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断崖に立つサルトル

――自由と狂気についての素描――



永野 潤


 『狂気の歴史』の中で、フーコーは、一七世紀における狂気の「哲学的監禁」を象徴するものとして、デカルトの『省察』の一節を分析してみせた。「第一省察」においては、感覚的誤謬や夢と並んで狂気が扱われているが、フーコーは両者の扱われ方の間に根本的な不均衡をみとめ、そこにデカルトによる狂気の「排除」をみている。フーコーの書物に賛嘆の意を表しつつ、この『省察』の分析に異義をとなえたのが、周知のように、デリダの論文「コギトと『狂気の歴史』」である。その後両者のあいだで展開された論争のきっかけとなったこの論文において、デリダは、デカルトの「コギト」が、狂気を排除することによって得られるものではなく、逆に狂気そのものにおいて到達されるものだということをあざやかに示した。デリダは、デカルトの「コギト」が、誇張的懐疑というその「先端 pointe 」、あるいは思考の「瞬間 instant 」[*1]において根本的に狂的なものであり、悪魔的な「途方も無いもの」であるという。
 主体の自同性を破壊する狂気を主題としたこの論争は、主体の哲学、人間主義の哲学の批判を共通の主題とする、構造主義以降のフランス哲学を象徴する論争であったといえよう。それに対して、構造主義の台頭以降、人間主義的哲学の代表として常に批判の矢面に立ってきたのが、サルトルである。サルトル哲学は、フーコーやデリダを通過した世代によって、もはや問題にする価値もないとみなされている感さえある。彼らにサルトル哲学と狂気との関係について問うたならば、当然のごとく、サルトル哲学は狂気の排除のうえに成り立った哲学であるという答えが返ってくるであろう。だが、サルトルにおける狂気の排除は、デカルトにおける狂気の排除以上に自明なことだとはたしていえるだろうか。我々は、現代哲学におけるサルトルの位置付けに異議を唱えるものである。以下で我々は、サルトル初期哲学を不安という概念を中心に再検討し、サルトル哲学に秘められた狂気の問題を明るみにだすことを目指すことにする。そして我々は、サルトル哲学における「自由」が、その「先端」あるいは「瞬間」において根本的に狂的なものであり、「恐るべきもの」であったということを示したい。
 『存在と無』の中には、不安に襲われた人物としての「私」が登場する。我々はまず、この「私」を描くことを通じて、サルトルが不安と自由についてどのように語っているのかを見てみることにしよう。


1 不安とは何か

 私はいま、断崖に沿った、てすりも何もない狭い小道の上にいる。(EN67)

 この「私」はまだ不安を感じてはいない。「私」がまず感じるのは「恐怖」である。「私は石ころの上で足を滑らせて深淵の中に落ち込むかもしれない。小道のもろい地面が足元で崩れるかもしれない。」このとき私がとらえている「足を滑らせる可能性」は、道端の石ころとまったく同じく「万有引力に従う世界の一物体」としての私に関する可能性である。それは、私そのものとは無関係に存在している外的可能性である。「それらは私の可能性 mes possibilites ではない。」恐怖を感じた私は、道端の石ころに注意し、小道の端からできるだけ離れていようとする。「私は世界の脅威から私を遠ざけるためにいくつかの未来の行為を私の前にくりひろげる。」このとき生じる「注意して歩く私」という可能性は、私が作り出した可能性であり、私そのものと内的な関係によって結びついた「私の可能性」である。こうして一応恐怖は納まる。しかし、まさにこのとき、めくるめく「めまい vertige 」が私を襲う。たしかにこのとき、私は石ころのような事物と同様の「人間的働きの介入する余地がない超越的蓋然性 probabilites transcendantes 」から多少遠ざかったかもしれない。だからといって私の行為が「確実」であるわけではない。私は注意して歩くことができる。だが私は危険を回避する目的と矛盾した行為、すなわち「道の石ころに注意しないこと、走ること、ほかのことを考えること」をすることもできる。さらにいえば、私はまったく反対の行為を行なうこともできる。つまり、私は「断崖に身を投げようとすること」すらできる。むしろ、注意して歩く私の行為の可能性は、そうした矛盾した行為、反対の行為を「必要条件」としている。

 私が私の具体的可能たらしめているこの可能は、状況が許している論理的諸可能の総体を地 fond として浮き上がることによってのみ、私の可能として現われることができる。(EN68)

