TOP

引き裂かれた自己

―意味と魔術について―

永野 潤

0

 サルトル哲学において、「自由」とは人間の存在そのものである。『存在と無』においてサルトルはこう言っている。「人間はまず存在し、次いで自由であるのではない。人間の存在と、人間が自由であることとのあいだには差異がない(EN61)」。しかし、「自由」は、最初から「不安」と結びつけて語られている。「人間が自由についての意識を持つのは不安においてである(EN66)」。つまり、「自由」は我々に不安をおぼえさせるようなものなのである。自由は、意識の裂け目( coupure )、分離( separation )、剥離( decollement )であり、危険な、恐ろしいものである。我々が問題にしたいのは、サルトル哲学におけるそうした「恐るべきもの」としての自由である。

1

 私は手をのばしてブドウの一房をとろうとする。ところが、手のとどかないところにあるので、とることができ ない。私は肩をそびやかし、手をおろして「あれは青すぎるな」とつぶやいて立ち去る。(EE44-5)

 『情動論素描』において、サルトルはこの有名な代償行為の例をあげているのだが、ここには二つの行為があるわけである。一つ目は、「手をのばしてブドウの房をとる」という行為である。ただし、これは実際にはなされなかった行為、というより、その困難さによって「なされ得なかった行為」である。もう一つは、「肩をそびやかし、手をおろして、『あれは青すぎるな』とつぶやいて立ち去る」という行為である。こちらが実際になされた行為である。しかし、私は、実際になされたこの後者の行為をはじめから行おうと思っていたわけではない。いうまでもなく、私ははじめは「ブドウをとろうと」していたのである。上の引用箇所につづいて、サルトルはこう言っている。

 〔肩をそびやかし、手をおろして、「あれは青すぎる」とつぶやく〕これらの仕草や言葉のすべて、つまりこの行為は、そのものとしてはとらえられていない。それはブドウの房のもとに演じられるちょっとしたコメディーであり、このコメディーによってブドウに「青すぎる」という性格が与えられるのであり、このコメディーは私のとり得ない行為の代理( remplacement )として役立つことができるのである。(EE45)

 私が実際に行った後者の行為は、したがって、なされ得なかった前者の行為の代用品でしかないのである。私はやろうとしていなかったことをやっているわけだが、では、そうした代用品の行為を、私ははたして「まじめに」やっているのだろうか。われわれがさしあたり問題にしたいのは、そのことである。しかし、その前に、私がブドウの下で一人で演じているいささか滑稽なこの「コメディー」が、いったいどういう意味をもっているのかということを見ておこう。
 さて、私はなぜそのようなコメディーを演じたりしたのだろうか。サルトルは「このコメディーによってブドウに『青すぎる』という性格が与えられる」と言っていたが、ブドウの下で肩をそびやかしてみせることが、なぜ外的な対象であるブドウになんらかの性質を与えることができるのだろうか。その不可思議さを、サルトルは「魔術」という言葉で表現している。

 この〔青すぎるという〕性質を私は化学的にブドウにあたえることはできず、通常の手段でブドウの房にはたらきかけることはできない。そこで私は、嫌悪の行為をつうじてこの青すぎるブドウのすっぱさをとらえる。私は、自分の望む性質を魔術的に( magiquement )ブドウに与えるのだ。(EE45)

 サルトルによると、ブドウの下でのあのコミカルな仕草は、「摘まれるべきもの」として現れていたブドウに「青すぎる」という新しい性質を「魔術的に」与えるためのものだったと言うのである。私は、対象そのものを変化させることができないので、いわば私の身体を用いた「おまじない」を行い、対象の意味を変化させたわけである。ここで問題となっているのは意識と対象の志向的関係である。私は、対象との関係を変化させることによって、対象の意味を変化させたのであり、私の行為の変化とは、「世界のアスペクト( aspect du monde ) の変形(EE32)」でもある。そのことを、サルトルは「隠し絵」の例を使って説明している。隠し絵のなかに隠されている鉄砲の形をさがすとき、われわれは絵に対して「知覚的に或る新しい態度をとる」のであり、私の目の運動がヒュレーの役割をしている一つの志向が「その運動をつうじて木や電柱のうえに向けられ、それらのものが可能的な鉄砲としてとらえられるようになり、ついには突如として知覚が結晶して鉄砲があらわれる(EE44)」のである。身体、あるいは身体の運動は、われわれの志向を実現するための道具である。隠し絵の場合は眼の運動が、そしてさきほどの代償行為の場合には、肩をそびやかしたり、手をおろしたりする私の仕草、私のつぶやき、それらの身体の運動を道具として用いて、私はあたらしい志向を実現したわけである。つまり、鉄砲を探すとき、私はあらかじめ鉄砲を演じるのであり、鉄砲の発見とは、演じられた代理物としての鉄砲が「ほんものの」鉄砲によって充実されることでもある。

