合法性が正当性を虐殺するとき

『情況』2006年1・2月号, 情況出版(p.81〜93)

永野潤


法と公共性

 愛知万博開幕の二ヶ月前の二〇〇五年一月、名古屋市中区の白川公園で、名古屋市による野宿生活者のテントの強制撤去が行われた。あるスポーツ新聞は、それを次のように伝えた。

愛知万博控え名古屋市、ホームレス“青い小屋”強制撤去
 公園をわがもの顔で不法占拠するホームレスの“青い小屋”。愛知万博開幕を2カ月後に控えた名古屋市は24日、市中心部の公園で施設移住を拒否する5棟を撤去するため行政代執行に踏み切った。ピーク時には約250棟がひしめき真っ青だった公園もこれですっきり。ブルーシートの中は床を張り、発電機でテレビも楽しみ、暖かい布団…こんな不法占拠は東京や大阪などで今も続く。〔写真:撤去を代執行するため不法占拠の小屋わきでホームレスを説得する市職員ら=24日朝、名古屋市中区〕
(……)作業冒頭で市側は、ハンドマイクで「行政代執行法に基づいて撤去します」と呼びかけたが、ホームレスらは居座って反発、腕を引っ張って小屋外に出そうとする市職員らと小競り合いにある場面も。さらにホームレスの不法占拠を支援する団体から「暴力はやめろ!」などの怒声が上がるなど騒然とした。
[SANSPO.COM(http://www.sanspo.com/)より引用]

 今回の行政代執行は、二〇〇二年七月成立した「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(記事では「自立支援法」という略称が用いられている)制定後全国初であった。記事によると、白川公園の「ホームレス小屋」は二〇〇一年に最多の約二五〇棟を数えたという。「自立支援法」施行後、市はあわせて三五〇人を収容可能な一時宿泊所(シェルター)を建設し、市の担当職員らが「月に二度、小屋を回って施設入居や生活支援を受けることなどを呼びかけてきた」という。さらに市内には一〇〇〇人を収容可能な宿泊施設「自立支援センター」があるが、入所しているのは「わずか三〇八人」だという。記事では、「同市健康福祉局の話」として、「生活保護や健康回復の大切さを説明しても、集団生活や社会復帰を嫌う人が多い」と書かれている。
 この記事では、東京・墨田公園や大阪・長居公園の事例もあげられ、表題も含め、ホームレスの「不法占拠」という言葉が六回使われている。そこには、野宿生活者たちを、不法な、つまり「法」の外にある存在として印象づけようとする意図が明らかに見てとられる。一方、「行政代執行法」と「自立支援法」という二つの法の名前が挙げられ、行政側の措置の「合法性」が強調されている。しかしこの記事では、シェルターへの入所資格がテント・小屋持ち野宿者に限定され、より困っているテント・小屋なしの野宿者の入所が拒否されていたこと(シェルターが小屋撤去の受け皿とされていたこと)、また、市の職員の入所「呼びかけ」が、実際は一人の野宿者を多人数で囲んで暴言を吐くなどの強引なものであったこと、そして、シェルターを経由せず居宅保護を受けるという選択肢の説明が一切なされない事実上の入居強制だったこと、などについてはまったく触れられていない。また今回の行政代執行が、市側と野宿者側の話し合いが進展しつつある中突然強行されたことについても触れられていない。名古屋市でのホームレス支援活動を行っている藤井克彦は、これまで行われてきた市側と野宿者側の法的議論を紹介しつつ、今回の行政代執行はそれ自体「違法」であるとし、さらに、ホームレス施策に「公共施設の適正利用」という目的・問題意識を持ち込んでいる「自立支援法」自体に問題があると指摘する[Fujii2005]。
 だが、野宿者の排除という措置に少しでも疑問を差し挟もうものなら、次のような言葉が返ってくるかもしれない。
「そうはいうけど、ホームレスの行為が不法なのは事実でしょう?」「法を侵してるんだから、えらそうなことは言えないよ」「不法は不法だから」
 野宿者に同情する人がいても、こう付け加えることを忘れはしない。「市のやり方もちょっとどうかと思うな。もちろん、不法占拠もよくないけどね。」

