TOP

シガレットを数える手
――非措定的意識について――


永野 潤


 序


 初期サルトルは、現象学を継承しつつ、一貫して「意識」の問題を追求した。意識を「対自存在」として位置付けた「現象学的存在論」、『存在と無』(1943)は、彼の「意識の哲学」の集大成である。その中で、サルトルは意識を二つの側面から記述している。まず、サルトルは「あらゆる意識は何ものかについての意識である」ということを強調する。サルトルによってこのように記述される意識を、「対象意識」と呼ぶことにしよう。しかし、同時にサルトルは、「あらゆる意識は自己についての意識である」と言う。これを、「自己意識」と呼ぶことにしよう。本論でわれわれは、この「自己意識」と、サルトルがそれとの違いを常に強調していた「反省」との関りをめぐる問題について考察する。その際われわれは、W・ブランケンブルク、R・D・レイン、山崎正和という三人の論者の、自己意識に関する議論を検討することになる。
 サルトルは、意識を一方で「対象意識」として規定し、他方で「自己意識」として規定しているわけであるが、「自己意識」の問題に入る前に、まずサルトルによる「対象意識」としての意識の記述について見てみることにしよう。
 
 
 フッサールの示したところによると、あらゆる意識は、何ものかについての意識 conscience de quelque chose である。その意味は、超越的対象の措定でないような意識は 存在しないということである。[*1]
 
 フッサールを受け継いでこう主張することによって、サルトルは、意識が実体であることを否定する。意識はそれ自体で存在するのではない。あえていえば、意識はそれ自体では「無」であり、つねに「何ものかについての意識」である。ベルリン留学中に書いた小文「フッサール現象学の根本理念:志向性」(1933)の中には、意識を実体化することへのサルトルの激しい否定が見られる。その中でサルトルは、意識を「内面」として実体化する観念論的哲学を「内在の哲学」として批判している。
 サルトルは、内在の哲学が、認識を、意識が外部の事物を内部に取り込み、内部と一体化することとしてとらえていることを批判している。それに対してサルトルは、認識とは、意識が外部にむかって「破裂し」、外部と一体化することであると主張する。
 
 認識することとは「に向かって自己を破裂させる s'éclater 」ことであり、じめじめしたお腹の親密さから抜け出し、彼方に、自己を越えて、自己ではないものの方へ向かっていくことである。[*2]
 
 サルトルは意識の外部への「破裂」というイメージを用いて、意識が「実体であることの拒絶」そのものであると主張する。
 
 意識は純粋化されたので大風のように透明となり、もはや意識のうちには、己れを逃れる運動、己れの外への滑り出し以外は何もない。もし、これは不可能なことなのだが、あなたが意識の「中に」入ったとしても、あなたは渦にとらえられ、外に、木のそばに、埃の中に放り出されるだろう。というのも、意識は「内部」をもたないからである。意識は、それ自身の外部以外のなにものでもなく、意識を意識として構成しているのは、この絶対的な脱走であり、実体であることのこの拒絶である。[*3]
 
 そしてサルトルは、意識が外部の生き生きとした実在「についての」意識であることを教えるフッサールの現象学を、われわれを「内面」から解放してくれるものとしてとらえていたのである。
 
 いまやわれわれは、プルーストから解放された。同時に「内面生活」からも解放された。アミエルのように、自分の肩を抱きしめる子供のように、われわれの親密さ intimité の抱擁や甘やかしを求めても無駄だろう。[*4]
 
 
 こうしてサルトルは、意識がそれ自体では無であり、あくまで「対象についての」意識であるということを強調するのだが、他方でサルトルは、あらゆる意識は対象についての意識であると同時に「意識自身についての意識」でもあることを強調するのである。「対象についてのあらゆる措定的意識は、同時に、それ自身についての非措定的意識である[*5]。」サルトルは『存在と無』の中で、自己意識について、「ケースの中にあるシガレット(たばこ)を数える」場面を例にとって説明している。シガレットを数えている意識は、対象意識としてみればあくまで目の前の「シガレットについての」意識なのであるが、サルトルは、シガレットを数える意識は、シガレットについての意識であると同時に「数えていることについての」意識でもあるというのである。そうでなければ、数えるという行為は、行為としては成立し得ない。
 
