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カオスの解放

――『風の谷のナウシカ』の構造――
永野 潤



 『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』)は、アニメーター宮崎駿が、雑誌『アニメージュ』に1982年から連載を始めた漫画である。この漫画は、宮崎自身の手でアニメ化され、この映画が宮崎の名を一挙に高めることになる。漫画版『ナウシカ』は、数度の長期にわたる連載中断を経て、連再開始から十年以上たった1994年にようやく完結した。アニメ版『ナウシカ』は、エコロジー思想に基ずいたメッセージ性の高い映画と受け止められ、結局それが宮崎映画全般のイメージとして定着することになった。そのため『ナウシカ』というとすぐ映画版のほうが思いうかべられ、『ナウシカ』=エコロジーSFアニメとして評価あるいは批判が行われるということがおこった。確かに、アニメ版『ナウシカ』は、宮崎映画の転機となったという点で重要な作品ではある。しかし、作品としてみた場合、アニメ版は、ストーリー展開の上で問題が残る作品であるように思える。それに対して、非常に完成度の高い作品であると思われる漫画版『ナウシカ』が、一般にそれほど注目されなかったというのは、いささか残念なことであった。
 アニメ版の『ナウシカ』のストーリーは、上映時間内に収めるためにオリジナルの漫画版のストーリーをかなり短縮したものだったのであり、そのために、漫画版のもつ複雑で豊饒な「構造」が単純化されてしまっている。ある意味では、『ナウシカ』はアニメ化に際して、ストーリーの複雑さを失うこととひきかえに「わかりやすい」メッセージを得、それが一般に受け入れられる原因となったといえるだろう。そのことを、大塚英志は、『まんがの構造』において、アニメ版『ナウシカ』のストーリーは、宮崎が「社会の良識派」として様々な立場の人々に「発言」を求められていく中で、漫画版において宮崎が無自覚のまま持っていた「主題」を自ら「誤読」した結果生まれたものだといっている[*1]。私が漫画版『ナウシカ』というひとつの物語に強い関心をもっているのは、この作品が、良識派的「言説」によってクリアーに把握され得るような主題(環境汚染への警告・人類愛etc.)には収まらない、『ナウシカ』という作品世界のもつ、隠れた構造に対してなのである。そこで、本論ではこの構造を多少なりとも浮き彫りにすることを試みる。

1 ノモスの強化

 『ナウシカ』は、「腐海」の情景の圧倒的な描写をもって始まる。『ナウシカ』の舞台は、「火の七日間」と呼ばれる最終戦争の結果、産業文明が崩壊しつくした後の未来社会である。「腐海」とは、最終戦争によってまき散らされた有害物質によって汚染された土地に適応して生まれた、まるで古生代の地球を思わせる、新しい生態系の世界である。そこでは巨大な菌類の植物の森が広がり、「蟲」と呼ばれる巨大で異様な動物たちがうごめき、飛び交っている。我々はこの冒頭の場面によって一気に宮崎の作り出す「異世界」に引き込まれるのである。しかし、それは虚構の作品世界と言う意味で「異世界」であるだけではない。「腐海」は、作品世界そのものの中で、非日常的な世界という記号論的意味が与えられているのである。木々が絶えず発する「瘴気」と呼ばれる物質が充満した「腐海」の空間では、腐海に適応した生物である蟲たちのみが生きることができる。人間が特殊なマスクを装着せずに腐海に入れば、五分で肺が腐る、とされている。その意味で、「腐海」とは、日常的な人間的世界の〈外部〉としての「自然」の象徴である。特に、凶暴な怒りに駆られてしばしば人間の村を襲う、巨大な「王蟲」[*2]は、獰猛な力を持つ自然そのものの象徴であるように思える。それに対して、主人公ナウシカらが生きている「風の谷」は、人間の世界である。人間たちは、人間的秩序のもとで(例えば、「風の谷」などの辺境の小国と大国トルメキア王国との間に交わされている「盟約」)自然の脅威にさらされながら生活している。
 腐海とそこに生きる蟲たちは、古代日本の神話における自然の象徴であると考えられる「荒ぶる神」を思い起こさせる。鎌田東二は、王蟲が、記紀神話に登場する「大物主の神」を思わせると言っているが[*3]、実際、作中王蟲は神聖な存在として描かれている。「荒ぶる神」は、高天ケ原の神々が降臨する以前に大地を支配していたとされている神々であるが、それは、神話的思考が、共同体成立の以前に想定する「始源的混沌[*4]」の象徴である。『常陸国風土記』には、この始源的混沌の状態は以下のように記述されている(香島郡)。「荒振神等(あらぶるかみたち)、又、石根・木立、草の片葉も辞語(ことと)ひて、昼は狭蝿なす音声(おとな)ひ、夜は火の光明(かがや)く国[*5]」。草木や虫がしゃべる、ということは、日常ではありえないことである。つまり、「荒ぶる神」とは、山口昌男が言うように「混沌=反秩序=反分類=反日常生活」の象徴なのである。そして、共同体はこうした混沌を自らの〈外部〉として設定することによってはじめて自らを自覚する。「混沌の対象化は、秩序の確認への第一歩であった[*6]」のであり「集団の自己意識の成立は、つねに〈外部〉の発生と同時にある[*7]」のである。
 以上で見たように、『ナウシカ』の物語の冒頭において、我々は、風の谷と腐海の対立に象徴される、文化と自然の対立、言いかえれば「秩序」と「混沌」の二元構造をはっきりと意識させられるのである。これを図示すると以下のようになるであろう。