2

 以上のように、サルトルは、例の「コメディー」が、(肩をそびやかす等の)一連の仕草を通じてブドウに「青すぎる」という性格を「魔術的に」与えるためのものだ、と考えるのである。さまざまな仕草は、全体として「ブドウの青さ」を表現し、そうして表現されることによって「ブドウの青さ」が生まれるからである。言いかえれば、私はここで一連の仕草を通して「ブドウの青さ」を演じていたのだとも言える。つまり、私の仕草は、そのものとしてとらえられてはいないのであって、別のもの(ブドウの青さ)を表現し、代理しているのである。それは、紙の上に書かれた/ブドウ/という文字が、熟していたり青かったりする果物としてのブドウを表現し代理しているのと同様である。その意味では、一般に行為は「代理」の構造をもっているのである。最初の行為における「ブドウをとろうと手をのばす」仕草にしても、それは「ブドウのおいしさ」を表現していたとも言える。ある仕草(肩をそびやかす等)は、それ自体で行為であるのではない。「仕草」は、何らかの「意味」(ブドウの青さ)を表現し、代理している限りで、その意味とともに全体として一つの「行為」(ブドウを拒否する行為)となる。
 しかし、代償行為の場合、話はさらに複雑である。というのも、この場合、「肩をそびやかす」という仕草が「ブドウの青さ」という意味を表現し、代理している(デノテーション)だけではなく、その全体としての「ブドウの拒否」という行為が、今度は「ブドウをとろうとする」という最初の行為を表現し、代理している(コノテーション)からである[*1]。「ブドウの獲得」という不可能な行為の代わりに、私は同じく私の欲求を解決してくれる「ブドウの拒否」を行った。したがって、こうした代償行為は、内部に分裂、すなわち「ほんもの」と「にせもの」の分裂をはらんでいる、ということができる。それは、舞台上での役者の「行為」と似ている。舞台上での俳優の仕草や言葉はそのものとして俳優の「行為」としてとらえられない。つまり、舞台上での俳優の怒りは「ほんものの」怒りではないし、舞台上での俳優の約束は「ほんものの」約束ではない。舞台上で俳優は「まじめに」怒っているのではなく、それは登場人物の怒りを表現し代理する「にせものの」怒りである。だとすると、肩をそびやかし、「あれは青すぎる」とつぶやく先ほどの行為も、「まじめに」行われた行為ではなく、「にせものの」行為である、ということなのだろうか。だが、サルトルはこのように言っている。

 ここではこのコメディーは、なかばしか本気なものではないが、状況がもっと切迫し、呪術的行為がまじめに( avec serieux )遂行されるようになれば、ここに情動がうまれるのである。(EE45)

 ブドウがとれずに立ち去った私は、自分の行為が何かの代わりに行われたことをうすうす意識していたかもしれない。しかし、われわれは、代償行為を、「代償行為としての意味」を意識せずに行うことも十分ありうるのではないか。そのことは、サルトルによって引かれたジャネ( Janet, Pierre )による次のような症例においてはっきりする。

3

 一人の女性患者がジャネのところへやってきて、彼に自分の混乱の秘密をうちあけ、自分の強迫観念をことこまかに彼に述 べようとする。ところが、それができない。彼女にとってはあまりにも難しすぎる社会的な行為だからだ。そのとき、彼女は嗚咽する。(EE27)

 この嗚咽という情動の身体的表出は、一つの意味、すなわち、できなかった告白の代理という意味を持っている。その意味でそれは一つの行為であり、「行為としての情動( emotion-conduite ) (EE28)」である。しかし、彼女は、自分の嗚咽の代償行為としての意味を意識し、医者としてのジャネに「何も言わないために」それを行うわけではないように思える。彼女は医者をだますための演技をし、嘘泣きをしているわけではない。その意味では彼女は「まじめ」である。この嗚咽をそれ自体では何の意味ももたない単なる身体の生理的混乱と考える抹消説は別としても、サルトルが「心的事実の意味を強調した最初の心理学( EE35 )」と評価する精神分析的心理学にせよ、この嗚咽という情動は、「当人にとっては」嗚咽という意味しかもっていないと考える。嗚咽という行為がもつ「ほんとうの」意味は、検閲によって抑圧され、当人には隠されている、というわけである。
 だがサルトルは、代償行為の(ほんとうの)意味を当人が意識していないとするこうした考え方、つまり、代償行為という意識事実と、それがもつ意味を切り離す考え方を批判する。

 〔精神分析学者によると〕われわれの意識的な行動の意味は、その行動自体にはまったく外的なものとなり、あるいはこういった方がよければ、意味されたもの ( le signifie )が意味するもの( le signifiant )から完全に絶たれてしまうことになる。(EE35)

 問題は、意識事実というシニフィアンとそれがもつシニフィエの関係であることになる。精神分析は、それを外的な関係として、外側から解読しようとする。そこでは、シニフィアンとシニフィエの関係は、「山の中で焚火した跡とその火を燃やした人々の関係(EE35)」のようなものである。焚火の跡は、それなりの知識をもった外的な観察者にとってのみ、焚火のしるし( signe )となる。そして、その跡自体は「あらゆる意味的な解釈のそとに、それ自体で存在する。すなわち、それはなかば灰に化した木片である。ただそれだけだ(EE35)」。
 ようするに、精神分析学は「意識を意味されたものに対して物として構成している(EE36)」ということになるが、サルトルは、意識が焚火の跡のような「物」ではない、ということを強調するのである。意識は自分を意味として構成するのであり、意識は意味を内的な構造として含んでいる。