「不法は不法である」「法は法である」

 これは、「法」の存在性格を明確にしめしている。それは、「それであるところのものであり、それでないところのものでない」という仕方で存在する。モノの存在の仕方であり、惰性的な存在の仕方である。サルトルはそれを「即自存在」と呼ぶ。
 さて、例えばここに「芝生に入るべからず」と書かれた看板がある。この看板は、それ自体として見れば単なる木ぎれであり、すなわち単なる惰性的なモノである。しかしそれは、芝生の前のわれわれを拒絶し、否定する「力」をもった一つのモノとして存在している。この「否定」の力は、もともとはわれわれが世界に与えたものである。例えば私が芝を、あるいはイネを植える。この「植える」という「行為」によって、私はその芝生あるいは畑に「入るべきではないモノ」という性格を与える。ところが、逆に、「否定」の力がもともと世界の側に存在し、われわれの「行為」を規定しにやってくる、と考えたがる人々がいる。禁止の看板があるがゆえに芝生に入らない、と考える精神のあり方を、サルトルは「くそまじめの精神 l'esprit de sérieux」と呼ぶ。

 くそまじめの精神においては、私は対象から出発して私自身を規定するのであり、私は私が目下着手していないようないとなみを、すべて不可能なものとしてア・プリオリにしりぞけ、私の自由が世界に与えた意味を、世界の方から来たものとして、私の義務と私の存在を構成するものとして、とらえる。[EN76-7/I138]

 ところで、たとえば「畑に入る」という行為があるとする。言うまでもなく、その行為は場合によっては「不法」なものとなりうる。フランスの農民活動家ジョゼ・ボヴェは、グループのメンバーと共に、一九九八年以降、遺伝子組み換え作物を栽培している場所に入り、種を破壊したり、別の種を混入する、などの行為を繰り返しおこなった。また、一九九九年には、彼らはミヨーにある建設中のマクドナルドの店舗を解体するという行為を行った。ボヴェは、うした「行為」は確かに「不法」な行為であるが、多国籍企業による農業支配に抵抗するための「正当な」行為だと主張する。そうした行為は「合法性 légalité に対抗する正当性 légitimité[Bove;200]」を持つ、というのである。

正当性と合法性

 第二次大戦後、サルトルが、さまざまな政治的行動、発言を行ったことは周知のとおりである。サルトルは「行動する知識人」だと言われる。では、「政治的行動」とはいったい何なのか。デモもストライキもほとんど姿を消した現代の日本においては、選挙における「投票」が、唯一の「政治的行動」であるかのように見える。投票率の低下は、すなわち「政治」意識の低下として語られる。だが、サルトルにとって、選挙における「投票」は、「政治的行動」とまったく相反するものだった。サルトルは、国民議会選挙が間近に迫った一九七三年一月、『現代』誌に、投票棄権を肯定する論説を掲載している。「間抜け狩り選挙」というその論説(後に『シチュアシオン]』所収)において、サルトルは、フランスにおける選挙制度の歴史をたどり、選挙というシステムに対する根底的な批判を行っている。サルトルはそこで、「選挙」を一つのシステムとしてとらえるだけではなく、「投票」という「行為」そのものの性格を問題にしている。
 サルトルはまず、フランス革命後、憲法に基づいて一七九一年に制定された、サルトルが「納税者選挙制度」と呼ぶ選挙制度の性格について考察する。この制度は、三日分の労働に値する賃金に等しい直接税を納めた約四〇〇万人の「能動市民」(全人口の一六・三%)にのみ選挙権を与えるもので、この条件を満たさない「受動市民」を制度から排除する不当なものだった。しかし、サルトルが問題にするのはこの不当性ではなく、この制度における投票行為の「孤立性」という存在性格である。ここでの投票は、投票人をお互いに引き離し、孤立させる「秘密投票」であったが、それは、能動的市民=有産階級の孤立した、閉じたあり方と対応していたのだとサルトルは考える。そして、サルトルによると、有産階級(持てる者)たちの孤立したあり方を生みだしていたのは、「モノ」(所有物)である。一定の空間を「占拠し」、他のモノを排除する「モノ」の存在性格が、これらの人々の存在性格をも規定しているのである。

 これら投票人はみな持てる者たちだったから、その所有物によってすでに孤立させられていたのであり、所有物は彼ら一人ひとりの上にすっぽりと覆いかぶさり、何ひとつ入りこむことを許さぬその物質性によってモノをも人をも押し戻していたのである。物言わぬ数量と化した投票用紙は、投票者が個々別々であることを表わすにすぎなかった。[SX75/72]