 腐海(混沌)←→ 風の谷(秩序)

 さて、ナウシカは、「風の谷」という人口500にみたない小国の族長の娘である。「風の谷」の族長は、代々戦士として「風の谷」を守ってきた。族長は、共同体の「守護者」である。そして、共同体の守護者は、また共同体とその〈外部〉との境界を確定する者でもある。共同体の守護者は、境界を設定することによって、自然から隔絶された人間の空間=文化の空間を「開く」ものである。そのことは、第一巻に描かれた次のようなシーンにおいてはっきりとあらわれている。大国トルメキアの兵士たちが、逃亡者を捜索するため予告なく「風の谷」に侵入したとき、ナウシカは谷への入り口に立ちはだかり、地面に剣を突き立て「この剣より一歩もさきに進ませぬぞ」と叫ぶ[*8]
 このシーンは、我々に『風土記』に描かれた古代日本の神話のある場面を思い起こさせる。『常陸国風土記』には、以下のような記述がある〔行方郡〕。昔、「箭括氏麻多智」という人物が、西の谷に田を開いた。その時、「夜刀の神」という蛇の姿をした神(体が蛇で頭に角があるとされている)が群れを為して開墾の邪魔をした。怒った麻多智は、矛をもって夜刀の神と闘い、「標(しるし)の蛻(つえ)を堺の堀に置(た)て」夜刀の神にこういった。「此より以上(かみ)は神の地(ところ)と為すことを聴(ゆる)さむ、此より以下(しも)は人の田と作(な)すべし……」そして麻多智は社を作って夜刀の神を祭ることを誓う[*9]。「夜刀の神」が、先に述べた「荒らぶる神」のひとつであることは明らかである。ここで、麻多智が、夜刀の神と闘うものであると同時に、夜刀の神を祭るものでもあるということに注目したい。つまり、共同体の守護者としての麻多智は、境界において〈外部〉としての荒らぶる神と「交感」するものなのである。したがって、彼はあるときは「闘い」という形で〈外部〉と交感し、あるときは「祭る」という形で「言葉」を介して〈外部〉と交感するのである[*10]。麻多智は、共同体とその外部との「仲介者」だったのである。守護者=祭司者は、外部と「交感」することのできる特殊な能力をもったもの、すなわち、外部の言葉=外部の秩序を理解することができるものであったといえる。『ナウシカ』にもどれば、「風の谷」の族長は、「風使い」つまり、風の流れ=自然の言葉を読み取り、農業を導く特殊技能者であった。それだけでなく、ナウシカは、腐海の木々や蟲たちの「言葉」を理解する特殊な能力をもったものとして描かれている。ここでは、守護者=祭司者である「王」としてのナウシカが〈外部〉と特殊な関係を持っていることが示されている。上野千鶴子が言うように「権力というのは、象徴的な〈外部〉に対するコントロールの、非常に特権的なあり方[*11]」なのである。
 しかし、ナウシカの「王」としての側面をもっともはっきり示しているのは、アニメ版のラストシーンであろう。アニメ版のラストシーンは、風の谷めがけて突進してくる王蟲の群れが、それに向かって身を投げたナウシカの犠牲によって食い止められ、同時にナウシカが、伝説の英雄「青き衣の人」として復活する、というものであった。この場合、共同体の危機とは、混沌の象徴である荒らぶる神「王蟲」の侵犯によって、日常の秩序、共同体の秩序が脅かされることである。
 ところで、桜井徳太郎らの民俗学者は、「ハレ」「ケ」「ケガレ」という概念を用いて、共同体における秩序と混沌の交代運動をとらえたが、彼らによると、「ケガレ」は、「褻枯れ」ないし「気枯れ」であり、日常的秩序としての「ケ(褻=気)」の喪失と解釈することができる。したがって、王蟲の群れが風の谷におしよせる、「大海嘯」と呼ばれる危機は、「ケガレ」の時間の象徴と考えることもできる。アニメ版ラストシーンにおけるナウシカの死と復活は、このケガレの状態からの共同体の「救済」をもたらした。そして、犠牲による共同体の秩序の再生のドラマが、また「王」の権威の誕生のドラマでもあったことに我々は注目しなければならない。
 王権神話や祝祭には、しばしば「王殺し」というモティーフが現れるということが知られている。古代ローマのサテュルヌス祭をはじめ、一定の期間王として振る舞うことを許された囚人(偽王=モック・キング)が、祝祭の終わりに殺されたり追放されたりすることがあった。このことは「王」が元来共同体の災厄=ケガレを一身に背負い込んで死ぬことによって、災厄を祓うものであったことを示している。王の持つ超越性は、この犠牲とひきかえに得られるものであったのである。したがって、アニメ版におけるナウシカによる世界の救済とは、カオスの侵犯から風の谷という共同体を守ることであった、と結論することができるであろう。そしてナウシカは、死によって外部のエネルギーを得、更なる超越性をもった「王」=青き衣の人として復活する。アニメ版のラストシーンで、ナウシカは、黄金にかがやく無数の王蟲の触手によって天高くささげられ、復活する。この復活は、「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」という、救世主の降臨を予言する伝説の成就とされるのだが、ナウシカの姿とオーバーラップして現れる伝説の「青き衣の人」の姿は、神武天皇をおもわせる、肩に鳥をのせた壮年の男の姿であった。日本神話における「天つ神々」は、芦原中津国の王として高天ケ原より降り立ち、先住民の象徴と考えられる「荒らぶる神々」を平定したとされている。「荒らぶる神」王蟲も、ナウシカによって怒りを解かれ、ナウシカのもとにひれ伏すのであり、ナウシカを、荒らぶる神を「事向(ことむ)け平定(やわ)し」た天孫族と重ね合わせることは、少なくともアニメ版に関しては不自然なことではない。 このように、アニメ版『ナウシカ』は、作者の意図がどうあれ、「王」の誕生を描いたドラマとして解釈せざる得ないようなものであった。そのことが、ある人々には感動を与え、ある人々には反発を覚えさせることになった。