 焚火の跡やキャンプに問いかけるように外から意識に問いかけるのではなく、内から問いかけねばならない。意味は意識のうちに求めなければならない。コギトが可能であるはずならば、意識はそれ自身、事実でもあり、意味でもあり、また意味されたものでもあるのだ。(EE36)

 このようにサルトルは、意識のもとで、意味するもの(シニフィアン)と意味されたもの(シニフィエ)は分かちがたく一致していると主張するのである。その意味で、代償行為のシニフィエも意識にとって内的なものなのであり、それはたとえ明晰に意識されてはいないとしても、行為者によって意識されているのである。したがって、サルトルは精神分析学に反対し、「われわれは自分のほんとうの欲望をたとえ暗々裏にでも何らか意識している(EE35)」と言う。そしてそのことをサルトルは「自己欺瞞( mauvaise foi )」と呼ぶ(EE35)。ということは、やはりあの代償行為は、そのかぎりで「ふまじめな」ものであったということになるのだろうか。

4

 しかし、あの女性患者の嗚咽がある意味で「ふまじめな」ものだと言い得るとしても、それは、彼女が「自分のほんとうの欲望」、すなわち、告白したくないという欲望を隠している限りにおいてである。つまり、「うそ」は、「ほんとう」と対比されてはじめて「うそ」となるのであり、「ふまじめ」は、「まじめ」と対比されてはじめて「ふまじめ」となる。その意味では、彼女は「嗚咽すること」に関してはふまじめだが、「告白したくない」ことに関してはまじめなのである。したがって、サルトルは、代償行為というある意味で「ふまじめな」行為の分析を通じて、結果的に意識そのもののまじめさ、すなわち意識のもとでのシニフィアンとシニフィエの一致を論じているように見える。
 だが、意識のもとでのシニフィアンとシニフィエの一致は、いったいどのように保証されているのか。そうした一致そのものに対して疑問を呈することもできる。パトナムによる「指示の魔術説」批判は、その点をついていたとも言える。たとえば、アリが砂の上を這いながら線をひいていき、たまたまそれがウインストン・チャーチルの似顔絵のような形をつくったとする。この砂の上の図形が、チャーチルを「表現( represent )」しているわけではないことは明らかである。さきほどのサルトルの例で焚火の跡がそれ自体では単なる「なかば灰に化した木片」でしかなかったのと同様、この砂の上の図形も、「それ自体では」何ものも表現してはいない[*2]。だが、アリがもし知性をもち、意図的に( intentionally )似顔絵を描いたとすれば、この砂の上の図形はチャーチルを表現していると言えるのではないか。表現は、意図( intention )によって表現となる。思考(心)は、志向性( intenntionality )をもつがゆえに物理的対象と区別され、物理的対象とはちがってそれ自体で対象を指示することができる。しかし、こうした考え方を、パトナムは「指示の魔術説( magical theories of reference )」と呼んで痛烈に批判する。パトナムは、アリの絵とチャーチルの間に必然的な結びつきがまったくないのと同様に、心的表現と、それが表現するものの間にも必然的な結びつきは実は何ら存在しないのだ、という。そうした結びつきがまるであるかのように思っている我々は、心的なものがいかがわしい魔術的な力をもっているかのように信じてしまっているわけである。パトナムによると、それは、あるものとその名前との間に特別な結びつきがあると信じ、ものの名前を知ればそのものを自由にできる、と考える「未開人」と同じなのである。
 パトナムはさまざまな例をあげて「指示の魔術説」を批判しているが、そのポイントは、何かを思考するために、思考の対象の内的表出をもつことは必要条件でも十分条件でもない、ということである。したがって、思考している人間とまったく同じ内的表出(対象についての心的イメージ等)をもっているからといって、その人間が思考しているとはかぎらないし、逆にまったく思考対象についての内的表出をもたずに思考することも可能だ、とパトナムは言う。そして、パトナムが典型的な「指示の魔術説」としてやり玉にあげるのが、現象学である。この批判は、まさに先ほどみたサルトルの主張に向けられていると考えることもできる。サルトルは、パトナムが批判する「現象学者」のように、意識、あるいは思考という絶対的な点における、シニフィアンとシニフィエの幸福な(しかしパトナムに言わせれば不可思議な)一致を信じていたのだろうか。

5

 一人の若い妻が、夫が彼女を一人にしておく時には、窓に近付いて通行人に娼婦のように声をかけてしまうのではないかという恐怖をもっていた。彼女の教育、過去、性格の中には、そのような恐れを説明するのに役立つものは何もなかった。(TE80)