 数えることについての非措定的意識こそが、私の加算活動の条件そのものである。もしそうでないならば、どうして加算が私の諸意識を統一する主題となることがあろうか。[*6]
 
 こう主張することで、サルトルは、実在論に反対し、意識を実在的過程に還元することを否定する。対象以前に存在する「内面」としての意識などないのであるが、「自己意識」だけは対象に還元され得ないものとして存在しているというのである。しかし、数えるという行為につねにともなっているこの「自己意識」は、数えていることについて反省している場合の「自己認識」とは違う、ということをサルトルは繰り返し強調する。反省においては、意識は意識自身を対象として措定する。数えていることを反省する場合、私は数えることをやめて、数えることを外側から観察する。この時、いわばシガレットについての意識であったものが、数えることについての意識に置き替わるわけである。この場合、「反省する意識」と、その対象となっている「反省される意識」の分裂が生じる。だが、数えることについての非措定的自己意識とは、そのように意識が反省的に自己を対象として「認識する」こととは違う。それは数えている最中に意識が数えていることに「気付いている」ことである。私は、自分が数えていることをあらためて反省するまでもなく、数えている最中にすでにそのことに気付いている。非措定的自己意識は、自己についての knowledge ではなく、自己についての awareness であり[*7]その意味で自分が数えていることについての「観察によらない知」である。サルトルは、非措定的自己意識を、反省における「自己についての意識」と区別するため、「についての de 」という言葉をかっこに入れ、「自己(についての)意識 conscience (de) soi」と書く。こうした意味で、サルトルは非措定的自己意識を「前反省的コギト」とも呼んでいる。
 
 非反省的意識が反省を可能にする。デカルト的コギトの条件であるような前反省的コギト cogito pré-réflexif があるのである。[*8]
 
 非措定的意識は、反省以前的な自己についての awareness であり、その意味ではそれは認識というよりも身体感覚や気分としてとらえるべきものである。サルトルは、「身体は自己(についての)非措定的な意識の諸構造に属する」といい、「非措定的な意識は、身体(についての)意識である」という。また、この身体(についての)意識は、「自分が触発される仕方 la manière dont elle est affectee (についての)非措定的な意識」あるいは「根源的な情感性 affectivite 」としてとらえられている。
 シガレットを数えているとき、私は数えている私の手を対象として措定的に意識しているわけではない。身体は、「なおざりにされ négligé 」「黙過されて passé sous silence 」いる[*9]。しかしそれは、意識が身体と無関係であるということではない。数えているとき、私の意識は数えている手と一体となっているのであり、その意味で数えている意識は「身体である」ということができる。意識は身体と「存在的な関係 relation existentielle 」をもつのであって、サルトルは「存在する exister 」という動詞を他動詞に用いて「意識はその身体を存在する elle existe son corps 」という[*10]。身体は、いわば図と地の関係において地が保持されるように、意識によって「存在される」という仕方で保持されているのである。身体は「地-身体 corps-fond」である。要するに、身体は「生きられるのであって、認識されるのではない il est vécu et non connu[*11]」。『情動論素描』(1939)においては、「文字を書く」という場面についてではあるが、次のように言われている。
 
 私の手はといえば、私がそれを文字の実現される道具として直接的に生きているという意味では、私はそれを意識している。それは世界の中の一対象ではあるけれども、しかし、現前しつつも同時に生きられてもいるのだ。[*12]
 
 ただし、「身体(についての)意識」という場合にも、それが自己の身体の反省的認識とは違うということが強調されている。サルトルは、前反省的自己意識と反省的自己認識との区別と対応させて、二つの身体を区別している。前反省的に意識されている身体は「対自-身体 corps-pour-soi 」と呼ばれ、反省的自己認識(あるいは他者のまなざし)にとっての対象としての身体は、「対他-身体 corps-pour-autrui 」と呼ばれる。サルトルは、この二つの身体が「交流不可能な二つの次元に属する」[*13]という。
 
 
 さて、われわれがこうした前反省的な自己意識(身体意識)を持っていることの証拠としてサルトルが指摘するのは、次のような事実である。
 
 もしだれかが私に向かって、「あなたはそこで何をしているのですか」とたずねたならば、私は即座に「数えているのです」と答えるであろう。[*14]
 
