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自我と自由―サルトル『自我の超越』について―

永野潤



 『自我の超越 La transcendence de l'ego』は、サルトルの実質上最初の哲学論文である。一九三三年ドイツから帰ってきた友人レイモン・アロンに現象学について教えられたサルトルは、すっかり現象学に魅せられ、その年の九月に、はペルリンのフランス学院に留学して一年間フッサールの研究を行う。『自我の超越』は、このペルリン留学期間中に執筆された(ただし雑誌に発表されたのは一九三七年である)。
 この論文でサルトルは、フッサールの超越論的自我の理論をも含め、自我が意識に内在すると考えるあらゆる哲学・心理学を批判し、自我が、意識の外にある、意識にとっての対象でしかないということを主張する。「自我の超越」という表題は、自我が意識にとっての「超越的」対象であるということを意味している。
 しかし我々は本論において、『自我の超越』における意織の「自発性」についての議論に注目することにする。サルトルは「自由の哲学者」などといわれ、『存在と無』のなかの「自由であるとは自由であるぺく呪われていることである」という言葉が、それだけで一人歩きしたりもしている。しかし、『自我の超越』における意識の自発性についてのサルトルの考え方を検討すると、サルトルの自由論に対するそうした一般的イメージが誤っているということが明かになるはずである。
 まず、『自我の超越』の議論の大筋をたどることからはじめることにしよう。

第一節 絶対的内面性―意識

 サルトルの議論の要点は、冒頭の短い序文の中にすぺて語られているといっても過言ではない。
 つまり、この論文では、「自我」が形相的にせよ質料的にせよ意識の「内部」にあると考える哲学者・心理学者が批判され、「自我」が意識の「外部」の一対象であることが主張されるのである。意識の中に「私」はいない。「私とは一人の他人である(TE,78)。そして、意識は、「内部」や「内容」をもたず、それ自体が「絶対的内面性」である、とサルトルは言う。それは、いわば体験の流れそのものでしかないのである(これが、『存在と無』において、「対自存在」としてとらえられることになる)。サルトルはそれを「超越論的意識」と呼ぶ。彼によれぱ、超越論的意識は、本来、対象化されていない「非反省的なもの」である。サルトル的現象学は、超越論的意識の構造を純粋に記述することを目的とするのである。
 サルトルが、「超越的なもの」という場合、それは、意識の志向的相関者である「対象」である(これが、『存在と無』においては「即自存在」としてとらえられていく)。超越的対象は、原理的に我々にとって「蓋然的」なものでしかありえない。超越的なもの(対象)の蓋然性は、意識に対する現れ方によって説明される。例えば、我々は立方体の6つの側面をすぺて同時に知覚するわけにはいかない。我々には最高3つの側面しか見えない。このように、意識の外的な対象は、本質的にそのある側面を通してしか意識に現さないわけである。これが、「射影 Abschattung」ということである。そして、対象は我々がそれに対してとる観点が変化するにしたがって、無限に新たな側面を現す。それゆえ、我々が対象を全面的にとらえることは不可能である。外的対象には、次の瞬間には別の現れによってくつがえされてしまうかもしれないという蓋然性がつねにつきまとう。遠くから立方体に見えたものが、近付いてみたら立方体ではなかった、という可能性は、つねに残る。なおかつ、我々は「立方体を」見ている。つまり、ここで我々が有限な現れを通じてとらえている「立方体」とは、無限の現れのとりあえずの「理念的統一」にすぎないものなのである。
 ところで、「反省」において、意識は、意識自身にとっての対象となる。知覚の場合と違って、対象としての意識は、反省において、自分自身に対して「射影なしに」全面的に現れる。したがって、確実なものとしての「反省された意識」は、瞬間的なもの、あるいは無時間的なものであるということになる。というのも、意識は射影を通して時間的に自らをあらわさざるを得ない外的対象とはことなって、自らを一挙に全的に現わすものだからである。