 『自我の超越』に見られるこのエピソードも、『情動論素描』における嗚咽する患者の例と同様、ジャネによる症例から引かれたものである。ジャネは他にも、神を冒涜する言葉をはいてしまう、あるいは犯罪を犯してしまうという強迫観念をもった患者の例を数多くあげ、そうした症状を神経衰弱症( psychastenie )と呼んでいる。
 この症例も、先ほどの嗚咽の例と同様、何らかの代償行為を示していると解釈することができるだろう。すなわち、患者の何らかの欲望が、抑圧されたことによって、かわりにこのような強迫観念という仕方で現れているのだ、と。しかし、この症例に対しては、サルトルは、先にあげた嗚咽の例の場合とは違って、そうした解釈とはまったく違う解釈を行っている。サルトルは、この症状の場合、原因となっているのは彼女自身の恐るべき自由なのだという。彼女は突然「可能性のめまい( vertige de la possibilite )」にとらわれ、娼婦のように声をかけることもできる自分、「恐ろしいほど自由な自分」を発見したのであり、「恐るべき自発性( spontaneite monstrueuse )」が彼女に現れたのだ、と(EE80-1)。自己の自由を意識した彼女がおそわれた情動、すなわち「不安」は、嗚咽の例における情動とは異なっている。サルトルは不安を特別なものとして示す。

 意識は、意識の自発性の宿命とでも呼びうるものに気づいて、突然不安になる。この絶対的な、癒しがたい不安、この自己恐怖こそわれわれには純粋意識を構成しているもののように思われる。(EE83)

 だとすると、純粋意識は、シニフィアンとシニフィエの幸福な一致とはまったく違う、恐ろしい様相をわれわれに示しているように見える。そのことを考えるために、われわれは次に、『存在と無』の中で、断崖の上で不安におののく「私」を描くことを通じて、サルトルが不安と自由についてどのように語っているのかを見てみることにしよう。

6

 私はいま、断崖に沿った、てすりも何もない狭い小道の上にいる。(EN67)

 この「私」はまだ不安を感じてはいない。「私」がまず感じるのは「恐怖」である。「私は石ころの上で足を滑らせて深淵の中に落ち込むかもしれない。小道のもろい地面が足元で崩れるかもしれない。」このとき私がとらえている「足を滑らせる可能性」は、道端の石ころとまったく同じく「万有引力に従う世界の一物体」としての私に関する可能性である。それは、私そのものとは無関係に存在している外的可能性である。「それらは私の可能性 ( mes possibilite ) ではない」。恐怖を感じた私は、道端の石ころに注意し、小道の端からできるだけ離れていようとする。「私は世界の脅威から私を遠ざけるためにいくつかの未来の行為を私の前にくりひろげる」。このとき生じる「注意して歩く私」という可能性は、私が作り出した可能性であり、私そのものと内的な関係によって結びついた「私の可能性」である。こうして一応恐怖はおさまる。
 しかしこのとき、突然「めまい ( vertige ) 」が私を襲う。たしかにこのとき、私は石ころのような事物と同様の「人間的働きの介入する余地がない超越的蓋然性 ( probabilite transcendantes )」から多少遠ざかったかもしれない。だからといって私の行為が「確実」であるわけではない。私は注意して歩くことができる。だが私は危険を回避する目的と矛盾した行為、すなわち「道の石ころに注意しないこと、走ること、ほかのことを考えること」をすることもできる。さらにいえば、私はまったく反対の行為を行なうこともできる。つまり、私は「断崖に身を投げようとすること」すらできる。むしろ、注意して歩く私の行為の可能性は、そうした矛盾した行為、反対の行為を「必要条件」としている。

 私が私の具体的可能たらしめているこの可能は、状況が許している論理的諸可能の総体を地( fond )として浮き上がることによってのみ、私の可能として現われることができる。(EN68)

 事物の持つ蓋然性が去った代わりに、「自由」がもつ偶然性( contingence )が私を襲ったのである。そして私はこの自分の自由に恐怖を覚える。それが不安である。恐怖が「世界の諸存在についての恐怖」であるのに対して、不安は「自己についての反省的把握( apprehension reflexive du soi )である(EN66)」。「めまいは、私が断崖に落ちるかもしれないと恐れるからではなく、私がそこに身を投げるかもしれないと恐れるかぎりにおいて不安なのである(EN66)」。

7

 ここでわれわれは、この断崖に立つ私の例をもとに、「行為」と「自由」の問題について考えてみることにしたい。そうすると、「歩く」という私の行為を「現に私が歩いている」こととして時間性の中で考えるかぎり、私の行為はある意味で自由なものではない、ということに気づく。というのも、私は「歩く」ことを「すでに」選択し、「身を投げる」という行為を否定してしまっているのだから。つまり、「現に歩いている」私は自分の選択に「拘束されて」いるわけである。しかし、それでもなお私の行為が「自由」であるといわれ得るのは、「歩く」という行為が「身を投げる」という可能性としての行為につねに開かれているからである。つまり、私がもつ「身を投げる自由」は、私の歩くという行為が「自由」なものであるための「条件」なのである。この「現に歩いていることの自由」を支える、「身を投げる自由」は、いわば「自由の条件( condition of freedom )[*3]」である。そして、サルトルが、不安の中で出会う「恐るべき自由」といっていたのは、そうした自由のことだったのである。サルトルは、我々の行為が、根底において不条理性、偶然性にさらされていると言う。