 あるいは、『自我の超越』(1937)には、次のような記述がある。
 
 「あなたは何をしているのですか」と人にきかれて、私はまったく行為に没頭したまま「この絵を掛けようとしているのです」とか「後のタイヤを直しているのです」と答える。この場合、それらの言葉はわれわれを反省の地平につれていきはしないのであり、私はそれらの言葉を、作業をやめることなく、行為のみを心にかけることをやめずに発する。[*15]
 
 数えることをやめずに、即座に答えることができるということが、非反省的行為の地平において自己意識が存在することの証拠とされている。
 こうした反省以前的な自己意識が存在するかぎり、数えている人間にとって、自分が数えているということはまさに問われるまでもなく「自明な」ことであり、「なおざりにされて」いるはずである。しかし、「あなたは何をしているのですか」という質問に即座に答えるということは、誰にとってもいつでも容易なことであるとはいえないかもしれない。W・ブランケンブルクは、「自然な自明性 natuerliche Selbstverstaendlichkeit が失われてしまった 」と訴えるアンネ・ラウと呼ばれている女性の告白を報告している(『自明性の喪失』)。彼女はこう語る。
 
 ……どういえばよいのでしょう……簡単なことなのです……わからないけど、わかるということではないんです Ich weiss nicht, kein Wissen 実際そうなんですから……どんな子供でもわかることなんです。ふつうなら自明なこととして身につけていること、それを私はどうしてもちゃんということができません。[*16]
 
 彼女が失ったのは、彼女自身の言葉に見られるように、自明なことについての Wissen ではなく、自明なことについての Verstehen であるといえる。ブランケンブルクはこのことに関して、「観念知 Vorstellungs-wissen 」と「実践知 Tat-wissen 」とを区別し 、アンネが失ったのは後者であるとしている[*17]。その意味で、彼女の自明性の喪失はサルトルのいう非措定的自己意識にかかわることだとも思える。実際、ブランケンブルクはサルトルの名前をあげて、アンネには「悟性の助けを借りて反省された自己との関係のうちに欠落があるのではなくて、直接的な自己との関係そのもののうちに、つまり前反省的コギト(サルトル)のうちになんらかの欠落がある[*18]」といっている。ブランケンブルクは、分裂病における自明性の喪失という形での日常性からの逸脱を、非反省的行為における自己意識の喪失として理解するわけである。
 分裂病者の陥っている状況を、「一次的な存在論的安定」が欠如した「存在論的不安定」としてとらえるR・D・レインも、分裂病(質)者の日常性からの逸脱を、自己意識の喪失として描いている(『引き裂かれた自己』)。多くの人間は「日常的生活環境」の中で自分が「現実的で生きていると感じて feel real and alive 」いる。しかし、存在論的不安定におちいった人間は、この感覚を失ってしまう。こうした自己の現実感覚の喪失は、身体感覚の喪失としてもあらわれる。彼らは「自己を身体から離別された部分として感じる」[*19]。レインは、「身体化された自己 embodied self」と「身体化されない自己 unembodied self」という用語を用いて、分裂病者は自己を「身体化されないもの」として経験しているのだという。レインがいう、日常的に経験されている「身体化された自己」とは、サルトルがいう「対自身体」にあたるものだといえる。
 しかし、興味深いのは、レインによって紹介されている分裂病(質)者の体験の記述が、サルトルによる「対象意識」の現象学的記述と非常に似通っているということである。レインはジェームズという青年の次のような体験を紹介している。
 
 ジェームズはある夏の夕方公園でひとり歩いているとき、愛しあっている二人連れを見て突然全世界とのおそろしい一体感をおぼえた。空や木や花や草との、二人の恋人たちさえ含めての一体感だった。彼は仰天して家に駆けもどり、読書に没頭した。僕にはこんな体験をする権利がないと彼は自分に言い聞かせたが、それ以上に彼は、全世界への自己のこのような没入と融合に伴う、アイデンティティの喪失のおそろしさにおののいた。[*20]
 