 事物の持つ蓋然性が去った代わりに、「自由」がもつ偶然性 contingence が私を襲ったのである。そして私はこの自分の自由に恐怖を覚える。それが不安である。恐怖が「世界の諸存在についての恐怖」であるのに対して、不安は「自己についての反省的把握 apprehension reflexive du soi である。」(EN66)「めまいは、私が断崖に落ちるかもしれないと恐れるからではなく、私がそこに身を投げるかもしれないと恐れるかぎりにおいて不安なのである。」(ibid.)
 サルトルは、『自我の超越』の中でも、不安に襲われた一人の人物を描いている。それはもともとはジャネのあげた症例の中に登場する女性で、彼女は「夫が自分を一人にしておくときは、窓に近づいて通行人に娼婦のように声をかけるのではないかという恐怖」(TE81)をもっていた。彼女は「可能性のめまい vertige de la possibilite 」にとらわれたのだとサルトルはいう。彼女は娼婦のように声をかけることもできる自分、「恐ろしいほど自由な自分」を発見したのであり、「恐るべき自発性 spontaneite monstrueuse 」が彼女に現れたのである。[*2]


2 日常的生

 しかし、私は常に不安を感じているわけではない。私が不安を感じたのは、断崖を前にした非日常的状況においてである。我々の日常的生は、不安と対立的な生である。
 まず、「我々の生の最もありふれた courante 状況」においては、私の行為は「非反省的 irreflechie 」なものである。日常生活の中では、私はいちいち自分の自由を反省する前に、すでに行為してしまっている。歩く事について反省する前に私はすでに歩いてしまっている。私は、たばこを吸いたいという私の欲望を、実際にたばこに火を付けることによってはじめて知る。非反省的行為において、私はたばこという外的対象「について」意識しているのであって、自己「について」意識してはいない。自由は存在しているが、それは対象として認識されてはいない。
 そしてサルトルは、非反省的行為において我々は行為に「拘束されている etre engage 」という。私の行為は、たばこを吸う「ためには」火をつけ「ねばならない」、火をつける「ためには」……という具合に対象に追い立てられるようにして続いていく。世界は「要求構造」(EN74)をもったものとして私に現れてくる(後にみるように、これはサルトルによって意識の時間性構造としてとらえられている)。だからといって、そうした行為が自由に基づいていないということではない。私はいつでも歩くのをやめることができるし、たばこの火を消してしまうことができる。ただ、私の自由は、行為そのものによって見えなくなってしまっている。
 日常的生はまた、不安を隠蔽する生でもある。日常的生の中では、我々は反省によって自らの自由をとらえながら、それを自らに覆い隠している。日常的な反省は、不安を自らに覆い隠すための反省なのである。サルトルはこうした反省を「共犯的反省 reflexion complice 」あるいは「不純な反省 reflexion impure」と呼ぶ。サルトルは「自己欺瞞 mauvaise fois 」という概念によって、こうした「不安に対する反省的防衛 defense reflexive contre l'angoisse 」についての考察を展開している。私は自分について意識し、反省する。だが私は自分を、自由な存在としてではなく、道端の石ころと同じ様な、外的な何物かに「決定される」一事物とみなそうとする。これは「逃避的態度」「弁解的態度」(EN78)である。
 こうして、日常的生の中で、私は不安に苛まれることなく、世界の命じるまま安心して生きていく。私は「諸価値をもったひとつの世界の中に拘束されている」(EN76)。そうした生を生きる意識を、サルトルは「くそまじめな精神 esprit de serieux 」と呼ぶ。くそまじめな精神は、「価値を世界から出発してとらえ」「対象から出発して私自身をとらえる」(EN77)。私は会社に行くために朝目覚ましを鳴らす。私は目覚ましを無視して眠りつづけるという可能性につねに開かれている。しかし私は、実際に起き上がるという行為そのものによってその可能性を消してしまう(EN75)。世界は、「芝生に立ち入るべからず」という立て札をはじめとした、様々な禁止(タブー)に満ちている(EN76)。我々は「日常的道徳 moralite quotidienne 」に従う中で、自己を見失い、対象的世界に支配された生を送る。
 日常的な生が世界に自らを拘束した生き方であるとすれば、非日常的反省としての不安は、そうした生き方から我々を解放するものである。不安は「私が、自己を拘束していた世界から自己を解放する se degager ときに現れる」(EN77)。私は、「価値」の起源が、私の自由であるということに気付く。わきめもふらず前へむかって進んでいた私は、ある時立ち止まり、自分の行為が可能性に開かれたものであることに気付く。朝目覚まし時計の音で起きるかどうかを決めるのは自分であるということに気付かせる不安、日常的道徳を破壊する不安を、サルトルは「倫理的不安 angoisse ethique 」と呼んでいる。世界の構造の中に埋没し、行為そのものに追い立てられるように行為していた私は、不安の中で、その行為が自分が自由に選んだものであるということに気付く。私は「言い訳 excuse 」なしに、責任をもって行為せざるをえない。私は決意をもって孤独に再 び歩き始める。その意味でサルトルは、不安を、行為を浄化するものとしてとらえる。サルトルはこうした不安に見られるような反省を、「浄化的反省 reflexion purifiante 」あるいは、「純粋な反省 reflexion pure 」と呼ぶ。