 選択は、それが行なわれるかぎり、他の選択を可能なものとして指し示す。〔……〕他の選択の可能性は、私の選択、したがって私の存在の不条理性として表現されるものである。かくして、私の自由は私の自由を蝕む( ronge )。(EN560)

 「自由を蝕む自由」、我々を脅かす「現にあるのとは別のものとして自らを選択する自由(EN543)」を、サルトルは「瞬間( instant )」という言葉で表現している。サルトルは、「我々はたえず瞬間に脅かされている( menace )(EN544)」という。つまり、私には、断崖から身を投げてしまう「魔がさす」瞬間が訪れるかもしれないのである。「私の選択は瞬間という幽霊につきまとわれている(EN545)」。瞬間とは「時間化の無化的な裂け目(EN546)」である。「自由」とは、時間性にしばられた日常的行為を食い破る異常な「瞬間」なのである。サルトル哲学においては、「選択」は、選択そのものを破壊しかねない「瞬間」によって支えられてはじめて自由でありうる。サルトルの自由は、その極限において、「瞬間」という狂気にさらされているのではないだろうか。

8

 さて、サルトルは『ボードレール』において、そうした、恐るべきものであると同時に創造的な自由を追い求めた人物としてボードレールを描いている。われわれは次にそれを見ることを通じて、自由と自己欺瞞の関係、そしてわれわれが最初に提起した「まじめさ」という問題について考えることにしたい。
 サルトルは、ボードレールが「いつも自分は自由だと感じていた(B47)」のであり、断崖の上の私と同様、その自由にめまいを感じていたのだ、と言う。

 彼は自由であり、それは、彼の内にも外にも、彼の自由に対する支えを見いだし得ないという意味である。彼は自由をのぞきこみ、その深淵にめまいを感じている。(B48)

 自由はなんら支えを持たないということ、すなわち自己の無償性( gratuite )を意識していたボードレールは、行動よりも創造を選択することになる。「彼は行動( action )ではなく創造( creation )によって人間を定義する。〔……〕ボードレールほど行動から遠いものはない(B51-2)」。したがって、そこから彼の怠惰( paresse )が生まれる。

 ボードレールの怠惰の動機と意味は、彼が自分の企てを「まじめにとる( prendre au serieux )」ことができないということである。彼は、人は企ての中にあらかじめ入れておいたものしか決して見いだすことができないということを、よくわかっていたのだ。(B37)

 彼はまじめではなかった。しかし、それは彼が人間の無償性を意識していたがゆえに「まじめにはなり得なかった」、ということではないのか。それは今はおくが、いずれにせよサルトルは、ボードレールを、自由の深淵に近づきながら、肝心なところで恐れをいだいてきびすを返した人間として描いている。

 ボードレールは自由についての感覚と好みを持ちながら、意識の冥府( limbes )まで降りると、自由に対して恐れをいだく。彼は自由が必然的に絶対的孤独と全面的責任に通じることを知っていたのである。(B84)

9

 サルトルは、「意識の恐ろしい自由( liberte redoutable ) (B50)」から逃れるためにボードレールがとった巧妙な方法、つまり自己欺瞞の方法を描いているのだが、それは、一言で言えば、自分の身体を用いた魔術的な方法、すなわち、演技(コメディー)の方法である。
 意識の自由の、支えを持たない危うい性格からのがれるためには、「もの」の持つ不変の安定した性格を得る他はない。それには、自分の身体を用いるのがもっともよいだろう。しかし、身体がもつ、「もの」としての安定性を得ることは、他人によって規定され、自由を他人に完全に奪われてしまうという別の危険にさらされることでもある。演技とは、そうした自由と他有化という二つの危険から逃れるためのきわどい方法である。われわれは自己の身体を他人から見られた「もの」としての身体(対他身体)に徹底的に変えながら、しかもそこに自分で意識をふき込む。つまり、演技において、われわれは自己の身体をあやつり人形にし、しかもその人形を自分であやつることによって、きわどく自由を保つのである。こうしてボードレールは、身繕いし、変装し、鏡の前に立つ。

 彼は自分を鏡に映すとき、自分の感情や思想に対しても、同じ操作をする。つまり、感情や思想は依然として彼のものでありながら、むしろ、自分がつくりだしたものだから、より一層自分のものでありながら、自分とは別のものに見えるように、それを着飾らせ、化粧させる。〔……〕こうして彼は自分を支配することは確実であり、創造は自分から生まれる。同時に彼は創造された客体となる。これは、ボードレールが俳優の気質( temperament de comedien ) と名付けたものである。(B198)

 ようするに、演技とは、「もの」でありながら「意識」であろうとする巧妙な企てなのである。しかし、実はこうした企ては何も特殊なものだというわけではないのである。サルトルは、対他関係自体が、実はつねに演技、あるいは魔術によって成り立っていると主張する。『自我の超越』において、サルトルは、他人の身振りとは、「世界の中の対象でありながらも意識の自発性の記憶のようなものをとどめている魔術的な諸対象」だといっている。

 それゆえ、人間は人間に対して、いつでも一個の魔法使いなのだ。実際、一方が他方を自発的に創造するような二つの受動体のあいだのこうした詩的関係こそは、魔法の基礎そのものであり、「分有」のふかい意味である。それゆえ、われわれはまた、自分の「自我」を考えているときはいつでも、自分自身に対して魔法使いなのである。(TE64)