第二節 超越的なもの―自我

 サルトルは、「反省」において、我々は、意識を、確実性に基づいてとらえることができると主張する。とすると、「反省されたもの」のみを問題にしてそれを純粋に記述すれば、超越論的意識に到達できるように思える。ところが、反省も対象化作用である限り、「反省されたもの」の中にも蓋然的なもの le probable が生まれるのだとサルトルはいう。
 では、「反省されたもの」の中に生まれる「蓋然的な」超越的対象とは、何なのであろうか。サルトルはそれを「心的なもの le psychique」と名付ける。この心的なものは、反省において、反省する意識に対して現れてくるものなのであるが、それは「反省された意識」そのものなのではなく、反省された意識を通して現れる超越的対象にすぎないのだとサルトルはいう。そしてこの心的なものは、反省された意護が暖間的なものであり、絶対的確実性をもっていたのに対して、時間的なものであり、蓋然的なものでしかない。
 サルトルは「心的なもの」として、状態 e'tats・行動 actions・性質 qualite'・自我 ego という四つのものをあげている。「状態」の例としてサルトルがあげているのば「憎しみ haine」である。例えぱ、私がピエールに会い、彼を見て反発と怒りを感しる。そして私はその反発と怒りを反省し、私の中に「ピエールに対する憎しみ」をとらえる。サルトルは、この時私の反発と怒りという意識事実の明証性は疑い得ないが、「私がピエールを憎んでいる」ということはどこまでも疑わしくあり続けるという。というのも「私の憎しみ」という「心的なもの」は、「私の反発」という「反省された意識」の瞬間性を越えて、過去と未来を通して私の中に存在するものとしてとらえられるからである。つまり「憎しみ」は、「反発」や「怒り」といった個々の意識現象をその一射影とするような理念的統一としての「超越的なもの」でしかないのである。
 このようにサルトルは、「心的なもの」としての憎しみが、反省された意識と同様反省されたものでありながら、それが射影の理念的統一としての身分をもっているものであるかぎり、蓋然的な対象でしかないと主張する。その意味でサルトルは、確実なものとしての反省された意識をとらえる反省と、蓋然的なものとしての心的なものをとらえる反省を区別するのであり、前者を「純粋な反省 re'fle'xion pure」後者を「不純な反省 re'fle'xion impure」と名付ける。
 「行動」「性質」も、「状態」と同じく「心的なもの」としての構造をもっている。それらは結局、意識にとっては外的な、超越的なものなのである。それは、意識事実の瞬間性を越えて、時間的な相のもとにある。
 さて、サルトルのこの論文の眼目は、「自我」が「心的なもの」であり、意識にとって超越的なものであることを示すことであった。サルトルは、「自我」が、それ自体超越的な統一である状態・行動・性質を、さらに超越的に統一するものだという。「私」とは、例えば「私の憎しみ」を統一するものなのである。しかし、だからといって憎しみの方が超越的なもので、「私」の方が内在的なものだということではない、とサルトルはいう。「自我」はこれまで、意識を内在的に統一するものとしてとらえられていた。フッサールも、意識の内在的な統一として「超越論的自我」を想定していた。それに対して、サルトルは「自我」は意識の内在的統一なのではなく、超越的な統一でしかない、と考える(サルトルはこの点でフッサールを乗り越えたと考えている)。つまり、「自我」が「憎しみ」を作るのではなく、「自我」も「憎しみ」もどちらも超越論的意識の対象だというわけである。  つまりサルトルは、自我の統一性が、「青」が吸取紙のさまざまな現れの理念的統一であるのと同じ意味での統一性である、というのである。結局自我は確実な「反省された意識」に属するのではだく、蓋然的な「心的なもの」に属するのであり、そのかぎりで還元において外的対象と同時に排除されねばならない。