 さらに、サルトルは、「孤立性」に基礎を置いたシステム(選挙制度)の成立が、システムへの対抗の抑圧と対になっていたことに注目する。それを象徴しているのが、納税者選挙制度と同時期に成立したル・シャプリエ法である。一七九一年六月に立憲議会で可決されたル・シャプリエ法は、同業組合やストライキを禁止するものであった[*1]。無産階級(持たざる者)たち、つまり受動的市民は、納税者選挙制度によって閉じたシステムから排除されたが、さらに、そうしたシステムの外に自発的「集団」を形成することや、システムに対抗する「行為」を行うことをも禁止されたのである[*2]。持たざるものは、「集団 groupe を作ったり人民民主主義ないし直接民主主義を行使したりするいっさいの自由をも奪われた[SX76/72]」。ようするに、システムの成立は、システムの外部を「非合法化」すること表裏一体であった。ところで、一七九二年九月、制限選挙が廃止され、普通選挙が施行される。つまり、有産階級(持てる者)のみのための「閉じられた」制度が、無産階級(持たざる者)に対して表向き「開かれた」ものとなった(ただし周知のとおり、無産階級であれ有産階級であれ、あいかわらずここには女性は含まれていない。フランスにおける女子普通選挙制の成立は一九四五年)。だが、サルトルによると、それは見せかけのものでしかなかった。なぜなら、普通選挙によって選出された国民公会は、ル・シャプリエ法を廃止すべきだとは考えなかったからである。その結果「労働者たちは決定的に直接民主主義を剥奪され、何も所有していないにもかかわらず所有者として投票しなければならなかった([SX76/72]傍点引用者)」。
 人々を孤立させるシステムに対する抵抗であり、また「孤立」そのものへの抵抗でもある持たざる者たちの「結集」regroupements も頻繁におこったが、しかしそれは「どこまでも正当でありながら非合法のものとなった[SX76/72]」。普通選挙で選ばれた議会と対立したこうした運動の中で、サルトルは一八四八年の持たざる者の蜂起とその弾圧(六月蜂起)に注目する。
 一八四八年、参政権拡大を要求していた中小資本家層と、労働者が蜂起し、七月王政を倒した(二月革命)。臨時政府が樹立され、廃止されていた普通選挙制度が再び制定される。だが次第に臨時政府の主導権は資本家が握るようになり、持てる者と持たざる者の対立が先鋭化する。六月、労働者は武装蜂起を起こすが、臨時政府は軍隊によってこれを徹底的に弾圧。労働者側の死者三千人、逮捕者二万五千人とされるこの事件についてサルトルはこう言う。

 一八四八年五月から六月にかけて、合法性が正当性を虐殺した。la légalité massacre la légitimité[SX76/72]

行為と孤立

 サルトルは、持てる者の「合法権力 pouvoir légal」と、持たざる者の「正当権力 pouvoir légitime」とを対立させる。前者は選挙によって作られるが、後者は、街頭や、国立作業所(二月革命の臨時政府に参加した社会主義者ルイ=ブランが設立した、失業労働者を収容し雇用するための施設。国立作業所の閉鎖は六月蜂起のきっかけの一つとなる。)で形成される。正当権力は、「反ヒエラルキー的で自由解放的な広汎な運動と一体をなしている」が、この運動は、今日もなお「至るところに見られるとはいえ、一向に組織されてはいない[SX77/73]」とサルトルは言う。一方、合法権力は、普通選挙の名において投票者をばらばらに分子化 atomiser する。その装置が、投票所の、隔離記入所という閉じた空間である。その中で、投票箱は選挙人を集団の一員としてではなく「市民 citoyens」として待ち受けている。

 隔離記入所は各人に告げている。「だれもお前を見てはいないよ。お前はお前自身のほかに何者にも依存していないのだ。お前は隔離されたところで決定しようとしている。そして後になれば、お前の決定を他人に隠すこともできるし、嘘だってつけるのだ」。[SX77/74]

 サルトルは、人間を「閉じた」ものとしてとらえる思考を初期の段階から批判してきた。例えば、一九三四年、二九歳で執筆した「フッサールの現象学の根本的理念――志向性――」という小文(『シチュアシオンT』所収)において、サルトルはフランスの伝統的哲学を「内在の哲学」として激しく批判している。「意識には《内部》というものはないからだ。意識は、それ自身の外部以外の何ものでもなく、意識を一つの意識として構成するのは、この絶対的な脱走であり、実体であることのこの拒絶だからだ」と言うサルトルは、意識を「炸裂」、「運動」としてとらえ、自らの現象学的哲学を「超越の哲学」と規定する。意識を「ぬくぬくと、扉を閉めたまま、己れ自身と一致した」ものとしてとらえる「内在の哲学」に反対して、サルトルはこう言う。

