最近読んだマンガ

2004/06/01 梅図かずお『洗礼』、岡崎京子『ヘルタースケルター』他

 岡崎京子の作品、『ヘルタースケルター』が手塚治虫漫画賞をとりました。「内容や絵に"古さ"がぬぐえない、作者の最高傑作とは言いがたい、との意見もあった」とのことです。たしかに、書かれたのはもう10年近く前(てことは事故からもう10年近くたつということか……)ですが、「最高」かどうかは意見がわかれるかもしれないものの、氏の代表作のうちに入ることは確かな、怪作だと思います。ちなみに、岡崎京子に興味がある方は、ぜひこちらをどうぞ(と宣伝)
 ところで、私は最近、ある漫画を読んだのですが、その時、この『ヘルタースケルター』を思い出したのです。その「ある漫画」が、梅図かずおの『洗礼』です。

 誰もがその美貌を羨む大スター。だが、楽屋でたった一人になった彼女が、化粧を落とすと、その額に、醜いアザが現れる。半狂乱になる彼女。

 どちらの漫画も、このようなシーンではじまるのです。そして、どちらの漫画とも、美醜の問題、身体の問題を哲学的に突き詰めた、怪作です。
 が、『洗礼』を読み終えたとき、この二つの作品は、同じく怪作であるといっても、その怪物度合いには圧倒的な差がある、と思わざるを得ませんでした。『洗礼』も、まちがいなく梅図かずおの代表作であると思いますが、それだけではなく、この作品は、まちがいなく漫画史上にのこる傑作です。すくなくとも私がこれまで読んだ漫画の中でベストスリーぐらいには余裕で入ると思います(まあ、読んだばかりなので評価が上がっている面はあるかもしれませんが)。岡崎さんの『ヘルタースケルター』もすごいけど、『洗礼』と比べると、残念ながら、横綱と十両ぐらいの差があると思います。というわけで、まず、十両。


 そして、横綱。

 あー!もう、この絵だけですごい……。
 もちろん、全体としてみれば、『ヘルタースケルター』と『洗礼』はかなり違うカラーの作品です。しかし、冒頭シーンだけみると、ひょっとすると『ヘルタースケルター』は『洗礼』へのオマージュとして書かれたのかも、などと想像してみるのも楽しいです(とすると最初から岡崎さんは楳図さんに勝つ気がないことになる)。もっとも、「美貌の衰えに恐怖する女優」という話自体は、それほどめずらしくないかもしれないので、私の想像はまったく的はずれかもしれませんが。
 さて、岡崎さんの『ヘルタースケルター』の話はそのくらいにして、『洗礼』です。『洗礼』の文庫版第4巻の解説で、呉智英(また出た)は、こう書いています。

 私が『洗礼』を初めて読んだのは、一九八〇年頃のことであった。「少女コミック」に連載されたのが一九七四年から七六年からであるから、連載終了からでも四年は経っていた。読むのが遅れたのは、私が普段は少女漫画誌を読まないからである。話題になった作品だけ、あとで単行本でまとめて読むことにしている。そのため、楳図かずおにこんな傑作があることをかなり遅れて知ったのである。
 ある時ふと本屋の棚に『洗礼』の単行本全六巻を見つけ、買い求めたその夜に一気に読了した。そして、これが少女まんがの枠を超えた第一級の傑作であると確信し、何年も『洗礼』を知らずにいたことを悔やんだ。(276ページ)


 呉氏は、連載終了から数年後に読んだだけで、「知らずにいたことを悔やんだ」ということですが、とすると、連載終了からほぼ三〇年後に読んだ私などは、悔やんでも悔やみきれない、「回線切って逝ってきます」ですね。
 ところで、今私は、『洗礼』に関して猛烈に腹が立っていることがあるのです。それは、自分にたいして腹が立っている、ということもあるのですが、あえて言わせてもらえれば、手塚治虫の息子にしてビジュアリスト、手塚眞にたいして、猛烈に腹を立てているのです。が、その話をするまえに、(話があちこち行ってすいませんが)哲学者永井均氏の名著『マンガは哲学する』における『洗礼』論を(一部)引用しなくてはなりません。ちなみに、永井氏のこの本は大変すばらしくて、ここ数年授業でずいぶんと使わせていただいているのですが、残念ながら品切れで、増刷予定なしということです(※その後文庫として再刊されました)。
 さて、引用です。