 「大風のように透明となり」「外に、木のそばに、埃の中に放り出される」という意識の「破裂」は、サルトルによって内面からの「解放」としてとらえられていたが、ジェームズには、そのことが、現実の脅威にさらされたアイデンティティの喪失として体験されている。自己の存在に対する感覚を失った人間にとっては、多くの人がとくに注意を払わずそこで生きている日常的生活環境そのものが「自分を脅かすもの」としてあらわれてくるわけである。レインは、分裂病者が体験する「現実の侵害」によるアイデンティティの喪失を、「内破 implosion 」という言葉で表している。内破とは、「気体が噴入してきて真空を抹消するように」現実が自己のアイデンティティを破壊することである。「人間は自分を真空のように空虚だと感じる。だがこの空虚さが彼なのである[*21]。」サルトルが記述する意識の「外に向かっての破裂」は、分裂病者にとっては「内に向かっての破裂(内破)」として体験されている。
 
 
 サルトルによる現象学的記述と病者の経験との関連ということを考えるとき、ブランケンブルクによる現象学者と分裂病者の「エポケー」に関する考察は、われわれにとって示唆に富んだものである。まずブランケンブルクは、現象学的エポケーと自然な自明性の病的な喪失との共通性を指摘する。
 
 エポケーということはそれ自体、日常的現存在の自明性からの、つまりわれわれがそれによって生活世界へ根をおろしているところの単純措定的な、素朴で無反省な生き方、動き方、考え方からの、徹底的な[……]離脱以外のなにものでもないからである。[*22]
 
 現象学的エポケーは、非反省的な経験を純粋に記述するために経験から「離脱する」という、理論的な営みである。「自然な自明性を的確にとらえるためには、われわれはそれの背後にまわってみなくてはならない」。しかし、ブランケンブルクは、エポケーについて、理論的側面にはおさまらない部分、つまり、現象学者がエポケーの遂行において「何を経験するか」を問題にする。彼が注目するのは、現象学者がエポケーに際して「特有の抵抗widerstandに出会う[*23]」という事実である。そしてこの「抵抗」は、現象学にのみかかわることでもはないだろう。たとえばフーコーは、デカルトの懐疑における「狂気の排除」を問題にするのだが、デカルトを狂気の排除に導いたものが、「私の身体、そして、それについての私の無媒介的な知覚」「生き生きとしたもの、そして身近なものとして定義される領域」への懐疑に対する「抵抗」であったと言う[*24]
 ところで、現象学者(哲学者)は、「抵抗」にうち克ってエポケー(懐疑)を遂行しようとするのだが、「患者」は、このエポケーの中に出発点からすでにとらわれてしまっているわけである。したがって、現象学者と患者にとっての自明性の喪失とは、事態としては共通していても、正反対の意味をもっていることになる。
 
 一部の患者が、現存在の営みにおいて生き続けるための必要最小限の自明性を求めて、絶望的な悪戦苦闘を強いられているのに対して、現象学者は、それとは逆方向の戦線の立て方で[‥‥]エポケーの遂行をめざして強い抵抗と闘っている。[*25]
 
 しかしいずれにせよ、こうした懐疑への「抵抗」が存在することは、日常生活のなかでわれわれがやり過ごしている「自明なもの」が、実はわれわれの生にとって不可欠な、「根本的なもの」であることを示している。自明性を失うことは危険に満ちたことであるからこそ、われわれはそれに抵抗するのである。その意味で、日常的な生にとらわれていること、つまり世界に「没入し得る」ということは、「世界への根付き」として「ポジティブに」とらえるべきものなのであって、「頽落」や「非本来性」というような「欠損的様態としては十分に捉えることがでない[*26]」とブランケンブルクは言う。ブランケンブルクは、現象学的反省が、非反省的(日常的)生を越えて高みに向かうということなのではなく、むしろ非反省的生こそがわれわれの生の基盤なのだということを確認しようとしているのである。それは、「徹底的な反省は自分自身が非反省的生に依存していることを意識しており、この非反省的生こそ反省の端緒的かつ恒常的かつ終局的な状況である[*27]」と言ったメルロ=ポンティが強調していたことでもある。
 
 [現象学的エポケーは]常識や自然的態度の確信を放棄することではない――反対にそうした確信こそが哲学の変わらぬテーマである――。むしろそうした確信が、まさにあらゆる思惟の前提として「自明なものであり elles vont de soi 」気付かれないままに通り過ぎてしまうからこそ、それらを喚起しそれとして出現させるためには、われわれはそれらを一時さし控えなければならないということなのである。[*28]
 
