2000/12/30 ボンバイエ!――黒い叫び――

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 カリブ海のほぼ中央に浮かぶその大きな島にコロンブスが上陸したのは、1492年である。彼はその島をヒスパニオラ島と命名した。やがてやってきたスペイン人たちは、この島を蹂躙し、住民たちを虐殺し、ここを彼らの植民地とした。9万から10万人いたこの島の先住民は1530年頃にはほぼ全滅していた。1697年、フランスがこの島の西半部をスペインから譲り受けた。フランス人がサンドマングと命名したその土地は、後にハイチと呼ばれることになる。
 1734年、フランス人たちはこの地でコーヒー栽培を開始した。不足した労働力を補うために、アフリカから多数の人々が奴隷として運ばれた。奴隷商人にさらわれたアフリカ人たちの多くが輸送途中で死亡したが、運よく生き残ったものには、農場での過酷な奴隷労働が待っていた。
 はじめてサンドマングを訪れた者は、笞の音と押し殺した悲鳴、そしてニグロの呻き声で目をさました。ニグロにとって日の出は、労働と苦痛の始まりを意味するにすぎず、日の出を呪った。日の出とともに仕事が始まり、八時に簡単な朝食をとり、そして正午まで働きづめだった。二時に仕事を再開し、日の入りまで、ときには夜の一〇時、一一時まで働いた。(C.L.R.ジェームズ著『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』24ページ)
 満足な食事も与えられず、家畜小屋のような住居につめこまれ、家畜のようにむち打たれながら働かされた。少しでも反抗したものは、残忍な拷問が待っていた。
 1791年、そのサンドマングで、黒人奴隷たちが大規模な反乱を起こした。この反乱は、奴隷出身のトゥーサン・ルヴェルチュールという卓越した指導者を得ることによってハイチ革命に発展した。トゥーサンは騙されて捕らえられ、獄死したが、後を引き継いだデサリーヌに率いられた黒人たちは、1803年、ナポレオン軍をやぶり歴史上初めての黒人共和国ハイチを樹立した。
 蜂起した黒人たちは、集会や行軍の際に次のような歌を歌っていた。
Eh! Eh! Bomba! Heu! Heu!
Conga, bafio te'!
Conga, moune' de le'!
Conga, de ki la
Conga li!
 クレオール、すなわち、植民地の黒人たちがフランス語とアフリカの諸言語をもとに作り上げた言語で歌われたこの歌の意味は、実ははっきりとはわかっていない。しかし、これが、もともとはヴードゥー教の儀礼の際に歌われたものであることは間違いない。ヴードゥー教とは、アフリカ系土着信仰とキリスト教の融合によってできた宗教であり、憑依現象をともなう儀礼を特徴とする。ヴードゥー教は、ハイチの黒人蜂起において奴隷たちの戦いの精神的支えでもあった。この歌詞の訳例をいくつかあげておく。
白人と白人の全財産を破壊することを誓う。この誓いが守れぬくらいなら死んでしまおう。(C.L.R.ジェームズ著『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』32ページ)
エー!エー!ボンバ!エー!エー!/私は黒人に誓う!/私は白人に誓う!/私は精霊たちに誓う!/アリャー!/あなたも彼らに誓いなさい(同書436ページ)
エー!悪魔ボンバよ、黒人を捕らえよ、白人を捕らえよ、魔法使いを捕らえよ、彼らを捕らえよ(浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』110ページ)
 「ボンバ!エー!」というこのかけ声には、過酷な奴隷労働を強いられてきたハイチの黒人たちの怒りと怨念が込められていた。
 この同じかけ声が、ハイチ革命から200年後、アジアの島国、しかもプロレスリングの試合会場にこだますることになる。それは、プロレスラー・アントニオ猪木のテーマソング、「炎のファイター」である。印象的なトランペットの旋律が流れた後、ドラムに合わせたかけ声が入る。「イノキ!ボンバイエ!イノキ!ボンバイエ!……」しかし、ハイチのコーヒー農園の黒人奴隷たちと、日本のプロレスラーを結びつけるのは、「ボンバイエ」というこの言葉だけではなかったのである。