3 不安の両義性

 ここで、再び冒頭で引用した断崖の前の「私」に登場してもらうことにしよう。問題は不安に陥った「私」のその後の行動である。「私」は「注意して歩く」ように私を決定するものがなにもないということに不安を感じていたわけだが、逆に言えばそれは「断崖に身を投げる」ように私を決定するものも何もないということである。不安は「非決定」に変わることによって終息する。「非決定が今度は決定を呼ぶ。私は突然断崖の端から遠退き、再び歩きはじめる」(EN69)。ここで、この「私」が再び歩きはじめているということに注目しよう。「私」は、不安という非日常的状況から、再び日常的行為に戻ったのであり、再び「自己を拘束」したのである。不安はこのようにたいてい「反-不安」(ibid.)と対になっているのであり、それは非日常的なもの(外部)への入り口であると同時に、そこから日常的なもの(内部)への脱出口でもある。
 そして、不安が「浄化的」な反省でありうるのは、それが日常性への回帰の契機を含んでいるかぎりにおいてである。たしかに不安において、我々はふだんはそこに埋没して生きている日常的生活世界の、或る意味で「外に」出ることになる。我々は「自然的態度」で生きることを一時停止し、自然的態度の外に出る(サルトルは、不安と現象学的還元とを同一視する)。ハイデガーも、不安を、我々が「全体としての存在事物を越える」こととしてとらえ、それを「超越」と呼ぶ[*3]。しかし、我々が日常性の外に出るのは、日常性の根拠をとらえなおす「ため」にこそなのであって、その意味で不安は「方法」としてとらえられることができる。不安は、全体としての存在事物を「拒否しつつ指示する」[*4]ことであり、それは「不安の無の明るい夜」[*4]である。不安とは、完全に世界の外に出てしまうことではなく、いわば世界の限界に立つ体験であるということができる。その時はじめて、それは「方法」であることができる。メルロ=ポンティが現象学的還元について言うように「反省は様々な超越が湧出するのを見るためにこそ一歩後退するのであり、我々を世界に結びつけている志向的な糸を現れさせるためにこそそれをゆるめる」[*5]のである。不安な人間は、世界の果ての断崖に立って後をふりむき、世界を再びとらえなおす。エポケーによって、我々がそこに身を投げていたさまざまな価値は効力を失う。だがその際我々がその中で自らを失って生きていた世界は完全に破壊されるわけではなく、保存されているのである。だからこそ、我々は再びその世界に戻って生きることができる。
 サルトルは、「価値は自由につきまとう hante 」(EN137)「対自の自由はつねに拘束されている」(EN558)という。つまり、サルトルは、一方では非反省的生の価値への拘束を怠落的生への契機として批判しながら、他方では、それを意識の本質的時間性構造として強調するのである。そして、反省(純粋な反省)が倫理的な方法とみなされ得るのは、それが意識に、自己の存在論的構造としての「価値」を明らかにするからである。「反省的意識は、本来、道徳的意識といわれ得る。というのも、それは、同時に価値を開示することなしには現れえないからである。」(EN138)その意味で、不安は、我々を恐るべき「自由」に直面させるものではあるが、同時にそれは、我々に「価値」を示す。なぜなら、我々はいやおうなく「価値」につきまとわれ、「価値」に拘束されているからである。
 だが、我々が日常性に戻る事なく、不安の中で恐るべき自由を果てしなく追求していったらどうなるのであろうか。キルケゴールが言うように不安は両義的なものである。「不安は共感的な反感であって、反感的な共感である」[*6]。不安は恐るべき自由に対する恐怖であると同時に、自己を解放する自由に魅惑されることでもある。子供にとって不安は「冒険的なもの、途方も無いもの、謎めいたものへの憧れ」[*6]である。実際、断崖を前にして私がとらわれた「めまい」の中には、そこに自ら身を投げることへの「魅惑」があり、窓際でひとりの女性が感じていた「めまい」の中には、娼婦のように男に声をかけることへの「魅惑」があったはずである。倫理的な「方法」としての不安ではなく、キルケゴールのいう「甘い不安」[*6]を追求していく果てには、何があるのだろうか。