 結局一切は、われわれ自身まで含めての一切は、外部にあるからである。外部に、世界のなかに、他のもののあいだに。われわれがわれわれを発見するであろうのは、なんだか知らない隠れ場所のなかなどではない。それは、諸物のあいだの物として、人間たちのあいだの人間として、路の上で、街のなかで、群衆のさなかで、なのだ。[SI34-5/29-30]

 同じころ執筆された『自我の超越』では、サルトルは、意識は「反省」によって意識自身を閉じたものとしてとらえてしまうのであって、「私」(=自我)とは、そうした反省によって作られる構築物であるとした。さらに彼は、「内部」も「私」ももたない意識は「非人称的」なものだ、と主張した。
 『存在と無』においては、サルトルは他者関係を、お互いにまなざしを向けあい、お互いを対象化(=モノ化)しようとする「相克」としてとらえた。だが、『弁証法的理性批判』においては、サルトルは他者関係の基礎を「相互性」としてとらえ、相克的人間関係を、実践的惰性態における転倒した人間関係とした。つまり、人間の「内面」への孤立化は、人間の社会的なモノ化とパラレルにとらえられるようになる。例えば人間は、塀をめぐらせて財産(所有されたモノ)を他人のまなざしから隠す(ブルジョア的財産としての庭付きの家など)。それは、財産(モノ)に「人間的内面性」を付与することなのだが、同時にそのとき「モノの外面性が彼自身の人間的内面性となる」とサルトルは言う[*3]

 彼は自分の人格をもって、人間存在に物質の不可侵入性を(つまり、はっきり区別された物体が同時に同一場所を占めることの不可能性を)あたえたからである。これはまさしく物象化の一つのありふれた事実である。[CRD262/I236]

集団と集列

 われわれはこれまで、サルトルによる「法」のあり方への批判が、人間を「私的」空間に閉じこめる社会のあり方への批判と対応するものであったことを見た。ここで思い起こされるのは、冒頭にあげた記事において、とりわけ、野宿者によるプライベートな空間の形成が非難の的となっていたということである。ブルーシートで他者のまなざしを遮ること、その中でテレビを楽しむこと、暖かい布団で眠ること……。つまり、「市民」社会から排除されるということは、こうしたプライベートな空間を「所有」する資格を奪われる、ということでもあったのである。このことからわれわれは、「市民」たちの「公共性」、すなわち「法」が形作る公共性が、プライベートな閉じた空間に基づいたものであることを逆に見て取ることができる。そうした「公共性」、すなわち、孤立化し分子化した「市民」たちが形作る公共性は、サルトルが言う「集列 série」(「集合態 colléctif」という語もほぼ同じ意味で用いられる。)の性格を持っていると言えるだろう。
 「集列」とは、モノによって結びついた(ニセの)共同性、実践的-惰性態の領域での共同性である(これと対立するのが、「集団 groupe」、すなわち、システムの外部で形成され、「モノ」ではなく「行為」によって結びついた共同性である)。集列とは、分離が結びつきのあり方となっている[CRD281/I264]ような、人間の結びつきである。そして、孤立化し分子化した「集列」の個々のメンバーは、そのことによってかえって、差異を失い、個性を失うのである。集列のメンバーは「本質において他のすべてのメンバーと同一 identique になり、ただ番号によって異なっているだけ[SX78/75]」となる。こうした集列には、「集列的思考」が生まれる、とサルトルは言う。それは、集列の「同一でかつ分離している状態[SX79/76]」を維持しようとする思考である。例えば、二〇年間一度もストライキが起こったことのない企業では、「社会的平和 paix sociale[ibid.]」によって、労働者のあいだに少しずつ集列性の関係が確立される。そんな中で、仮に労働者の一人ひとりが賃上げ要求の行動に出ることを検討しはじめたとする。そうした行動は、行為によって結びついた共同性である「集団」の形成を前提とする(ここには、「集列的思考」と対照的な「集団的思考」の萌芽があるとサルトルは言う)。ところが、そのとき集列的思考は「分断する思考」としての性格を露わにし、「集団」形成の萌芽を押しつぶしてしまうのである。そうした思考は、例えば「移民労働者は俺たちについてこないのではないか」とか、「女どもには俺たちのことが分かるまい」といった、人種差別的、女性蔑視、あるいはその他の差別的命題によって表現される。そしてサルトルは、「世論 l'opinion publique」すなわち「公共の意見」なるもの(「ホームレスは公園をわがもの顔で不法占拠している」「ホームレスは怠け者だ」等々といった「意見」はまさにその一例であろう)こそ、集列的思考以外のなにものでもないと言う。