 同じことが、『情動論素描』でも述べられている。

 「魔術的」というカテゴリーは、社会における人間の相互=心的な関係を、もっと正確には、われわれの他者知覚を支配するものである。魔術的とは、アランの言うように、「ものの間をうろついている精神」であり、つまり、自発性と受動性との非合理な総合である。それは無活動になった活動、受動化された意識である。(EE58)

10

 ところで、パトナムは、志向性理論を「魔術説」と呼ぶ理由をつぎのように述べている。

 未開人は、何かの表現(とりわけ名前)にその担い手との必然的な結びつきがあると信じていることがある。ある人や或るものの「ほんとうの名前」を知るならば、それを思いのままにできる力が手に入る、と信じているのである。この力が生じるのは、名前と名前の担い手の魔術的な結びつきからである。いったん、名前にはその担い手と文脈的、偶然的、規約的な結びつきしかないと気づいてしまったら、なぜ名前を知ることに神秘的な意味があるのかは、納得しがたいことになる。[*4]

 しかし、これは、見方を逆にするべきなのではないだろうか。つまり、「未開」人が必然的な関係を持っていると考えていた名前と名前の担い手(すなわちシニフィアンとシニフィエ)の関係を、現代人は偶然的なものと見るようになった、ということではなく、魔術とは、本来偶然的なものでしかない結びつきを強引に必然的なものとして作り出すためにあった、ということではないだろうか。だとすると、サルトルの言う現代人の魔術も、まさにそのようなものである。それは、「もの」と「意識」を、受動性と自由を、シニフィアンとシニフィエを、強引に結びつけるための儀式なのである。
 そうした魔術に使われる道具が、「記号」なのであり、それは、身振りにおける身体、そしてとりわけ、「顔」である。「未開」人はしばしば、名前だけでなく仮面にも神秘的な力がやどると考えるが、実は、顔そのものが、「未開」人の仮面と同様に魔術の道具なのである。したがって、仮面が顔を真似ているのではなく、顔とは本来仮面であり、記号なのである。その意味で、サルトルがいう「人間の顔の専制( la tyrannie de la face humaine ) (B187)」とは、記号の専制であり、シニフィアンの専制なのである[*5]
 そうした記号の専制、意味の専制は、たとえば「芝生に立ち入るべからず」という禁止の立て札に端的に現れている(EN76)。それは「日常的道徳( moralite quotidienne )」とも呼ばれている。それらのうちに安住する精神を、サルトルは「くそまじめの精神( l'esprit de serieux )」と呼ぶ。くそまじめな日常的な生が、他者が魔術的に与える意味に自らを拘束した生き方であるとすれば、非日常的反省としての不安は、そうした生き方から我々を解放するものである。不安は「私が、自己を拘束していた世界から自己を解放する( se degager )ときに現れる(EN77)」。それはまた「解放的瞬間 ( instant liberateur ) (EN555)」でもある。そして、その解放的瞬間において、「私に自己の根源的企てを全面的に変容させる回心( conversion )が生じる(EN555)」のである。

11

 魔術とは、シニフィアンとシニフィエを一致させる儀式である。とすると、原初にあるはずのシニフィアンとシニフィエの一致とは、神話であったことになる。本来的なのは、意識の志向性におけるシニフィアンとシニフィエの幸福な結合ではない。むしろ、意識の自由におけるシニフィアンとシニフィエの恐るべき分裂なのである。
 しかし、考えてみれば、行為とその意味の分離が、まじめではない演技の本質なのであるから、われわれの意識は、本来的に、ふまじめな、演技的なあり方をしているということになる。しかし、われわれはそうした本来的な演技的なあり方から逃れるために自己欺瞞的な演技を行っていたわけであるから、われわれは演技から逃れるために演技する、という奇妙なことを行っていることになる。
 かつてデリダとサールとの間で闘わされた論争においては、ある意味でそのことが問題となっていたと言える。言語行為をめぐるこの論争においては、まさに「演技」と「演技ではないもの」、「まじめ」と「ふまじめ」の関係が問題となっていた。
 デリダが批判するオースティンは、「舞台の上で役者によって言われた」発言を、正常ではない言語使用の例としてあげ、それは、寄生的で、ふまじめで、例外的な言語使用だから、考察から除外するべきだと主張する。重要なことは、オースティン、そして彼を擁護するサールが、「演技」が、「演技ではないもの」に依存し、寄生していると主張する点である。つまり、演技は、非-演技なしにはあり得ない、というわけである。サールは次のように言っている。

 たとえば、現実の生( real life )において約束することが不可能であるならば、劇の中で役者が約束をするということなどあり得ない。一つの言語行為を装う行為の存在は、その装われない言語行為の可能性に論理的に依存するのであり、これは一つの行動を装ういかなる行動も装われていない行動の可能性に依存しているのと同様である。そしてまさにこの意味において、装われた形態は装われていない形態に寄生しているのである。[*6]