4 自由と狂気

 ところで、あの断崖の前にいた「私」が、断崖の端から遠退いて歩きだしはしなかったとしたらどうだろうか。私は、歩くのでも不安にかられて立ち止まるのでもなく、本当に断崖から身を投げてしまったのである。このとき私が何らかの目的のために(たとえば生活苦から「楽になるために」)自殺を企てたのだったら、私の自殺は、結果はずいぶん違うにせよ、注意して歩くことと本質的には変わらない一つの行為である。しかし、もし私が「何の理由もなく」断崖から身を投げたとしたらどだろうか。理由なく身を投げるという私のこの行為は、「不条理な」行為とみなされるだろう。そして、私は「狂気」におちいったとみなされるかもしれない。では、不条理な行為と自由とはどのような関係をもっているのだろうか。その前に、我々の「行為」と「自由」との関係について再び考察してみることにしよう。
 「歩く」という私の行為を「現に私が歩いている」こととして時間性の中で考えるかぎり、私の行為はある意味で自由なものではない、ともいえる。というのも、我々は「歩く」ことを「すでに」選択し、「身を投げる」という行為を否定してしまっているのだから。つまり、「現に歩いている」私は自分の選択に「拘束されて」いるわけである。しかし、それでもなお私の行為が「自由」であるといわれ得るのは、「歩く」という行為が「身を投げる」という可能性としての行為につねに開かれているからである。つまり、我々がもつ「身を投げる自由」は、我々の歩くという行為が「自由」なものであるための「条件」なのである。この「現に歩いていることの自由」を支える、「身を投げる自由」、いわば「自由の条件 condition of freedom 」[*7]としての自由を、我々は「超越論的自由」と呼ぶことにする[*8]。そして、サルトルが、不安の中で出会う「恐るべき自由」といっていたのは、この超越論的自由のことだったのである。サルトルは、我々の行為ががつねに時間性構造の中にあり、「価値につきまとわれて」いることを強調していたが、同時に彼は、我々の行為が、根底において不条理性、偶然性にさらされているというのである。

 選択は、それが行なわれるかぎり、他の選択を可能なものとして指し示す。(……)他の選択の可能性は、私の選択、したがって私の存在の不条理性として表現されるものである。かくして、私の自由は私の自由を蝕む ronge 。(EN560)

 「自由を蝕む自由」としての超越論的自由、我々を脅かす「現にあるのとは別のものとして自らを選択する危険(EN543)」は、サルトル哲学においては「瞬間 instant 」という概念によって表現されている。サルトルは、「我々はたえず瞬間に脅かされている menace」(EN544)という。つまり、私には、断崖から身を投げてしまう「魔がさす」瞬間が訪れるかもしれないのである。「私の選択は瞬間という幽霊につきまとわれている。」(EN545)。瞬間とは「時間化の無化的な裂け目」(EN546)である。「自由」とは、時間性にしばられた日常的行為を食い破る異常な「瞬間」なのである。そして、身を投げる私の不条理な行為は時間性の超越構造を断ち切るのであり、それは「投企 projet」ではない。その意味で、身を投げる私は、(たとえ暗やみのなかであったとしても)決して断崖から「跳躍」するのではなく、暗い深淵に垂直に落下していくのである。サルトル哲学においては、「投企」や「選択 choix」という概念のみが注目されるきらいがあるが、「選択」は、選択そのものを破壊しかねない「瞬間」によって支えられてはじめて自由でありうる。我々はここで、サルトル哲学の中で「瞬間」という概念がもつ重要性を強調しておきたい。サルトル哲学は、その極限、その先端において、「瞬間」という狂気にさらされていたわけである。
 こうして、自由の魅力に惹かれた甘い不安の果てに我々を待ち受けていたのは、狂気の瞬間であったことになる。このとき、我々は完全に世界の外に出てしまうのであり、世界の果ての断崖から身を投げてしまうのである。そしてそれは、いかなる意味でも「方法」とはなりえないような体験、いかなる意味でも「浄化」とはなりえないような純粋な「破壊」の体験であろう。だが、そうだとすると、サルトルの倫理は浄化としての倫理としては成立し得なくなるはずである。行為を浄化するはずのものである不安の果てには、行為を破壊する狂気があったのだから。サルトル自身、対自の全面的偶然性は「あらゆる道徳性に戻っていき、道徳を凍結させ相対化するであろう」(EN138)といっている。しかし、サルトルの倫理は、本当に浄化としての倫理につきるものだったのだろうか。