2 コスモスへの移行

 しかし、アニメ版のそうした性格は、漫画版を読む限り、はたして著者の意図したものだったかどうか疑問が残る。というのは、漫画版の構造は、アニメ版とはまったく異なっているように思えるからである。そこで、ここで我々はアニメ版と漫画版との差異について論じることにしよう。
 まず、アニメ版のみを見たものは意外に思うかもしれないが、風の谷は、漫画版においては物語の主要な舞台ではないのである。ナウシカは、第一巻の半ばで風の谷を出て以来、結局最後までそこにもどってくることはない。このことは、漫画版『ナウシカ』とアニメ版『ナウシカ』を構造的にまったく異なったものにしているのである。『ナウシカ』の漫画版の物語の主要な舞台は、風の谷の外で繰り広げられる、「トルメキア王国」と「土鬼(ドルク)諸侯国」という二つの大国の戦争である(アニメ版では、漫画版で重要な役割を果たす土鬼はまったく登場しない)。トルメキアは、「ヴ王」にすべられる北方の大国である。「風の谷」を始めとする辺境諸族は、トルメキアとの間に「盟約」を結び、自治権と引き換えにトルメキアの戦線に参加することを義務付けられている。それに対し、土鬼(ドルク)は、トルメキアにとっては腐海を越えた南に位置する大国である。土鬼の支配者は、「神聖皇帝」であるが、その実質の統治者は「皇弟ミラルパ」である(物語の後半になって神聖皇帝も登場する)。神聖皇帝家は代々超常者を生む家系であり、ミラルパもその怪しい霊力を持って土鬼の民衆の上に君臨している[*12]。彼らは、遥かな昔土鬼の地に「降臨」した皇祖の子孫であると称している。皇帝家は「降臨」に際して、土鬼の土着の信仰を「邪教」として禁圧した。そしてナウシカは、腐海を越えて土鬼に侵攻しようとするトルメキア王女クシャナの軍に従軍し、第一巻の半ばで風の谷を旅立つのである。
 このように、漫画版冒頭とアニメ版を支配する「風の谷」と「腐海」の対立構造は、漫画版中盤においては背景に退いてしまうのである。そして、漫画版中盤以降は、風の谷と腐海の対立、すなわち秩序としての文化と混沌としての自然の対立にかわる、別の対立構造が見られるのである。その新たな対立を象徴しているのが、ナウシカと土鬼の皇弟ミラルパの戦いである。ここで、ナウシカとミラルパの対立にかくされている記号論的意味について考えてみよう。
 土鬼の聖都シュワにある神聖皇帝の墓所に眠っていたミラルパは、トルメキアとの不利な戦況をくつがえすため復活し、その超能力をもって戦争を指揮する。彼は、「火の七日間」によって失われたはずの遺伝子工学の技術を復活させ、人工の蟲や森、さらには「火の七日間」において世界を破滅に導いた最終兵器「巨神兵」をも生み出すことによって、戦線を有利に導こうとする。ナウシカは、こうした動きの中に世界の破滅の再来を予感し、それを防ぐためにたった一人で戦渦の中心に身を投じていく。物語では、そうしたナウシカの姿に土鬼の土着の民の救世主「青き衣の人」の姿が重ね合わされていき、彼女を抹殺しようとするミラルパとナウシカの闘いが描かれる。
 このミラルパとナウシカの対立は、多くの神話の中にある「闘争神話」の構造を持っているように思われる。しばしば英雄による竜退治という形をとるこうした闘争神話で、退治される魔神(竜)は、いわば「悪」そのものの象徴なのだが、神話において表現される「悪」とは、神の秩序に属さない(あるいは秩序そのものを成り立たせる)無秩序ないし反秩序を象徴していると考えられる。山口昌男は、ラムヌーの神話論をかりて、闘争神話の中に、本来夜の顔と昼の顔を合わせ持った二元的=両義的存在としての神性が、反秩序的側面を積極的に悪魔に仮託し切り捨てることによって唯一至高神として形成されていく過程を見る。神話や儀礼の中に見られる秩序と反秩序のメタファーを、山口は以下のように分類する。

 昼―恒常性・秩序・和・光・理性・友愛・恩情
 夜―秘匿・呪術・奇跡・発明・創造・暴力