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 アントニオ猪木、本名猪木寛至は、1943年横浜に生まれる。幼くして父を亡くした猪木は、祖父のもとで育てられた。体は大きかったが、平凡な子供だったらしい。しかし、中学2年の時、彼の生活は大きな変化を迎えることになる。一家でブラジルに移民することになったのである。1957年2月3日、猪木家を乗せた「サントス丸」が、ブラジルに向けて出航した。猪木家は、アメリカに嫁いだ姉と次男を除く総勢11名である。しかし、猪木の最愛の祖父は、航海の途中、毒性の高い青いバナナを食べたことがもとで腸閉塞にかかり、あっけなく死んでしまう。一ヶ月半の航海を終え、猪木家を乗せた船はサントス港に入港した。そして、猪木とその家族は、上陸してすぐ、ブラジル奥地のコーヒー農園で働くことになったのである。楽園を夢見てブラジルに渡った猪木家は、ファゼンダ・スイッサ(スイス人の大農場)というスイス人の経営する広大なコーヒー農場で、一年半の契約で働くことになっていた。ところが、家族にあてがわれたのは、土間に板張りの粗末な家で、電気も水道もきていないうえに、便所もないという代物だった。そして、彼らを待っていたのは、「奴隷労働」だったのである。
 次の日から、希望に燃えた私たちを待っていたのは、過酷な奴隷労働であった。私は今でも、あの頃の夢にうなされることがある。着いた翌朝は五時にラッパの音で叩き起こされた。空はまだ薄暗い。私は畑用の靴を用意していなかったので、裸足でコーヒー畑まで歩いた。朝露で濡れた赤い大地は、ひんやりと冷たかった。仕事の内容はコーヒー豆の収穫。一年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないのである。〔……〕
 実を落とすためには枝をしごかなければならない。最初は用意していた軍手をはめて、しごいていたのだが、すぐボロボロになるし、軍手に枝が刺さって使い物にならない。仕方なく軍手を捨てて素手でしごくのだが、これが物凄く痛いのである。手のひらに棘が刺さって、血が噴き出してくる。それでもしごいていると、やがて皮がズルリと剥け、傷口に棘が食い込む。痛みで涙を滲ませながら、何とか作業を続ける。それを夕方五時まで十二時間。やっと家に戻って、手のひらに赤チンを塗り、フェジョアーダという、豚の干し肉と豆を煮た不味い料理を食べると、ボロ雑巾のようにベッドに倒れ込む。そしてまた翌朝五時に叩き起こされ、傷が癒える暇もなく同じ労働が続くのだ。数日後、夜逃げした家族が撃ち殺されたという話を聞いた。〔……〕
 一ヶ月後に賃金が支払われた。家族が死にもの狂いで働いて、作業や生活に必要な物を買ったら、ほとんど手元に残らない金額だ。ここから抜け出せないようなシステムになっているのである。私たち一家は奴隷だった。馬に乗った作業監督は一日三回見回りに来る。彼の腰にはいつもピストルと鞭が下がっていた。(猪木寛至『アントニオ猪木自伝』47-50ページ)
 その後、コーヒー農場との契約を終えた猪木家は、落花生栽培の成功で財産を築き、サンパウロに家を買う。そして、1960年、青果市場で働いていた寛至は、ブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、レスラーになるため日本に帰国することになる。猪木がブラジルの地を踏んでから3年後のことである。猪木は18才になっていた。
 1791年、ハイチのコーヒー農場の奴隷たちが白人に対する戦いに立ち上がり、「ボンバ!エー!」とときの声をあげた。その200年後、ブラジルのコーヒー農場で奴隷労働を体験した日本のレスラーが、リングの上で「ボンバイエ!」という声援をあびる。もちろん、猪木は本当に奴隷であったわけではないし、いくら過酷であったとはいえ、ハイチの黒人たちの境遇はそれをはるかにしのぐ悲惨なものだったかもしれない。それにしても、偶然にしてはできすぎたこの符合に不思議な因縁を感じるのは、私だけではないだろう。
 では、ボンバイエというこの不思議なことばと猪木を結びつけたのは、何だったのだろうか。実はそれは、猪木と、虐げられた同胞のために戦い続けた一人の偉大な黒人ボクサーとの友情だったのである。