 人びとは、選ばれた国会は世論を最もよく反映するものだと主張する。だが集列的でない世論などというものはあり得ない。マス・メディアの愚かしさ、政府のさまざまな声明、新聞が不公平に、また肝心な部分を切り捨てて諸事件を伝えるそのやり方、そういったすべてのことが集列的な孤独のなかにいるわれわれを探し出して、他人がこう考えるだろうとわれわれが考えていることによって出来上がっている石頭の思想を、われわれに負わせているのである。[SX84-5/80]

 さて、サルトルはまた、この集列的思考を、「無力の思考 pensée d'impuissance」と呼ぶ。「投票する」ということは、「投票に賛成投票すること」であり、さらにはそれは「われわれを集列的無力状態に維持する政治制度に投票すること[SX81/77]」であり「制度化した自分の無力さを肯定すること[SX83/79]」である。

 なぜわたしは投票をするのか? わたしの生活のなかの唯一の政治的行為は、四年ごとに投票箱にわたしの票を持っていくことだと、思いこまされてきたからだ。だがそれは行為とは反対のものだ。わたしはただ自分の無力さを暴露し、一政党の権力に服従しているにすぎない。[SX84/80傍点引用者]

 ところで、市民は、制度化した自らの「無力」を、それが合法的な無力であるがゆえに肯定し、正当化する。反対に彼らは、合法性に対抗する「行為」は、それが違法な力であるが故に非難する。そして、「違法な力」に張られるレッテルが、「暴力」である。だが、「暴力」とはいったい何なのか。次にわれわれは、「行為」と「暴力」の関係について、「司法=正義 justice」をめぐるサルトルの議論を手がかりに考察することにしよう。