 土鬼の土着の信仰における救世主「青き衣の人」に同化されたナウシカには、「光」のメタファーがつきまとう。神聖皇帝によって禁圧された土鬼の土着の信仰は、王蟲を神聖視し、終末(腐海の氾濫=大海嘯)が訪れたとき「青き衣の人」が出現し、民を清浄の地に導く、という予言を信じている。「その者青き衣をまといて金色の野におりたつべし。失われた大地との絆を結ばん。」漫画版前半のクライマックスシーン(これはアニメ版においてはラストシーンである)において、ナウシカは、黄金の光を発する王蟲の無数の触手(金色の野)に包まれて復活し、伝説の救世主としての姿を初めて現す。それに対して、我々は、ミラルパの中に夜のメタファーの要素のほとんどがあてはまることに気付く。地下の墓所からやってきたミラルパは、不気味な面布によって顔を被った(秘匿)超能力者(呪術・奇跡)であり、遺伝子工学を用いて巨神兵というデーモンを創造する(発明・創造)。
 また、ナウシカとミラルパの対立は、清浄と不浄の対立でもある。物語が進むにつれ、実は腐海の植物は、最終戦争によってまき散らされた汚染物質を取り込んで分解し、清浄な土地を再生するために存在しているのであり、有毒の瘴気もその分解過程において排出される副産物に過ぎないということが次第に明らかになる。ナウシカは、王蟲とともに腐海の精霊のごとき意味を与えられているが、その意味で、ナウシカ=王蟲は、自然の持つ浄化=再生の秩序を象徴しているともいえる。それに対して、ミラルパは、不浄なものを生み出す人間の愚かさの象徴である。醜く不浄なのは、人間の文明がもたらした「ケガレ」である。アニメ版においては、「ケガレ」は王蟲の氾濫として漠然と形象化されていたが、漫画版においては、「ケガレ」を象徴するより具体的な形象が数多く登場する。自然の秩序にさからうおぞましい生物兵器である粘菌、巨神兵、それらを生み出す超能力者ミラルパなどでもある。ナウシカにおいて、ケガレとは自然の秩序に反することとされているわけである。
 しかし、ここで我々は、ナウシカとミラルパに代表される秩序と混沌の対立が、「物質性」の対立として描かれていることに注目したい。秩序あるいは清浄さを象徴する物質性は、「風」や「水」である。とくに「風」は、「風使い」であるナウシカを常に助ける優しい存在である。また、腐海においては猛毒の瘴気を発する植物たちも、「きれいな水と空気のなかでは」瘴気を出さない[*13]。それに対して、『ナウシカ』において混沌やケガレを象徴するのが、常に「ねばねば」「どろどろ」したものである、ということに注目したい。たとえば、幽体離脱したミラルパは「生きている闇」のようなアメーバのごとき不定形の化け物と化す[*14]。あるいは、生物兵器の開発過程で突然変異してうまれた、恐ろしい速度で変形し、あらゆるものを飲み込んでゆく巨大な「粘菌」(まさにねばねばしたものである)[*15]。これは我々に、世界のあらゆるものを飲みほしてしまった「リグ・ヴェーダ」の巨大な竜ヴリトラを思い起こさせる。「ねばねばしたもの」のもつ、「液体でも固体でもない」という性質は、それ自体が秩序の否定であると考えることもできる。そうしたことから、宮崎は無意識にケガレを「ねばねばしたもの」として描いたのではないだろうか。
 以上、ナウシカとミラルパの対立が、秩序と反秩序、清浄と不浄の対立を象徴している、ということを見た。しかし、この対立を、我々が以前みた、風の谷と腐海の対立(やはり共同体の秩序とその外部の反秩序=混沌の対立であった)と重ね合わせることはできない。ナウシカは風の谷の王としてではなく、土鬼の民衆の救世主としてミラルパと戦うのであり、また、ナウシカが体現するのは、風の谷という共同体の秩序なのではなく、王蟲が象徴する、自然の再生力としての秩序である。そこで、ナウシカ―ミラルパと風の谷―腐海という二つの対立軸の関係を図示すると以下のようになる。