 サールは、演技という「異常な」行動は、日常生活における、表現と意図が一致した「まじめな」言語行為によって支えられており、そこから考察をはじめねばならない、と言うのである。演技に先立つものは、「現実の生」、「日常的な状況」と呼ばれているが、彼は、演技が演技であるためには、いわば演技の「地」としての日常的な生が存在しなければならないことを指摘しているのである。
 ハムレットを演じる役者が、芝居が終わったときに役者本人にもどるように、われわれは、日常的生を、いつでもそこに安心して立ち返ることができるような生の「地」としてとらえている。われわれは、一とき虚構の世界に入り込むことはあっても、いつでも本ものの世界に立ち返ることができる。したがって、すべてが演技であり、すべてが虚構であるということはない。

12

 ところで、デリダ-サール論争のきっかけとなったオースティン批判の講演においては、「寄生的なもの」として日常言語から排除されている「エクリチュール」の「一般性」を示すことによって、伝統的言語思想、ひいては西欧形而上学そのものの批判するデリダの戦略が示されている。そして、エクリチュールとは、まさに演劇的なものであり、想像的なものである。「記号は、対象が現在的知覚に不在であることによって記号が要求される時、想像力や記憶と同時に生まれる[*7]」。
 デリダはまず「エクリチュール」という概念についての通常の解釈を検討するが、そこでは、エクリチュールは「再現 ( representation )」として規定されていた。エクリチュールが、「現前」ではなく「再現」であるのは、それが伝達における受け手と書き手の「不在」と、表現における、対象の「不在」によって特徴づけられるからである。エクリチュールの持つこうした性格は、主体の意図と行為の一体性を侵害する危険なものである。だがデリダは、エクリチュールのもつこうした危険性は、偶有的なものではなく、むしろあらゆる言語に当てはまる「一般的な」ものだ、とするのである。

 私は、エクリチュールの古典的な、狭く定義された概念のうちに認めうる諸特徴は、一般化されうるということを証明したい。それらの特徴はあらゆる種類の「記号」やあらゆる言語一般にあてはまるのみならず、さらには記号的-言語的伝達を越えたところで、哲学が経験と呼ぶだろうところのものの分野にも、そればかりか哲学が存在の経験と、つまりいわゆる「現前性」と呼ぶだろうところのものの分野すべてにもあてはまるだろう。[*8]

 ところで、舞台の上では、役者は、そこにはいない(不在の)誰かの「代わり」をしている。当然、舞台の上で役者が発するせりふをそのまま真に受けてはいけない。それは、「現実的なコンテクスト ( contexte reel )」から離れて理解されなければならない。劇は何度でも繰り返し「上演する ( representer )」ことができる。だが、現実的なコンテクストの中で私が発した「まじめな」言葉は、一回限りのものであり、繰り返すことはできない。オースティンは(そして後に彼を擁護するサールも)そうした意味で、演技が、あくまで非-演技的なものに依存している、ということを強調していた。それに対して、デリダは、いわば逆の依存関係を強調して彼らを批判するわけである。舞台上での発言を特徴づける繰り返し可能性は、「一つの偶有性ないしは異常例ではない」。デリダは、オースティンが舞台上での発言を「異常なもの」として「通常(日常)言語」から排除することのなかに、伝統的哲学によるエクリチュールの排除の反響を認め、この排除の背後にある「目的論かつ倫理的な決定」を批判するのである。

 結局、オースティンが異常、例外、「非-まじめ」として除外しているもの、つまり(舞台上での、詩の中での、あるいは独り言の中での)引用は、或る一般的な引用可能性の――というよりはむしろ、或る一般的な反復可能性――の限定された変様であるのではないだろうか。そして、そのような一般的な引用性がなければ、「成功した」行為遂行的発言も存在さえしないのではないだろうか。[*9]

 デリダも、相対的に「まじめな」言説の存在そのものを否定しはしないが、彼は、「まじめ」とされる言説も含めて、およそ言説は、「非-まじめ」な言説を特徴づけている、「引用可能性」、あるいは「反復可能性」をもたなければ成立しない、と言うのである。そして、そうした特徴は、異常で例外的なものではなく、言語にとって一般的なものである[*10]

13

 「くそまじめの精神」は、魔術的に形成された身体と意識の一致を信じ、そこに安住する精神である。R.D.レイン( Laing )は、そうした身体と意識の一致を感じている日常的生の状態を「身体化( enbodiment )」と呼ぶが、分裂病者においては、そうした身体化がこわれ、かわりに「非身体化( unenbodiment )」と呼ばれる自己と身体の分離が現れる。レインは、そうした状態を「存在論的不安定」と呼ぶ。そこで、分裂病者は、自己から切り離された身体を中心として「にせ自己( false self )」の体系を作り上げる。彼らは、自己崩壊の不安の中で壮絶な演技を企てるのだが[*11]、それは、あのボードレールによる自己の取り戻しのきわどい企てに通じるものである。たとえば、或る少年は

 きわめて異様な風采をしていた。ダニイ・ケイ演ずるところの青年期のキルケゴールといったところである。髪は長く、カラーは広く、ズボンは短く、靴は大きく、その上、中古の劇用の外套とステッキをもっていた。彼は単に風変わりなだけではなかった。私はこの青年が風変わりであることを演じているのだという印象をぬぐいさることができなかった。[*12]