 
以上のように、ブランケンブルクは、現象学者と分裂病者の二つのエポケーの分析を通じて、「自明なもの」としての日常的生を、根源的なものとして再評価しようとしているわけである。しかし、サルトルは日常的生に対してブランケンブルクとは正反対の評価を与えている。サルトルにとって日常的生とは、自由から逃避し、既成の諸価値の内に安住しようとする生である。『自我の超越』では、「自然的態度」は、「意識が自分自身から逃れようと自我のなかに身を投げて、それに没頭するための努力[*29]」であるとされている。朝目覚ましの音を聞いて起きあがり、仕事に出かけること、「芝生に立ち入るべからず」という立て札をみてそれにしたがうこと、それらは「日常的な道徳[*30]」であり、われわれは自明なこととしてそれにしたがっている。そうした生き方を、サルトルは「くそまじめな精神 esprit de sérieux」と呼んでいる。
しかし、目覚まし時計の音で起きて会社に行くことの自明性を疑ったとき、われわれは「不安」にとらわれることになる。こうした不安を、サルトルは、日常的道徳と対比させて「倫理的不安」と呼んでいる。サルトルは、日常生活における「世界への根付き」ではなく、「自己自身からの離脱arrachement à elle-mème 」としての「自由」をこそ、人間存在にとって根源的なものとしてとらえるのであり、不安とは「自由そのものによる自由の反省的把握」である。「不安においてこそ、自由はその存在においてそれ自身にとっての問題となる[*31]」。サルトルはそこから、エポケーが不安という形ですべての人間に「課されている」ことを導き出すのである。エポケーは「知的な方法、学問上の手続きなどではもはやなく、われわれに課された不安、われわれが避けることのできない不安[*32]」である。ブランケンブルクはエポケーに対する「抵抗」の存在から日常的生の根源性を導き出したが、サルトルは、「不安」の存在から、エポケーの根源性を導き出すのである。
 こうしたサルトルの立場は、まさにブランケンブルクが批判するところの、日常的生を「欠損的様態として」とらえる立場であるといえる。しかし、自明性を失った患者たちは、日常的生における世界への根付きを求めて悪戦苦闘しているのであり、その意味で、ブランケンブルクらの精神医学者の立場からは、日常的生を否定的にとらえるサルトルの立場は批判されることになるだろう。たとえば、アルフレッド・スターンは、実存主義的観念が分裂病患者の精神状況に悪影響をおよぼし、患者の病的不安をますことがあることを指摘し、「[サルトル哲学の方法である]実存的精神分析は精神療法とみなすことはできない[*33]」と言う。「フロイトの経験的精神分析がわれわれを不安から解放しようとするのに対し、サルトルの実存的精神分析はわれわれに不安を―本来的生の不安を―与えようとしている[*34]」のであり、サルトル哲学は、患者の日常的生への復帰をたすける精神疾患の療法とはなり得ない、というのである。
 こうした精神医学からのサルトル批判について検討するまえに、われわれは以下で、山崎正和による少し異なった観点からなされたサルトル批判(『演技する精神』)をとりあげることにしたい。というのも、この批判の検討によって、非措定的自己意識に関する問題が浮き彫りにされると思われるからである。
 
 
 「演技」というテーマのもとに、「行動における意識」のあり方を明らかにしようとする山崎は、「意識は何ものかについての意識であるとともに、また、意識そのものについて感じてゐる意識」であるとし「この[意識の]二側面の捉へ方の違ひが、近代のさまざまな意識理論の違ひをつくってきた」という。山崎によると、その両極端がフッサールとベルクソンである。そして彼は、意識を「たえまない存在からの離脱」として見るサルトルは「フッサールの極端な追従者」であるという[*35]。われわれははじめに、サルトルが、意識を「対象意識」として規定すると同時に「自己意識」として規定しているということを見たが、山崎によると、サルトルは意識に「対象意識」としての側面しか見ていなかったのだということになる。
もっとも山崎は、サルトルが「意識の地がまさに地として意識されるしかたを正確に記述していた」ことは評価している[*36]
 