        ナウシカ : ミラルパ
   風の谷 : 腐海

 さてここまできて我々は、このずれを解決するために、山口昌男による秩序−混沌の二項対立にかえて、上野千鶴子がバーガーから受け継いだカオス・コスモス・ノモスの三元論を採用することにしよう。上野によると「ノモスとは、世俗的秩序の支配する世界(……)の領域であり、コスモスとは、ノモスを正当化する規範的秩序の世界(……)の領域である。(……)コスモスとノモスは、ほぼ聖俗の二元論に対応し(……)かつコスモスとノモスの両者は、共に秩序として、カオスに根源的に対立する。[*16]
 漫画版前半とアニメ版を支配していた「風の谷」と「腐海」の対立は、ノモスとカオスの対立である。それは世俗的秩序と混沌との対立であり、これは、共同体の〈内部〉と〈外部〉の対立、すなわち水平軸上の対立であると言える。それに対して、ナウシカとミラルパの対立も、秩序と混沌の対立であるが、秩序を体現するナウシカは、ここでは日常的、世俗的秩序の上位に位置する、聖なる、神的な秩序を体現している。したがって、ナウシカとミラルパは、それぞれコスモスとカオスとして、垂直軸上で対立していると言える。そこで、漫画版『ナウシカ』の物語の構造を、カオス・ コスモス・ノモスの三元論にしたがって図示してみると、以下のようになるであろう。

            (ナウシカ)
             コスモス
           ・     ・
          ・       ・
         ・         ・
        ・           ・
     カオス ・ ・ ・ ・ ・ ・ ノモス
   (ミラルパ)            (風の谷)