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 モハメド・アリーは、1942年、アメリカ南部、ケンタッキー州ルイビルの黒人居住区に生まれた。生まれた時の名はカシアス・クレイ。21才の時彼はこの名前を捨て、モハメド・アリーと改名することになる。父親は看板絵描きだった。アリーの少年時代のアメリカ南部では、ジム・クロウと呼ばれる人種隔離法のもと、黒人の権利が著しく制限されていた。多くの公共施設が黒人用と白人専用に分けられていた。選挙権も実質上奪われていた。白人たちによる黒人に対するリンチも横行していた。アリーが13才の時、シカゴからミシシッピー州の伯父の家を訪れていた14才の黒人少年エメット・ティルが、白人優越主義を掲げる秘密結社KKKのメンバーと見られる3人の白人男性に殴られ、射殺されたあげく、川に放り込まれるという事件が起こった。ところが、逮捕された3人の男は裁判で無罪判決を受けた。アリーはこの事件に衝撃を受け、白人中心のアメリカ社会に対する強い不信感を抱くようになる。
 この事件の少し前から、アリーはボクシング・ジムに通うようになっていた。早くから才能を示した彼は着々と実力をつけていき、1960年のローマ・オリンピックではついに金メダルを獲得し、アマチュア・ボクシング界の頂点に立った。ところが、故郷ルイビルに金メダルをもって凱旋したアリーが町の食堂に入ったところ、黒人だという理由で給仕を拒否されてしまう。食堂を追い出されたアリーは、金メダルをオハイオ川に投げ捨てる。人種差別国家アメリカとの決別であった。
 その後プロに転向し、快進撃を続けた彼は、1964年ついに世界ヘビー級チャンピオンになる。同じ頃、彼はブラック・ムスリム組織「ネーション・オブ・イスラム」に入り、カシアス・クレイという「奴隷の名」を捨て、モハメド・アリーと改名した。ところが、1966年、絶頂期の彼を選手生命の危機が襲った。
 当時、アメリカはベトナムでの戦争にのめり込んでいた。1965年に北爆が開始され、戦争は泥沼化していた。アメリカ国内では若者を中心に次第に反戦の機運が高まっていた。そんな中、ベトナム戦争を、アメリカ白人支配階級の植民地主義によって引き起こされたものと主張するネーション・オブ・イスラムの考えにしたがって、1966年に、彼は「俺はベトコンに恨みはない」と語って徴兵を拒否した。彼はこのような言葉も残した。「黒人を奴隷にした白人が、有色人種を支配するために、遠い外国で貧しい人々を殺している。私はそんなことを手助けするつもりはない。」彼は起訴され、最初の裁判で有罪判決を受ける。その後も裁判闘争は続くが、アリーはパスポートを奪われ、ボクシング・ライセンスを剥奪され、国内での試合を3年5カ月禁止されてしまう。絶頂期に長期間ボクシングのできない生活を余儀なくされたわけだが、彼は1970年にカムバックする。そして翌1971年、ザイール(現コンゴ)でジョージ・フォアマンとの壮絶な試合を行い、ヘビー級タイトルを奪い返すのである。
 「ジャングルの中の闘い」と呼ばれたこの世紀のヘビー級タイトルマッチは、ザイールの首都キンシャサ市外の巨大なスタジアムで行われた。この試合をザイールに招致した大統領モブツは、独裁政権の宣伝のためにこの試合を利用しようとしたのだが、アリーにとって、祖先の土地であるアフリカの地で試合を行うことは特別に意味のあることだった。
 試合当日の10月30日、スタジアムは8万人の観衆で埋め尽くされていた。そして、アリーが入場したとき、アフリカ人たちは熱狂的な声援で彼を迎えたのである。「アリー!ボンバイエ!アリー!ボンバイエ!……」
 試合は、フォアマンの圧倒的有利とされていたが、8ラウンドの死闘の末、アリーのパンチがフォアマンの巨体をキャンパスに沈めた。観客は総立ちになり、リング・アナウンサーの声は、「アリー!ボンバイエ!」を連呼する声にかき消された。

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 スーパースターとなったアリーだが、その後次第に衰えを見せ、1976年9月、一端引退する。その直前の6月26日、アリーは日本に招かれ、日本武道館で猪木との「格闘技世界一決定戦」を行った。アリー側の提示した、立った状態でのキックを禁止するという条件を呑まされ、プロレス技を封じられた猪木は、リングに寝た状態のままキックを繰り返すという奇策をとった。このため、引き分けとなったこの試合は「世紀の凡戦」と酷評された。アリーを招いた新日本プロレスは、9億という莫大な負債を抱えることになった。猪木の人気も落ち、観客動員数も一時減少した。
 試合直後は「あの試合はお遊びだった」と言っていたアリーだったが、いつしか猪木とアリーの間には友情が生まれていた。そして、アリーから猪木にプレゼントされたのが、アリーの伝記映画「アリー・ザ・グレイテスト」のテーマソングだったのである。こうして、「アリー!ボンバイエ!」を「イノキ!ボンバイエ!」に変え、猪木のテーマソング「炎のファイター」が生まれた。モハメド・アリーはその後パーキンソン病におかされ、病と闘いながら平和運動を続けるが、1998年、猪木の引退試合の会場に、そのアリーの姿があった。
 「ボンバイエ!」日本のプロレス・リングに歓声が響き渡った。しかし、この言葉には、ハイチのコーヒー農園、ブラジルのコーヒー農園の黒人奴隷たち、そして、アメリカの、コンゴの黒人たちの、自由をもとめる叫び声が、はるかにこだましていたのである。

参考文献
  • 猪木寛至著『アントニオ猪木自伝』新潮文庫
  • 臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書
  • C.L.R.ジェームズ著、青木芳夫監訳『ブラック・ジャコバン――トゥサン=ルヴェルチュールとハイチ革命』大村書店
  • 浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』北海道大学図書刊行会
  • 平岡正明著『黒い神』毎日新聞社
  • ジャック・ルメル著、国代忠男訳・解説『モハメド・アリー――ブラック・アメリカン・ファイター』解放出版社
※そのほかインターネット上のいくつかのサイトから貴重な情報を得ました