5 自由と倫理

 サルトルは、不安を「倫理的不安」としてみていたわけだが、それは、不安が、意識に自己の存在論的構造としての「価値」を示すからであった。「反省的意識は、本来、道徳的意識といわれ得る。というのも、それは、同時に価値を開示することなしには現れえないからである。」(ibid.)不安のもつ倫理性は、不安がいわば我々を立ち止まらせ、価値を「見させる」ところに存するといえる。しかし、サルトル哲学の中には、そうした「不安に基づく倫理」とは異なる、別の倫理の契機が描かれている。しかもそれは、「瞬間」に基づいた倫理なのである。これまで見てきたように、サルトルの描く「瞬間」とは、我々を脅かし、倫理を凍結するものであったはずである。だが、サルトルは一方で瞬間を「解放的瞬間 instant liberateur 」(EN555)とも呼ぶのである。またサルトルは、解放的瞬間において「私に自己の根源的企てを全面的に変容させる〈回心 conversion 〉が生じる(ibid.)という。そして、この「回心」という概念に、サルトルは重要な倫理的意味をもたせている。「解放や救済の道徳の可能性(……)は根本的な回心の果てに到達されるはずである」(EN484)。「道徳性:永続的回心。トロツキーの意味における:永続革命」(C12)
 ところで、『存在と無』の末尾の一節は、「道徳的展望」と題されている。その中でサルトルは「存在論はそれ自身では道徳的律法を立てることはできないだろう」(EN720)と言い、存在論と倫理学とを峻別している。存在論とは、いわば我々が生きている世界の根拠をとらえなおす反省的営みであり、その意味で、現象学的還元としての不安とは、日常的世界の根拠を顕わにする「存在論的方法」としての不安であったことになるが、サルトルは存在論がそれ自体では倫理とはなりえないというわけである。もっともサルトルは、存在論は倫理そのものではないとしても、我々に倫理を「かいま見せる」のだと言う。というのも、存在論は「価値の起源と本性を我々に顕示する」(ibid.)からである。しかしサルトルは、倫理そのものは直説法としての存在論をこえた「命令法 imperatif 」だという。この存在論をこえた倫理についてサルトルは明言しておらず、それについては『存在と無』の後に出版される道徳に関する著作において論じる、とだけいわれている。しかも、サルトルは道徳に関する体系的な著作をその後ついに公刊することはなかった。だが、この存在論(方法としての不安)にもとずく倫理をこえる倫理は、回心を原理とした倫理として実はすでに暗示されているのである。サルトルの倫理は、「反省(純粋な反省)」という観点からのみ考察されることが多いが、以上見てきたように、サルトル哲学には、世界の断崖に立って価値を「見なおす」倫理、浄化としての倫理をこえる契機が存在しているのである。それは、断崖から外部に身を投げる超越論的自由に基づいた、「回心」という契機である。

 文中使用したサルトルの著作の略号は以下の通り

TE--La transcendence de l'ego--esquisse d'une description phenomenologique (Vrin, 1985)
EN--L'etre et le neant (Gallimard, 1943)
C--Cahiers pour une morale (Gallimard, 1983)



 注


*1 Derrida, Jacques, L'ecriture et la difference (Seuil, 1967), p.89
*2  こうしたサルトルによる不安の説明には、彼自身みとめるようにキルケゴールの影響が多分に見られる。たとえば『不安の概念』の中で、キルケゴールは、不安が、深淵をのぞきこんだものが感じる「自由のめまい Schwindel der Freiheit 」(Kierkegaard, Soren, Der Begriff Angst (Diederrich, 1965) p.60 )であるといっている。
*3 Heidegger, Martin, Was ist Metaphysik? (Klostermann, 1934) p.32
*4 ibid. p.31
*5 Merleau-Ponty, Maurice, Phenomenologie de la perception (Gallimard, 1944) p.viii
*6 Kierkegaard, op.cite, p.40
*7 Whitford, Margaret, Merleau-Ponty's critique of Sartre's philosophy (Frenchforum, 1982) p.56 なお、拙稿「自我と自由――サルトル『自我の超越』」、「哲学誌」35号(東京都立大学哲学会、1993)を参照されたい。
*8  cf.永井均『〈魂〉に対する態度』(勁草書房)144ページ)