 以上述べたことから、アニメ版と漫画版の構造的差異が明らかになったのではないだろうか。先にものべたように、アニメ版のストーリーには土鬼とトルメキアの対立が全く抜け落ちている。そして、物語の舞台も風の谷にほぼ限定されており、つまり、アニメ版の物語は我々のいう「垂直軸」を捨象したところになりたっているのである。いいかえれば、アニメ版においては、漫画版のカオス・コスモス・ノモスの三元論が、風の谷に象徴される共同体の秩序(ノモス)と腐海に象徴される混沌(カオス)の二元論に単純化されているのである。
 そのことを考えるとき、我々は大塚英志が前掲書の中で行っている重要な指摘を見逃すわけには行かない。大塚は、アニメ版のラストシーンに対応する、おとりとして傷付けられた王蟲の幼生を救う場面[*17](漫画版においてはこれはラストシーンではない)をとりあげている。それによると、この場面でナウシカがトルメキアのコルベット(飛行船) を使って王蟲の幼生に酸の海を渡らせるとき、ナウシカは人間社会が彼女に与えた戦士=共同体の守護神という立場を捨て腐海=自然の側に「渡り」自然を具現する青き衣の「神」として生まれ変わるのだという[*18]。これは、ナウシカの犠牲的死と、共同体の「王」としての復活(つまりナウシカは自然=腐海から、共同体に「帰る」のである)が描かれるアニメ版の結末と対称的である。つまり漫画版中盤においては、『ナウシカ』は、風の谷の族長の娘としてうまれたナウシカが、共同体の秩序(ノモス)を離れ、自然の秩序(コスモス)へ渡る物語だといってもいい。
 日本神話と対比した場合でも、アニメ版と漫画版は異なっている。アニメ版では、ナウシカは荒らぶる神を「事向(ことむ)け平定(やわ)し」た征服者である天津神の位置にいるように見えたが、漫画版中盤以降における彼女は、「土鬼」(この名前は、日本神話に描かれる被征服民「土蜘蛛」を思いおこさせる)の民衆のもとにいる。そして、彼女が戦う土鬼の王「ミラルパ」は、遥かな昔土鬼の地に「降臨」し、土鬼の土着の民を弾圧した征服者である「皇祖」の子孫である。つまり、アニメ版とは逆に、ナウシカは、被征服民とともに征服者「天津神」と闘っているのである。
 以上のように、ナウシカの漫画版は、ナウシカが、アニメ版と漫画版冒頭における風の谷の「王」としての役割を捨て、腐海の「神」としての姿を現していく物語として読めるのであり、また、ナウシカが「ノモス」から「コスモス」へ移行していく物語とも読めるのである。漫画版中盤では、ナウシカは風の谷の王という役割を振り払うかのように腐海や土鬼の地をさまよう。アニメ版のナウシカとは異なって、腐海の秘密を暴き、世界を救うために奔走するナウシカにとって、「風の谷を救うこと」は二の次であるようにさえ思える。おそらく、宮崎は、アニメ版におけるようにナウシカが「王」としてあまりにもはっきりと形象化されてしまうことに危惧を感じていたのではないだろうか。