政治と暴力

 一九七〇年四月、サルトルは、逮捕された前任者に代わって、発禁となっていたマオ派の新聞『人民の大義』の編集長を引き受けた。しかし、政府は有名人のサルトルを逮捕しはしなかった。このことによって、司法の不公平性を暴くのがサルトルの目論みでもあった。だが右派の新聞『ミニュット』は「サルトルを投獄せよ」という記事を掲載し、彼の法的処罰を訴えるキャンペーンを行った。それに答える形で、一九七一年六月、サルトルは『人民の大義』と『すべて』に掲載された論文を理由として、法務大臣と内務大臣によって名誉毀損の容疑で起訴された[*4]。この事件の公判を待つ身のサルトルは、一九七二年二月、ベルギーのブリュッセルで「司法と国家 Justice et État」( あるいは「正義と国家」)と題された講演を行った(『シチュアシオン]』所収)。
 ド・ゴールはかつてサルトルに「およそ司法とは(……)ただ国家にのみ属するものであります」と言った(人民法廷であるラッセル法廷のフランスでの開廷を求めるサルトルの書簡に答えたもの。)。その言葉に対して、サルトルは、二つの反論を行う。第一は、三権分立における司法の独立の原理に基づく反論である。ド・ゴールの政府は、司法の抽象的国家への従属を、司法の具体的政府への従属と読み替え、恣意的に法を歪めている。
 この第一の反論は、国家の法の枠内での政府批判につながる。政府は、「合法的な」運動をも、法に反して弾圧しようとする。しばしば、政府自らが法を逸脱するのである。ところが、運動の「不法性」をあげつらう集列的思考は、そうした国家の不法行為に対してはおどろくほど寛容である。サルトルはこの問題に関しては、マオ派のアラン・ジェスマールの不当逮捕事件、「『人民の大義』友の会」がアソシアシオンとして届け出たとき警視総監が不法に受理を拒否した事件(これは先に述べた一九〇一年の法に反している)の例を挙げて論じている。後者の事例に関しては、受け取り拒否を違法とした(司法の独立を示した)判決に不満を持った政府は、必要と判断した場合はアソシアシオン届け出を拒否できるとする新しい法律の成立をめざした。このように、政府は「まず法をねじまげてから、違憲の、つまり非合法の法律の投票へと進む[SX/63]」とサルトルは言う。
 それに対して、ド・ゴールへの第二の反論は、「法の外」と関わる問題を呼び起こす。このより根本的な反論において、サルトルは「司法(正義)」とは本来本質的に国家の枠を越えるものであることを指摘する。「司法(正義)」という概念は、そもそも国家ではなく民衆を起源としている。国家は、民衆の内にある司法(正義)への傾向をとらえて後から「司法機関」を作り上げたが、そこでは民衆の司法への意志は官僚化され、そもそも「歪曲」されているのだ。サルトルは、法制化され恒常化された「国家に属する司法 la justice qui appartient à l'E'tat」と、民衆の意志を根拠に持ち、ときどき姿をあらわす「野生の司法 la justice sauvage」(あるいは「人民の司法」)とを区別する。この「国家の司法」と「野生の司法」の対立が、すでに見た「合法性」と「正当性」の対立と対応していることは明らかである。サルトルは、彼が「政治的不法行為」と呼ぶ行為が、国家の司法においてどのように扱われるか(あるいは扱われ得ないか)を論じている。だが、われわれの考えでは、この議論の鍵となっているのは〈暴力 violence〉の問題である。
 サルトルは、一九七二年当時のフランスの状況について、そこには唯一の「政治」しかなく、それは「暴力によってブルジョワジーをくつがえそうとする政治」、すなわち「革命的社会主義」(具体的には、「恭しき社会主義」となってしまった共産党と異なるマオ派らゴーシストを指す。)だ、と言う。つまりここでサルトルは〈暴力〉と結びついた「政治」を肯定的に取り上げている。では司法はこの「政治」を、あるいはこの〈暴力〉をどのように裁くのであろうか。だが、司法は、国家の司法でしかないが故に、「政治的違法行為」を原理的に裁くことができない、とサルトルは考える。このとき、「国家の司法」の限界があらわとなるのである。それゆえ司法は、政治的違法行為を、非政治的なものに変えてしまおうとする。こうして、裁判官は「法廷で政治と暴力を分離しようとつとめ、暴力をその目的や理由から引き離して、これを普通法の違反にしてしまおうと懸命になる[SX69/64傍点引用者]」のである。その例として、サルトルは彼自身が証人として出廷した、活動家ロラン・カストロの裁判をあげる。
 一九七〇年一月、五人の移民労働者がガス中毒にかかって死亡した。カストロはこれに抗議して、仲間や知識人とともにフランス経団連の事務所を占拠した。モーリス・クラヴェル、ミシェル・レリス、ジャン・ジュネも参加したこの占拠は、五人の死の本当の犯人が経営者たちにあることを示すための「象徴的で平和的な占拠」であった。それは、合法性に対抗する「直接行動」としての、正当的な「不法行為」である。保安警察が呼ばれ、参加者はその場から連行されたが、最終的にカストロだけが起訴された。しかし、カストロは、連行の途中逃走を試みた際の「警官への暴行の罪」で起訴されたのである。サルトルは、裁判が、カストロらの行為を、経団連事務所の不法占拠として裁かなかったことをむしろ問題にする。カストロらは、彼の所有物ではない場所を不法に占拠し、私有制度を侵犯した。裁判がそのことを問題としたならば、裁判は「政治的な」ものになったはずである。司法はそのことを回避するために、平和的な占拠という「行為」を、単なる「暴力」行為にすり替えたのである。では司法は、平和的な行為に不当にも「暴力」という性格を押しつけた、ということなのだろうか。だが、むしろこのように言うべきである。司法は、カストロらの行為に「法の枠内での暴力」という性格を与えることによって、かえって、その行為から「法に対抗する〈暴力〉」すなわち「政治的な〈暴力〉」(それは、象徴的で平和的な暴力であるわけだが)としての性格を奪ったのではないか。ここで問題なのは、むしろ〈暴力〉の意味のすり替えなのである。マクドナルドを「解体」したジョゼ・ボヴェらの象徴的違反行為が、フランスのマス・メディアによって「略奪」行為と報じられた(実際には解体した資材はすべて返還された)ことも、そうした意味の矮小化としてとらえられるだろう。したがって、ここでは国家の司法は、「政治的な〈暴力〉」を象徴的に「無力化」するシステムとして働いているのであり、それは、合法性による正当性の象徴的虐殺である。