 〔サルトルにしたがえば〕人間にとって最初にあるものは具体的な身体運動であって、意識はまさにそのただなかでめざめるのであるから、意識の周辺にはつねに特定の身体運動の感触がまつはっている。たとへば、われわれが数を数へる場合、意識の思考的な眼は数そのものに向かってゐるが、それと同時に、われわれは一貫して、漠然と数を数へる運動に意識の眼を向け変へる自分自身の運動を感じてゐる。〔…〕このことについて、サルトルは、数を見つめる意識を「措定的な意識」と叫び、運動を感じる意識を「非措定的な意識」と名づけるのであるが、後者はいひかへれば、意識がみづからめざめてゐることそれ自体の感触だ、といへるだらう。[*37]
 
 しかし山崎は、「サルトルの身体運動の理解には重大な撞着がある」のであって、それはサルトルによる「あまりにも一面的な意識活動の把握」に由来するのだ、という。そして山崎は、そうしたサルトルの一面的な意識把握を、サルトルの「反省意識」への執着と言い換えている。
 
 要するに、問題は、反省する意識に対する彼[=サルトル]の過度の固執にあり、意識が自分自身をすら対象化して行く過程を、彼が人間精神の中心に据ゑたことにあったといへよう。けだし、意識が「無」として定義されたときから、サルトルの意識は宿命的に自己破壊的であるほかはなく、たえまなく意識的であるために、片時も意識でありつづけることのできない運命を負ってゐた、と見ることができる。譬えていへば、それは、自分の鋭敏さに「意識過剰」の青年に似てゐるのであり、自分がめざめてゐることを証明するために、一瞬ごとに、それまでの自分は眠ってゐたと叫びつづける人間に似てゐるのである。[*38]
 
 こうした山崎の批判は、サルトル哲学の本質をある意味で鋭くついているということもできるのだが、しかし、サルトルの立場は本当に「反省的意識に固執する立場」であるといえるのだろうか。たしかにサルトルは、意識の「対象意識」としての側面を「自己破壊的」なものとしてとらえ、それを「破裂」という強烈な言葉で記述している。しかし、だからといってサルトルは、何ものかについて意識している人間が常に自己を「破裂」としてとらえていると言っているわけではない。むしろ、何ものかについての意識は、その限りではあくまで「非反省的意識」であるということをサルトルは強調している。サルトルが破裂という言葉で記述した世界への融合と自我の不在という事態は、日常的な生においては反省的に意識されているわけではない。その意味で山崎の批判は、サルトルによる非反省的意識の記述と、反省的意識の記述を混同している。山崎は、「破裂」という、サルトルによる意識現象の「記述」を、意識過剰な青年(たとえば、レインが紹介するジェームズ)の「異常な体験」と同一視してしまっているわけである。しかし、「破裂」は、「内破」とは区別されなければならない。
 
 
 以上述べたように、山崎は、異常(な事態の記述)と反省(的体験)とを一面的に結びつけた上でサルトルを批判しているのだといえる。それに対して、ブランケンブルクらは、逆に日常的生と非反省的生を一面的に結びつける立場に立っているように思える。つまり、彼らの議論には、日常的生はすなわち非反省的生であり、一次的なものである、という前提が隠されているのである。だからこそ彼らは、サルトルのような日常的生の批判を、一次的、根源的なものへの抑圧としてとらえる。しかし、日常的生すなわち非反省的生であるといえるだろうか。サルトルに言わせれば、逆である。サルトルにとっては、日常的生は、本来的な自由の自覚である不安を抑圧し、そこから逃避する、二次的なものである。したがって、サルトルによる日常性の批判は、日常的「反省」にたいする批判なのである。サルトルは「反省の立場に固執していた」わけでも、非反省的なものを抑圧していたわけでもなく、むしろ積極的に反省を批判する立場に立っていたのだといえる。サルトルは、不安として規定される現象学的反省を、「純粋な反省 réflexion pure」と呼んで評価しているのではあるが、これは希にしか行われない非日常的なものであり、通常の反省、すなわち自由から逃避する日常的生の反省については、彼はそれを「不純な反省 réflexion impure」として激しく批判している。したがって、サルトルにとって、「日常的なもの」と「非日常的なもの」の対立は、(反省と前反省の対立としてではなく)「二つの反省的態度」の対立としてとらえられている。サルトルによる日常的生の批判は、あくまで日常的「反省」に対する批判だったのである。
 そして、サルトルの立場からは、逆にブランケンブルクらの立場、すなわち「身体(自己意識)の復権」や、あるいは「日常性をポジティヴなものとしてとらえなおすこと」を主張する立場に対する以下のような批判が生じることになる。たしかにこの立場は、一見「前反省的」なもの、あるいは「非反省的」なものへ回帰する立場であるように思える。だが、ブランケンブルクが「エポケーへの抵抗」や「自明性をとりもどす患者の戦い」といったことを問題にするとき、実は彼は前反省的な場面をすでに逸脱しているのではないだろうか。彼らは、日常性の喪失に対する患者の「抵抗」や「戦い」の存在から、間接的に日常的なものの根源性を導き出すのであるが、「抵抗」や「戦い」は、まさに、不安から逃避しようとする患者の「反省的防衛(39)」である。患者は日常的生を選択しようとしているのであって、しかもそれは、反省の次元での生の選択である。もちろん、日常的生に復帰しようとする患者の選択そのものは、批判されるべきものではない。患者自身の選択を重視するならば、治療という形で日常的生への復帰を援助することは必要なことであろう。しかし、日常的生を「根源的」な、「一次的」なものと規定してしまう議論は、特定の生への価値付けを暗々裡に含んだ自己欺瞞的なものであるといえる。実際、患者が常に日常的生への復帰を求めるというわけではないのであって、ブランケンブルク自身、ある場合には患者の「自然な自明性の喪失が、喪失ではなくて解放であるかのような印象を与える[*40]」例、また、患者が「別の自明性」を獲得する例を紹介している[*41]。このことは、自明なものが、必ずしも「根本的なもの」ではないことを示している。むしろ、われわれは、自明なものの相対性を意識しつつ、それがどのようにわれわれにとって「根本的なもの」として構成されるかということを問うていく必要があるのではないだろうか。