3 カオスの解放

 アニメ版のナウシカは「王」としてのナウシカである。では、漫画版のナウシカは「神」としてのナウシカである、といっていいのだろうか。たしかに、漫画版中盤までに関しては、明らかにそうである。しかし、宮崎は、漫画版終盤の物語を描く中で、今度はナウシカの役割が腐海の「神」として定着してしまうことを避けようとしたおうに思える。数度の長期にわたる中断を経たあと、漫画版『ナウシカ』の物語は終盤に至って大きく展開したのは、そのことから説明できるように思う。
 我々はさきに、漫画版においては、アニメ版においては漠然としていた「カオス」ないし「ケガレ」が具体的に形象化されている、と述べた。漫画版において、宮崎は、「善神」としてのナウシカの対立項である「悪神」として、ミラルパ、粘菌、巨神兵を次々登場させる。だが、結局それらは物語の終盤にいたって次々と復権されてしまうのである。漫画版中盤の最大の悪役であったミラルパは、ナウシカの心象世界におけるナウシカとの最後の戦いにあっさり破れ、みじめで弱い生き物としての姿に変わってしまう。また、彼は実はかつては民を救おうとした名君であったことも明らかになる。遺伝子操作によって生まれた恐ろしい最終兵器として登場した粘菌であるが、ナウシカはいつのまにかこの化け物を「あの子」と呼び[*19]、腐海の生態系に溶け込んだ粘菌は、悪役であることをあっさりやめてしまう。そして、世界の破滅の原因となった巨大兵器であり、アニメ版や漫画版前半においては悪の象徴そのものであるかのように描かれていた巨神兵にいたっては、物語の終盤で何とナウシカの息子として「オーマ」という名を授けられ、ナウシカとともに世界を救うために戦う。その意味では180度その役割を変化させるのである。(悪役が途中で悪役ではなくなってしまうというのは他の宮崎作品でもしばしばみられることではあるが)。
 また、こうした宮崎における「ケガレ」の復権は、「蟲使い」というキャラクターの位置づけの変化という形でもあらわれている。漫画版で「蟲使い」が初めて登場するのは第一巻である。ペジテ市の地下で、かつて世界を破滅に導いた巨大な兵器「巨神兵」が発見される。それを制御する鍵である「秘石」の行方を巡って物語ははじまるのだが、秘石を探索するためにトルメキア兵によって雇われたのが「蟲使い」である。彼らは蟲を飼い慣らし操ることができる民であるが、彼らがあやつる蟲は、冒頭の腐海の中のシーンで見られた蟲たち(甲虫)とはちがい、なめくじのような蛆虫のような、白く柔らかい蟲であり、「ヒクヒク」「ピチャピチャ」という擬音語とともに、読者に嫌悪感を催させるようなねばねばした存在として描かれている[*20]。蟲使いそのものも「屍を好んでまさぐるいまわしきやつら」と呼ばれ、汚らわしい存在として描かれている。注目すべきなのは、そうした蟲使いとその蟲に対する差別的な意識をこの段階ではナウシカまでもが共有しているという点である。ナウシカはトルメキア兵に対し「汚れた蟲使いを伴い他国を汚染させるとは何事だ!」と叫び、蟲使いの蟲たちが体にはい上ってきたときは、怒りをあらわにして「トルメキアの男どもめ、よくもわが身をいまわしき蟲で恥ずかしめたな!!」と叫んでいる。だが、その後宮崎はそうした蟲つかいの位置づけを修正していく(たとえば、第二巻では、戦士ユパに「蟲使いも人間だよ。あまり忌みきらうのはよくないな」という台詞を語らせている[*21]。蟲使いの役割は物語の進行にしたがって次第に重要性を増し、最終巻においては、蟲使いたちの解放が物語の重要なテーマの一つとさえなる。
 このように、漫画版『ナウシカ』においては、物語の冒頭でかなり緻密に設定した二元論的構図を、宮崎が自ら修正し、逆転しようとする努力が随所に見られる。排除されるべきものとしてのカオス、ケガレがいったんは形象化されるのだが、それらの排除は結局行われない。これは、物語を進行させる中で、宮崎が、マイナスの価値を与えられたもの(カオス、ケガレ)を排除することそれ自体に危険性を感じたからであると思われる。宮崎は、漫画版中盤において「コスモス」と「カオス」の対立構造を設定しながら、終盤においてその構造をみずから否定しようとするのである。第七巻において、ナウシカはこう語る。「世界を清浄と汚濁に分けてしまっては何も見えないのではないか[*22]」と。
 最終的に、宮崎は、当初神聖な自然の再生秩序として描いていた腐海の浄化システムをも否定してしまう。最終巻である第七巻には、「墓所の主」という、「神」のごとき存在が登場するのであるが、この神は、実際には、旧世界の科学者たちがつくった、世界の復活のプログラムが記された生体コンピュータのようなものだったのである。「火の七日間戦争」によって地球が汚染された時、科学者たちは、バイオテクノロジーによって腐海の生物を作りだし、地球を浄化する「ための」生態系を作りだした。何千年もかけて浄化が終われば、腐海の生物は滅び、再び清浄になった世界に旧世界の人間が復活する、というプログラムが作られていた。つまり、腐海の浄化システムは、「自然」の再生秩序であるどころか、人間によってつくられたものだったという事実が、最終巻にいたって明らかになるのである。ところが、ナウシカは、腐海の生物を来るべき清浄な世界のための道具として作ったことを旧世界の人間のエゴと考え、腐海の浄化システムが清浄な世界を復活させる唯一の方法であると知りながら、その中心である「神(浄化の神)」を、巨神兵とともに破壊してしまう。つまり、ナウシカは「神殺し[*23]」を行うのであり、ある意味で、腐海もろとも世界を滅ぼす、という「悪魔」の役割を担うのである[*24]
 このように言ってもよいかもしれない。腐海とは、いわば魔女(人間)によってみにくい黒いカラスの姿に変えられてしまった王子である。そして、ナウシカは、みにくいカラスをわけへだてなく愛する少女である。だが、この手の物語ではたいてい、最後には魔法が解けて、みにくいカラスは美しい王子の「本当の」姿にもどるのである。同様に、少なくとも中盤までの『ナウシカ』においては、腐海も、美しい清浄な森の姿をとりもどすとされている(浄化された美しい森のイメージは、何度か登場する)。しかし、だとすると、みにくいカラスへの愛、腐海への愛は、結局は王子への愛、美しい自然への愛に還元されてしまう、ともいえるのであって、カラスとしてのカラス、腐海としての腐海のみにくさそれ自体は、最後まで救われないわけである。だが、「神」を殺すことによって、ナウシカは腐海を魔法(みにくさ)から解く鍵を捨てる。つまり彼女は、腐海をケガレ「から」解放するのではなく、腐海のケガレそのもの、みにくさそのもの「を」解放する道を選択したわけである。
 こうして、「王」としての役割を捨てて「神」となったナウシカは、最終巻においてその「神」という役割をも捨てるのである。つまり、「ノモス」から「コスモス」に渡ったナウシカは、最終的に「カオス」の解放に身を投じたのだともいえる。