無力と暴力

 さて、こうして国家の司法は「法に対抗する〈暴力〉」を隠蔽するのだが、その際同時に隠蔽されるもう一つの「暴力」がある。経団連事務所を占拠したカストロらを排除するために事務所に入った保安警察は、デモ隊の一人を殴り、モーリス・クラヴェルとジャン・ジュネを階段の下までころげ落とし、いっさい抵抗しないデモ隊を手荒に排除した。ほとんどの参加者は連行先の警察で釈放されたのだが、護送車から飛び降りて逃走しようとしたカストロだけは、再び取り押さえられ、その際再び撲られている。ところが、裁判では、そうした警官の「暴力行為」については一言も触れられなかった。
 「市民」にとって、「法」は、自分たちの「平和」な市民生活そのものと分かち難く結びついている。だが、そうした「平和」が、いったいどのようなものによって支えられているのか。本論冒頭で紹介した事件において、白川公園から強制排除された路上生活者は七人。それに対して、名古屋市職員やガードマン六〇〇人と愛知県警の私服警官五〇人による圧倒的な組織暴力が加えられた。しかし、「市民」の集列的思考がそうした「暴力」に注目することはほとんどない。こうした「暴力」は、「法に対抗する〈暴力〉」(政治的〈暴力〉)の対極にあるものである。それはいわば「法としての暴力」である。その意味で、サルトルが区別した二つの「司法=正義」に対応する、「二つの暴力」を区別しなければならない。すなわち、制度化された「国家に属する暴力」と、そうした制度に対抗して時に噴出する「野生の〈暴力〉」である。中根光敏は、一九五〇年代前半から一九六〇年代にかけて釜ヶ崎や山谷などの寄せ場で繰り返し起こった労働者の〈暴動〉が、「明確な目的や運動的な要求を持たない形で、自然発生的に生じたもの」だとし、こう言っている。

 どれほどの否定的な側面があるとしても、暴動は、ギリギリに追いつめられた者たちが人間性を取り戻すために立ち上がる『下層労働者の自己表現』である。暴動という『表現』の中に、何らかの『理』を読みとろうとする努力がなければ、寄せ場を理解することも、日本社会を理解することも、そして人間を理解することもできないだろう。[Nakane]

 ここで言われている〈暴動〉の中の「理」とは、まさにサルトルが言う「野生の司法=正義」であろう。
 ただし、「国家に属する暴力」を、デモ隊や野宿者に加えられる警官の個々の「行為」としてとらえることは、国家の暴力の本質を捉え損ねることになるだろう。「国家の暴力」は、「行為」そのものに加えられ、「行為」そのものを抑圧する。それは、「反-行為」(『弁証法的理性批判』におけるサルトルの言葉では「反-実践」)としての「暴力」なのであり、言い換えれば人間を無力化するシステムとしての暴力である。またそれは、人間を「孤立化」し「分離」するシステムそのものとしての「暴力」なのである。その意味で、「国家の暴力」とは、市民の「社会的平和」と何ら異なったものではない。この「平和」は、いわば暴力としての平和なのである。

文献


  • 引用は[略号 ページ数/邦訳ページ数]のように示した。

    *1 日本の場合も、一九二五年、男子普通選挙の成立とほぼ同じ時期、結社の自由を制限する治安維持法が成立した。
    *2 一九〇一年のアソシアシオン法成立によってはじめて、このとき禁止された結社の自由が合法化された。
    *3 こうした、閉じた内面、あるいはプライベートなものに対する一貫した否定的評価は、七〇歳のサルトルの次のような発言にも見られる。
     思うに、何が人びとのあいだの関係を損なわせるかというと、各人が他人にたいして――万人にたいしてではなく現在話をしているその相手にたいして――隠れた、秘密の部分をなにか保持しているためなのだ。わたしは、透明さがどんな場合にも秘密に取ってかわるべきだと考える[SX/133]。
    *4 その後サルトルは『ミニュット』紙にも損害賠償を求めて訴えられ、一九七三年一〇月、サルトルは形式的な罰金刑(賠償請求八〇〇万フランのところ、罰金四〇〇フランと賠償金一フラン)を宣告された。

    著者

    永野潤 一九六五年生まれ。東京都立大学他非常勤講師。著書『図解雑学サルトル』(ナツメ社)『岩波応用倫理学講義5 性/愛』(岩波書店(共著))論文「断崖に立つサルトル」(『現象学年報』11)他。