[ ]内は邦訳のページ数
*1  L'être et le néant,1939(E.N.),p.17.[I,p.24.]
*2  Situation I,1947,p.32.[p.27.]
*3  Ibid.,p.33.[p.28.]
*4  Ibid.,p.35.[p.29.]
*5  E.N.,p.19.[I,p.29.]
*6  E.N.,p.20.[I,p.29.]
*7  Catalano,J.S.:A Commentary on Jean-Paul Sartre's Being and Nothingness,1974,p.32.
*8  E.N.,p.20.[I,p.29.]
*9  E.N.,p.395.[II,p.247.]
*10  E.N.,p.394.[II,p.246.]
*11  E.N.,p.388.[II,p.235.]
*12  Esquisse d'une théorie des émotions,1939,p.41.[p.302.]
*13  E.N.,p.366.[II,p.192.]
*14  E.N.,p.19.[I,p.28.]
*15  La transcendence de l'ego,1936,p.71.[p.227.]
*16  BLANKENBURG,Wolfgang :Der Verlust der natuerlichen Selbstverstaendlichkeit, 1971(V.N.S.),p.43.[p.75.]
*17  V.N.S.,p.69.[p.118.]
*18  V.N.S.,p.102.[p.168.]
*19  LAING,R.D.:The Devided Self,1964,p.42.[p.88.]
*20  Ibid.,p.91.[p.120.]
*21  Ibid.,45.[p.57.]
*22  V.N.S.,p.64.[p.110.]
*23  Ibid.,p.65.[p.111.]
*24  Foucault,Michel:Histoire de la folie a l'âge classique,1972,p.595.[p.603.]
*25  V.N.S.,p.71.[p.119.]
*26  V.N.S.,p.72.[p.122.]
*27  Merleau-Ponty,Maurice:Phénoménologie de la perception,1945,p.ix.[法政大出版,p.14.]
*28  Ibid.,p.viii.[p.12.]
*29  La transcendence de l'ego,1936,p.83.[p.240.]
*30  E.N.,p.75.[I,p.135]
*31  Ibid.,p.66.[I,p.117.]
*32  La transcendence de l'ego,1936,p.84.[p.240.]
*33  アルフレッド・スターン『サルトル論―その哲学と実存的精神分析』亀井裕訳, p.260.
*34  Ibid.p.239.
*35  山崎正和『演技する精神』中公文庫,1988,p.194.
*36  Ibid.,p.202.
*37  Ibid.,pp.202f
*38  Ibid.,p.206.
*39  E.N.,p.78.[I,p.140.]
*40  V.N.S.,p.132.[p.223.]
*41  V.N.S.,p.126.[p.215.]