違和としての身体
違和としての身体――岡崎京子とサルトル――
永野潤
金井淑子・細谷実 編『身体のエシックス/ポリティクス―倫理学とフェミニズムの交叉―』〈叢書=倫理学のフロンティア10〉(ナカニシヤ出版 2002年9月発行 2200円
■目次
1 身体と違和感
★きれいなものときたないもの
★嘔き気と身体
★生きられるモノとしての身体
2 見られる身体
★鏡の中の身体
★見られるモノとしての身体
★見せるモノとしての身体
3 「フリをする」こと
★演技する身体
★スリルとサスペンスと冒険
★違和としての身体
★嘔き気と身体
ある日、ハルヲ君はワニをじっと見てこうつぶやく。「動物ってへんだな へんなかたちしてるし 何かんがえてんだろ」そして彼は、ふとこんなことに気づくのである。「考えたら 人間もへんなかたち してるよな」。彼は自分の手をじっと見る。そしてこう言う「げ〜〜!! じ〜〜と手をみてたら きもち悪くなってきた へんなかたちぃ!(3)」図1
実は、これとよく似たシーンが、一九三八年に発行されたジャン・ポール・サルトルの小説『嘔吐』にある、と言ったら、意外に思う人も多いだろうか(4)。こちらも作家の卵の主人公アントワーヌ・ロカンタンは、ブーヴィルという街で年金生活を送る三五歳の独身男。彼は、ある人物の伝記を書くためにこの街に滞在しているのだが、いつのまにか執筆を放棄してしまう。ある日、彼はふと自分の手をじっと見る。すると、自分の手が、一匹のけだものであるかのように思えてきて、彼はきもち悪くなってしまうのである。
「私は机の上に投げだした自分の手を見る。それは生きている――それは私だ。手が開く。指が拡がり伸びる。手は仰向けに寝て、脂ぎった腹を私に見せている。ひっくり返ったけだもののようだ。(……)私は、私ではないテーブルの上に置かれた手の重さを感じている。それは長い、じつに長い、この重さの感じはなかなか通りすぎない。それが通りすぎるという理由はない。しまいには耐え難くなる……(5)」。
『pink』のハルヲ君と『嘔吐』のロカンタン君は、ともに、自分の身体(の一部としての手)を見て、「気持ち悪さ」を感じている。ロカンタン君は、この気持ち悪さを「嘔き気」と呼ぶ。そして、嘔き気とは、自分の身体の「存在(実存)」をとらえることでもある。ロカンタン君は言う。「いま私は、腕の先端に手の重さを感じている。手は少し、どうにか、柔らかく弱々しく引っ張る。それは存在する(6)」。
自分の身体という、一番身近で見慣れているはずのものが、見慣れない、気持ちの悪いものとして現れてくる。それが彼らの体験である。彼らはともに、自分の身体とのしあわせな関係を結べなくなってしまっている。われわれは、そうした感覚を、自己の身体への「違和感」とさしあたり呼ぶことにしよう。そもそも「違和」という言葉は「からだの調和が破れること」を意味する(広辞苑)。岡崎京子のマンガには、からだの調和が破れてしまったように見える人物が数多く登場する。それは彼女のマンガの特徴の一つであると言ってもいいだろう。