1999/12/20 黄昏の偶像先日、夕方、京王相模原線の某駅のホームで、偶然ロケ現場に遭遇しました。ホームにのぼる階段をのぞき込むようにして、カメラマンやマイクをもった人、ディレクターやAD風の人、という、いかにもの撮影スタッフが陣取っていました。どうやら下から誰かが上ってくるところを撮影しようとしているようです。電車を待ちながらも、誰が上がってくるのかなあ、と野次馬根性でそれとなく見守っていたら、上がってきたのは渡辺満里奈でした。「ピーチだよ、ピーチだよ」とささやいている女性の野次馬がいたので、見たことはありませんが確か「ピーチな関係」というドラマを今やっているはずなので、そのロケだったのでしょう。 私は渡辺満里奈はけっこう好きなほうなので、ちょっと得した気分がしました。よく、アイドルなどを目撃した人が、ほんものはテレビよりもずっと綺麗だった、と言いますが、私はそうは思いませんでした(たしかにかわいかったけど)。しかし、自分の目の前の3・4メートルぐらいしか離れていないところにほんもののアイドルがいる、というのは、不思議な感じでした。いまどきの人はタレントに会ったからといって大して驚かないのかもしれませんが、私にとっては、テレビの中でしか見たことのないあの渡辺満里奈と同じホームの上で同じ空気を吸い、網膜には「ほんものの」渡辺満里奈に反射した光が直接入って像を結んでいる、ということは(大げさですが)結構素朴に感動的体験でした。 それに、渡辺満里奈が、私のよく知っている風景の中で、普通の顔をして、スタッフと笑いながら会話をしている、というのもある意味で不思議な感じでした。現実の日常風景が急にテレビの中の風景のように見えてきた、とも言えるし、逆に、テレビの中の一種記号的なキャラクターであった渡辺満里奈が急に生身の現実的な人間として見えてきた、とも言えるし……。おおげさにいえば、私は、日常と非日常、現実と虚構が交錯するような奇妙な感覚をもちました。撮影用のライトに照らし出されていたせいもあるでしょうが、何か、神秘的な場面を目撃しているような気すらしました。 ところで、プラトンの『国家』の中に、有名な「洞窟の比喩」というがあります。子供のころから洞窟に閉じこめられている囚人がいるのですが、彼らは体を堅く固定されて、洞窟の壁しか見えないようになっている。そして、彼らの背後で、人形や動物の木彫りなどをもって行き交う人々がいて、その影が、灯に照らされて洞窟の壁に映っている。そうすると、囚人達はこの影を実物だと思いこんでしまうだろう、という話です。プラトンによると、この洞窟は、日常的な現実の世界を表し、洞窟の外は、真の実在であるイデアの世界を表しているのです。目の前にある手の触れられる世界が実は「にせもの」で、見ることも触れることもできない世界の方が「ほんもの」であるというこの考え方は、奇妙と言えば奇妙です。ニーチェは、それを「背後世界」論として批判しました。しかしこの話は、テレビの中の世界とテレビの外の世界の話と考えると妙に分かりやすい。我々は普通、ブラウン管の上に映し出されたいわば仮象的存在としてのアイドルにしか会えないわけです。「ほんものの」アイドルは、手を触れられないところにしか存在しない。 その意味では、「ほんものの」アイドルを直接見る、というのは、洞窟の壁に映った影しか見ていなかった囚人が洞窟の外でイデアそのものを見るようなもので、非常に神秘的な体験なわけです。それは、いわば神を直接見る体験(ヴィジョン)です。この体験の神秘性が、「ほんものの」アイドルはテレビで見るよりも綺麗だ」という伝説を生み出す原因なのではないでしょうか。つまり、アイドルが神々しいからそれと出会う体験が神秘的になるのではなく、虚構と現実が交錯するという体験が神秘的だから、「ほんものの」アイドルが神々しく見えるのではないでしょうか。 我々にとって、普通現実やほんものというのはまったくありがたくないものです。「有り難く」ない、つまり、普通に存在している日常的なものだ、ということです。「ほんものの」家族、「ほんものの」上司、などとは毎日会っているわけで。それは、まさに、いつでも触れられる「有り触れた」(有り溢れた)ものでしかありません。しかし、同じ現実といっても、虚構が「現実化」したもの、となると話は違います。「ほんものの」アイドルとなると俄然ありがた味が増します。というか、ご存じのように「アイドル」とはそもそも「偶像」なわけですが、あらゆる「偶像」はもともと、そのような虚構の現実化が持つ「有り難さ」を利用するために作られたものではないでしょうか。 もともと、神さま、仏さまは、その辺を歩いていない、非現実的な存在であるからこそ畏敬の対象なのですが、現実化した神としての偶像は、逆に、現実的な存在であるからこそ意味があります。神は、「有りふれて」いては困る。しかし、「無い」となるとそれも困る。まさに「有り難い」存在なわけです。手を触れられないはずのものが手を触れられるもの(偶像)として存在する、という「有り難さ」の感覚が、民衆に神に対する畏敬心を植え付けたのではないでしょうか。 こうも言えるかもしれません。「現実化した」虚構は、有り触れた現実よりも、ずっと現実性が高いのです。現実化した虚構のほうが、現実そのものよりも現実性が高い、という逆説。 生のアイドルを過剰に追い求める追っかけや、さらには異常なストーカーのような人というのは、この、一種の濃縮された現実性にとらわれてしまった人と言えるのかもしれません。ところが、彼らにとっての「ほんものの(生の)」アイドルは、そのような「有り難い」ものだとしても、アイドル自身にとっての「生の」自分、とは、単なる「有り触れた」日常生活でしかないわけで、そこにギャップが生まれてしまいます。常に虚像として生きることを強いられるアイドルにとっては、逆に「有りふれた」日常の方が貴重だったりして、そこまでを乱されてはたまったものではないでしょうね……。 |