結び

 以上、我々は、アニメ版、漫画版中盤、漫画版終盤において、『ナウシカ』という物語の構造が変化しており、それに対応してナウシカの役割も変化しているということを見た。こうした複雑さが表れたのは、作者宮崎が、物語を構成していく中で明確な構造を打ち立てようとしながらも、同時に、ある構造が定着してしまうことの危険性を常に意識していたことから来ていたと思われる。漫画版『ナウシカ』が完成に十年を要したのも、それが原因かもしれない。
 いずれにせよ、『ナウシカ』の一部分だけをみて、そのテーマを、共同体の秩序を強化しようとする英雄待望論や、自然の秩序を礼賛するエコロジー思想と単純に同一視することは明らかに間違いである。

*1 大塚英志『まんがの構造』弓立社1988
*2 宮崎駿『風の谷のナウシカ』(徳間書店アニメージュコミックス・ワイド版)第一巻p.19
*3 鎌田東二『聖トポロジー』河出書房新社1990, p.106.
*4 山口昌男『文化と両義性』岩波書店1975, p.2.
*5 秋本吉徳編『風土記(一)』講談社学術文庫1979, p.105.
*6 山口昌男『文化と両義性』p.1.
*7 上野千鶴子「〈外部〉の分節―記紀の神話論理学」(『大系仏教と日本人1』春秋社1985所収)p.262.
*8 『ナウシカ』第一巻p.56.
*9 秋本吉徳編『風土記(一)』p.71.
*10 山口昌男『文化と両義性』p.4.
*11 網野善彦、上野千鶴子、宮田登『日本王権論』春秋社1988, p.12.
*12 『ナウシカ』第四巻p.90.
*13 『ナウシカ』第一巻p.82.
*14 『ナウシカ』第四巻p.133.
*15 『ナウシカ』第四巻p.136.
*16 上野千鶴子『構造主義の冒険』勁草書房1985, p.34.
*17 『ナウシカ』第二巻p.70-80.
*18 大塚英志『まんがの構造』
*19 『ナウシカ』第四巻p.136.
*20 『ナウシカ』第一巻p.46.
*21 『ナウシカ』第二巻p.101.
*22 『ナウシカ』第七巻p.130.
*23 これは、宮崎のアニメ作品『もののけ姫』(1997)のテーマでもある。
*24 最後まで残っていた「悪役」(というよりもニヒリスト)であるトルメキアのヴ王は、ナウシカのこの「悪」の側面に興味を持ち、ナウシカを救って死ぬ。


ナウシカ関連年表

※「雑誌」とは、月刊『アニメージュ』(徳間書店)を、「単行本」とは、アニメージュコミックス・ワイド版『風の谷のナウシカ』(徳間書店)を示す。
1982年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(2月号〜12月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第1巻発売 (1982年2月号〜9月号掲載分)
1983年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(1月号〜6月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第2巻発売 (1982年10月号〜1983年5月号掲載分)
1984年 映画 「ナウシカ」公開
    マンガ「ナウシカ」雑誌連載(8月号〜12月号)
1985年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(1・2・4・5月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第3巻発売 (1983年5月号〜6月号、1984年8月号〜12月号掲載分)
1986年 映画 「天空の城ラピュタ」公開
    マンガ「ナウシカ」雑誌連載(12月号)
1987年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(1月号〜6月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第4巻発売 (1985年1・2・4・5月号、1986年12月号、1987年1月号掲載分)
1988年 映画 「となりのトトロ」公開
1989年 映画 「魔女の宅急便」公開
1990年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(4月号〜12月号)
1991年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(1月号〜5月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第5巻発売 (1987年2月〜6月号、1990年4月号〜7月号掲載分)
1992年 映画 「紅の豚」公開
1993年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(3月号〜12月号)
    マンガ「ナウシカ」単行本第6巻発売(1990年7月号〜1991年5月号掲載分)
1994年 マンガ「ナウシカ」雑誌連載(1月号〜3月号)
1995年 マンガ「ナウシカ」単行本第7巻発売(1993年3月号〜1994年3月号掲載分)
1997年 映画 「もののけ姫」公開