 どう考えても、まじめな格好とは思えない。しかし、重要なことは、彼がこの「演技」を、自己をまもるために必死でおこなっていた、ということである。その意味では、彼はまじめそのものなのである。

 彼は単純にありのままに自分自身であるのではなく、自分自身であることを演じたのである。〔……〕しかしながら、自分自身に向かっては、彼の理想は、できるだけ完全に率直で正直( frank and honest )であることだった。[*13]

 レインが「存在論的不安定」と呼ぶ、自己と身体の恐るべき分離、これが、むしろ「あらぬところのものである( n'est pas ce qu'il est et qui est ce qu'il n'est pas )」人間の根元的なあり方であることをわれわれはすでに見た。その意味では、人間のあり方は根原的に演技的なものであり、ふまじめなものである、ということになる。それを、レインにならって、「存在論的ふまじめさ」と呼ぶことにしよう。だとすると、サルトルが「くそまじめな精神」とよぶ人々、あるいはレインの言葉で言えば「身体化された自己」を体験している人々は、存在論的不安定、存在論的ふまじめさを直視しつづけることに対してふまじめであるといえるのではないか。くそまじめの精神とは、実はふまじめなのだ。彼らは、自由の深淵の縁まで来て、深淵をのぞき込んでそこからしり込みして退却する。彼らは「ふまじめさにたいしてふまじめ」である。それに対して、行動をせず怠惰に陥っていたボードレール、あるいはレインの描く自己を演じる少年は、ふまじめだったのではなく、逆に人間の「存在論的ふまじめさ」を直視し、演技の、そしてふまじめさの無限の循環にはまりこんでいくまじめな精神なのである。彼らは「ふまじめさに対してまじめ」である。
 われわれは、サルトルの自由と演技をめぐる考察のなかに、きわめてふまじめであり、そのことによって逆にきわめてまじめであるようなサルトルの姿がかいま見られるように思える。それは、「遊戯は、事実、キルケゴール的なイロニーと同様、主観性を解放する(EN669)」と語る「ふまじめな」サルトルである。またそれは、非措定的自己意識という概念を用いてシニフィアンとシニフィエの結合を何とか語ろうとするある意味で「くそまじめな」サルトルではなく、シニフィアンとシニフィエの分裂の深淵を恐れることなくのぞき込む、存在論的ふまじめさに対して「まじめな」サルトルである。

サルトルの著作は以下の略号を用いた

B = Baudelaire,Gallimard, 1963
EE = Esquisse d'une theorie des emotions,Hermann, 1965
EN = L'etre et le neant,Gallimard, 1943
TE =La transcendence de l'ego--esquisse d'une description phenomenologique,Vrin, 1985

*1 これを図式化すれば、次のようになる。

(デノテーション)肩をそびやかす:ブドウの青さ
(コノテーション)    ブドウの拒否    :    ブドウの獲得

*2 Putnam, H.,Reason, truth, and history,Cambridge University Press, 1981, p.1.

*3 Whitford, Margaret, Merleau-Ponty's critique of Sartres philosophy,Frenchforum, 1982, p.56.

*4 Ibid., p.3.

*5 顔の専制については、「顔」と名づけられたサルトルの短い文章を参照されたい。cf. Sartre, J.-P., Visages, dans Les ecrits de Sartre, ed. par Contat, M. & Rybalka, M., Gallimard, 1970, pp.560-4. シニフィアンの専制については、Deleuze, G. & Guatttari, F., Mille plateaux特に、七章「霊年――顔貌性」また Guattari, F., La revolution moleculaireを参照。

*6 Searle,J.R.,Reiterating the Differences:A Reply to Derrida,GLIPH 1, 1977,

*7 Derrida, J.,Marge, Minuit, 1972, P.373.

*8 Ibid.,pp.376-7

*9 Ibid., p.387.

*10  このように、演劇的なもの、想像的なものが、日常的なもの、現実的なものに依存しているとする通念を逆転させ、それを通じてある種の倫理的批判を企てているという点において、デリダとサルトルは共通している。足立和浩が言うように、「デリダ的エクリチュールの選択とサルトル的な想像力の選択は『不在』を選ぶという点で一致している(足立和浩『知への散策』夏目書房 ( 1993 ) p.69.)」のである。サルトル哲学は「主体性」の哲学とも見られているが、不在を本質とするエクリチュールへの着目を通じて「主体」の解体を語るデリダの戦略と、サルトルの戦略の持つ共通点を見逃してはならない。「役者にして殉教者」という副題をもつサルトルのジュネ論『聖ジュネ』も、日常的道徳に対する批判の書として理解できる。それは、演劇的な物、にせもの、すなわち想像的なものを徹底的に選択するジュネの生を描写することを通じて、まじめな物、本もの、すなわち現実的なものにとらわれた日常的生を批判していたのである。

*11 Laing, R.D.,The Devided Self,Penguin Books, p.69-

*12 Ibid., p.70.

*13 Ibid., p.71.