとき)朝日ソノラマが『マンガ少年』という雑誌を創刊し、その目玉のひとつが「手塚治虫があの幻の傑作『火の鳥』を連載!」というのでした。この雑誌は、その他の作家のラインナップも含めて、「あの幻の雑誌『COM』の再来」みたいな位置づけで、かなりマニアックな感じの雑誌でした。というわけでこちらもしばらしくて休刊になり、いまややはり幻の雑誌となってしまいましたが。親もマンガずきであった我が家では、この雑誌を当初毎月買っていました。で、そこに連載されたものは、部分的に覚えていて、これまた懐かしかった(結末は覚えていなかったりした)。80年代以降の作品については、今回初めて読みました。特に、手塚が完成させた『火の鳥』の最後の巻、文庫本では上中下の3分冊になっている『太陽編』は、ちょっと手塚らしくない異質な雰囲気もあって、不思議な作品でした。これは角川の『野生時代』(これもいまはない雑誌だ)に86年に連載されたそうなのですが、このころ私は大学生で、手塚に対する関心が薄かった時期らしく、雑誌連載も読んでいません。
 さて、今回読み直してみて、気が付いたのは、宮崎駿の作品との共通性なのです。そんなこといまさらな話題なのかもしれませんが、私としては、意外な盲点というか、そうか、こんなに似ていたんだ、とちょっとおどろきました。たとえば、『太陽編』。これ、ほとんど「もののけ姫」です。狗族という土着の神々と人間との戦い、さらに狗族が蝦夷を思わせる姿に描かれているところ、また、異質な出自をもった主人公が人間と土着神の狭間にたって活躍するところ、など、ほとんどそのままです。て、いうかですね、不死の力を持つ神(シシ神)の首を求めて人間が……て、火の鳥じゃん(鳥が鹿に変わってるけど)。今回はじめて気が付きました(にぶいですね)。『乱世編』『鳳凰編』なんかも、仏教の扱いなど、『もののけ姫』とちょっと似ているかもしれません。さらに、マンガ版ナウシカを思わせるものも『火の鳥』にはたくさんあるように思います。『太陽編』に関しては、もう一つあります。この作品は、過去と未来が一巻の中で交錯する、という、『火の鳥』にしてはめずらしい構成なのですが、この未来のエピソードのほうは、妙に『未来少年コナン』に似ているのです。もろ三角塔みたいのが出てくるし、奴隷が反乱を起こして地下から出てくるところもそっくり。あとは、『異形編』の、異人歓待エピソード、つまり異形の「もののけ」(神)が癒されるために時空を越えた場所(蓬莱寺)に集まってくるところ、これはかなり『千と千尋』です。
 他にもあるのでしょうが、今回私が気づいたのはそんなところです。さて、これは、(1)宮崎が直接『火の鳥』を参考にした(2)無意識のうちに影響を受けた(3)二人の発想が共通しているので自然と似た作品になった、等々いろいろな可能性がありますが、そうした詮索はどうでもいいように思います。二人の作品どちらも共通して面白い、それでいいと思います。だいたい、よく考えてみると、『太陽編』が発表された1986年、「未来少年コナン」はもちろんのこと、「ナウシカ」もすでに世に出ていたわけですよね。てことは、逆に手塚が宮崎の影響を受けた可能性もある。
 が、さらにいえば、宮崎だけではありません。ここ20年のマンガ・アニメの傑作に見られるアイデアは、ことごとく『火の鳥』の中にある、とすらいえそうに思ってしまう。例えばエヴァンゲリオンにしたって、使徒=火の鳥とも言えるし、クローンのような話はすでに火の鳥の中でしょっちゅうでてくる。ま、そこまでいったらなんでも『火の鳥』のパクリってことになっちゃうので、言ってもしかたないんですが。まあとにかく、ちょっと長くなってしまったので、火の鳥はすごいと、そういうありきたりな感想でおわっときます。もうちょっと作品自体の分析もしたいのと、宮崎にはまっていたころの昔話を書こうと思っていたんだけど、時間もないので今日はこの辺で。