神の不在証明は可能か――楳図かずお『洗礼』
 本書[引用者注:わかると思いますが、永井氏の本のこと]は、哲学的解読を通じて、作品自体に興味を持っていただくことを、ねらいのひとつとしている。しかし、この作品だけは例外である。傑作の多い楳図かずおの作品の中でも、これは最高傑作だと私は思うが、まだ読んでおられない方は、ここの記述を読む前に、できれば文庫本四冊を通読していただきたい(ついでに忠告しておけば、文庫本についている諸氏の「エッセイ」も先に読まないほうがいい)。(96ページ)


 私は、永井氏のこの本を、繰り返し読んでいますが、上記の忠告を読んで、それに忠実に従って、これ以降の部分は決して読みませんでした。というわけで、ここを読んで以来、早く『洗礼』を読まなきゃ、とずっと思っていたのです。が、なんとなく先送りしてしまって、やっと最近読んだ、というわけです。ところがですね、ところがですよ! せっかく、忠告に従って永井氏の文章を何年も読まずにとっておいたのに、私は、上記の箇所で永井氏がしてくれた「もう一つの忠告」の方を、すっかり忘れてしまっていたのです……。
 というわけで、もうおわかりでしょう。「文庫本についている諸氏の「エッセイ」」の中で、もっとも犯罪的なものを書いた犯人が、手塚眞その人なのであります。しかも、第一巻ですよ! ……えと、ぶっちゃけ、ネタバレしてるんですわ……。しかも、絶対ネタバレしてはいけない、この作品について、です。いったい何を考えているのでしょうか。手塚眞。ていうか、これを第一巻の巻末にもってきた編集者の神経も疑う。第二巻の巻末エッセイを書いている山崎浩一は、ちゃんと「万一あなたが物語の結末を知らずにこれを読んでいるなら、ここから先は絶対読んじゃだめ」と書いている。
 いや、私も第一巻を読み終えて、そのまま巻末エッセイを読みかけたとき、ちょっと悪い予感はしたんですよ。が、まさか第一巻の巻末でネタバレをしたりはしないだろう、と思っていたのがいけなかった。或る箇所まできて「え?」と思った瞬間に反射的に本を閉じ、読んだ文についてもなるべく忘れるようにしましたけどね。で、『洗礼』を読み終えた後、改めて手塚氏のエッセイを読んでみたのですが……これがまた、みごとにどうってことのない、いや、こういっては何ですが、どっちかというとしょうもない代物なのですわ。てわけで余計腹が立ちますね。深い読解をしめしているエッセイだというならまだ許せるが、この内容でネタバレだけ、とは、ますます犯罪的。
 さてさて、さらに、封印してあった永井均の『洗礼』論の続きを読んでみたのですが……。それこそ、手塚氏と比べたら、十両と横綱、どころではない、小学生の感想文と哲学書、ほどの差がある、なかなか深い読解です。しかし、かえすがえすも、永井氏のせっかくの忠告を忘れていた自分に腹が立ちます。
 ま、でも結局、『洗礼』は、ちょっとぐらいネタバレしたからっといてびくともしないほどの怪作だったので、よかったんですけどね。それにしても、やっぱり手塚眞氏のエッセイは、読まないならそれにこしたことはないので、あらためて私から忠告させていただきます。

文庫版楳図かずお『洗礼』第一巻を読んだ人は、手塚眞のしょうもない巻末「エッセイ」を決して読まないように!

 追記:あとでネットでちょこっと調べたところ、『ヘルタースケルター』が『洗礼』へのオマージュというのは割と常識、ぽい感じらしいです。それと、『ヘルタースケルター』に対して厳しい評価をする評論もいくつか見つけましたが、ふむふむなるほど、と読みました。