 2003/11/17

 昨日の続きです。桜井哲夫氏の『手塚治虫―時代と切り結ぶ表現者』(講談社現代新書)を読みました。大変面白かったです。実は今度書いた論文で手塚治虫のことも書いたのですが、私の書いたことがそんなに的はずれではなかったかな、と勇気づけられた部分もありました(ていうかもっと早く読んでおくべきだった)。で、これは論文に書いたこととは直接関係ないのですが、手塚治虫のことを読んでいると、私はどうしてもサルトルのことを考えてしまうのです。たとえば桜井氏の本の

手塚治虫の死は、確実にぼくに一つの時代のおわりをつげるものだった。(p7)
それでは、手塚治虫という天才の天才たるゆえんは、一体どこにあるのだろうか。一言でいってしまえば、彼が生涯、第一線で活躍する現役の知的職人であり続けたということである。(p10)

 というような文章は、「手塚」を「サルトル」に変えて誰かが書いていてもまったく不思議のない文章です。他にも、
 などなど、共通点はいくらでもある、と(私は)思うのですが。違いといえば、手塚はいまだに尊敬されているのに、サルトルはボロクソにいわれつくして忘却された、というところぐらいでしょうか。
 さて、桜井氏の本を読んで、さらにいろいろと手塚・サルトル関係について考えさせられました。
 まず、手塚は母親と仲が良く、父親に対しては最後まで嫌悪感を表明していたこと。これもサルトルと同じです(サルトルは継父ですが)。この辺は『図解雑学サルトル』を読んでね!(てへ。)
 それから、三島由紀夫との共通性に関する桜井氏の記述は特に興味深かった。というのも、私はかねがねサルトルと三島由紀夫の関係というのはどうなんだろう、と思っていたからです。一番わかりやすいエピソードは、ちょっとこじつけですが、三島も、サルトルと同じく、蟹が大嫌いだったそうなのです。三島は、「蟹という字を見るのも嫌いだ」と言っていたそうですが、その観念的なところも、なんかサルトルぽい。それはともかく、桜井氏の語る手塚と三島の関係です。

 しられているように、名門の血筋にうまれた三島は、生後四〇日で実の母親からひきはなされて、自分の夫をにくむ祖母にそだてられた(母のもとにもどったのは一〇歳の頃という)。そして、高級官僚の父は、彼が作家になることに徹底的に反対した。一方、加賀藩の儒者の家にうまれた母親は、文学好きで、義母や夫にあてつけるように、ひそかに三島が小説をかく手助けをした。三島は、生涯、父への嫌悪をいだきつづけたといわれる。
 三島と手塚治虫の気質のにているところは、彼らが徹底的に人工的な世界を構築することに情熱をかたむけたということだ。無機的といってもいい。絢爛華麗にみえようとも三島のえがく世界は、すべて観念的に構成された人工の無機的世界である。ドロドロとした現実のはいりこむ隙間はない。彼がみずからの人生すら一遍のフィクションにかえようとしてしまったことは、すでにしられているとおりである。
 手塚治虫はどうか。彼もまた無機的な人工的世界をつくりだすことに一生をついやしたといっていいのではないだろうか。(p39)


 で、ですね、この無機的人工的なものへの志向(それは「想像的なもの」への志向ともつながる)というのは、まさにサルトルにも当てはまると思うんです。祖父の書斎で、現実よりさきに百科事典を通じて世界を知った、と言っているサルトルは、生涯、自然的なものへの嫌悪と人工的なものへの好みを示しました。これも『図解雑学サルトル』のコラムを読んでね!(てへ。)
 まーこんなかんじで、きりがないのでやめときます。が、まあ、このへんはこじつけめいていますが、思想という点でも、桜井氏がまとめる手塚治虫の四つの思考様式のうちの少なくとも(1)と(2)は、まったくサルトルにも当てはまると思うのです。

(1)異質なものを排除すること(差別)への批判(現代マンガのもう一つのルーツたる劇画も出発点は、差別告発だった。このことは、戦後文化の中でマンガをかんがえるうえで、重要なポイントである)
(2)絶対的なものを信仰することへの疑義、すなわち一種の関係主義思想(「すべてを疑え」をモットーにしたのはマルクスだった)