第三節 自我の自発性と意識の自発性

 以上のようにサルトルは、純粋な反省を遂行すれば、我々は「自我」を蓋然的な「心的なもの」として排去せねばならないと主張する。これが、『自我の超越』の主要な論点である。サルトルは、純粋な反省によって「自我」という「超越的なもの」を排除し、「純粋意識」という、絶対的内面性へと到達しようとしている。その意味で、この議論の中に我々はいわば「外部から内部への運動」を見て取ることができるのである。ここで、「純粋な反省」によってとらえられる超越論的意識が、「存在 existence」であるとサルトルが主張している点に注目しなければならない。超越論的意識は、
「絶対的存在領域 sphe`re d'existence absolue」だといわれる。こう主張することによってサルトルは、意識が、後の彼の表現を用いて言えば「本質に先立つ実存」であることを強調しているのである。つまり、サルトルによる「意識からの自我の排去」とは、意識からあらゆる「本質規定」を取り除く作業でもある。「自我」をはじめとする「心的なもの」とは、反省された意識に外側から与えられる、「超越的」本質のことであった。したがって、「外部から内部への運動とは、「本質から存在への運動」でもあった、ということができる。
 ところが、サルトルは意識が「絶対的な存在領域」であると言うのと同時に、意識が「純粋自発性 spontane'ite's pures の領域」(TE,77)でもあるといっている。これが、我々がこれから問題にしようとしている「意識の自発性」についての議論である。自発性とは、のちのサルトル哲学において「自由 liberte'」という言葉でおきかえられていく概念なのだが、意識が「自発性(自由)である」ということは、実はサルトルにとって唯一の意識の「本質規定」なのである。「人間は意識として(「自己のもとに現在しているものとして」)実存しており、このことが原理的に意味しているのは、人間が自由として実存しているということにほかならない。このことこそ、サルトルにとって、根本的に存在論的に定義し言明されうる人間についての唯一の「本質の性格づけ」である[*1]。しかし、ここでなされている意識の「本質規定」は、意識に外側から与えられる「超越的」本質規定ではない。それは意識の「超越論的」本質規定なのであサ。「自由とは、実存する意識に後になって付け加えられるぺき規定であるという考えの成立しないように[*2]」しなければならない。
 そのことを考えるとき、我々は、サルトルが『自我の超越』において二つの「自発性」を区別している、ということに注意しなければならない。一つは、意識そのものと切り離せない、意識の「超越論的」本質としての「意識の自発性」である。もう一つは、不純な反省のなかで、意識に先だって「自我」の中にア・プリオリに存在するものとしてとらえられる「自我の自発性 spontane'ite' de l'ego」である。「この自発性〔自我の自発性〕を、意識の自発性と混同してはならない(TE,62)[*3]  「自我」を人間にとって内在的なものであるととらえる不純な反省において、我々は、ピエールに対して反発を感じるという意識事実を、私の反発は私の「憎しみ」から流出したものであり、この「憎しみ」は私の「自我」によって作られたものだ、と説明するであろう(TE,63)。そして、そこでは人間の「自発性」は、あたかも「自我」に属しているかのように現れてくるのであり、意識事実のほうはむしろ自我から流出する受動的なものとしてとらえられる。あるいは、意識事実は表層意識の下に隠された「無意識」から流出してくるのだと説明される(TE,79)。いずれにせよ、我々は不純な反省の中で、様々な意識事実を「自我」ないし「無意識」という「あらかじめ存在する場所」から出てくる単なる結果とみなす。
 しかしサルトルは、こうした記述は、不純な反省によって「順序が逆にされている l'ordre est renverse'」のだという。実際は、意識が「自我」や「無意識」から流出してきて受動的に形成されるのではなく、逆に「自我」や「無意識」の方が諸意識の理念的統一として後から構成されるものなのだというのである。
 その結果「意識は自分自身の自発性を〈対象としての自我〉に投影 projeter する」ことになる。この、不純な反省のなかで自我に投影された自発性が、「自我の自発性」である。この自発性は「対象のなかに表現され、実体化された」「析衷的で頽落した自発性」なのである。
 「意識の自発性」は、そうした自発性とは違う。それは、意識に先立つ「自我」の、何らかの「能力」や「性質」なのではなく、むしろ意識には何も先立たないということそのものを示している一つの概念なのである。意識事実は、どこからか流出してくる「結果」なのではなく、自分で自分を造る純粋な自発性としてあるのであり、意識事実の出現は無からの自己創造である。
 しかも、「意識の自発性」は、「自我の自由」のような生易しいものではない。それは、意識が「無」であり瞬間的なものであるかぎり、つねに己れ自身をも乗り越えていってしまうような「恐るぺき自発性 spontane'ite' monstrueuse(TE,80)なのである。反発という意識事実は、意識自身にとって絶対確実なものであるが、私が次の瞬間もピエールに反発しているとはまったくかぎらないのであって、意識が自発性をもつということは、意識は次の瞬間自己を乗り越え別の意識として自己を形成することがつねにありうるということなのである。「不安 angoisse」とは、我々がこの意識の恐るぺき自発性に気付くことである、とサルトルは考える。我々は意識の自発性に直面したとき「たえず自己を逃れ出、自己を逸脱し、つねに思いがけない豊かさによって驚かされるという印象」(TE,79)をもつ。この自発性に対しては、「自我」や「意志」は全く無力なものでしかない。なぜなら「意志 volonte' はこの自発性のために、この自発性によって構成される一対象だからである」(TE,79)。
 したがって、ジャネが紹介する、夫がいないとき娼婦のように通行人に声をかけてしまうのではないかと恐れる一婦人の脅迫神経症も、サルトルによれば意識の自発性に対する「不安」によって説明されることになる。というのも彼女は、彼女の意識の中にはそうした行為を妨げるなにものもないということに気付きそれに恐怖しているからである。彼女の「自我」(後述するようにこれは日常的モラルの主体でもある)が、彼女がそうした行為をすることを妨げているように思えるが、「意識」は、「自我」や「意志」をつねに乗り越えうるものとしてあるのである。サルトルは、彼女の不安を「可能性の眩暈 vertige de la possibilite'」ともいいかえている。

第四節 偶然性の間題

 このように、サルトルのいう「意識の自発性」は、我々が「やろうと思えば何でもできる」というような意味での「自由」とはまったく異なったものなのである。サルトルはむしろ、「やろうと意志する私」は、不純な反省によって構成される超越的対象でしかないと考えるのであり、自発的意識は、そうした「意志する主体」をつねに乗り越えていってしまいかねない、「恐るべきもの」であることを示しているのである。意識の自発性は、我々が個々の行為において自由にふるまえるという意味での個別的かつ具体的な自由なのではない。その意味では、強迫神経症の婦人も、実際には様々な制約によって制限され、娼掃のように通行人に声をかける「具体的な自由」は持っていない。しかし、意識の自発性は、我々のあらゆる行為が、「全体として」途方もない可能性によって支えられたものでしかないというひとつの「超越論的」事実を示すものなのである。サルトルは、この二つの自発性の区別を、その後も一貫して保ち続けた(自発性は、自由という言葉におきかえられたが)。
 ところが、往々にしてサルトル哲学の自由は、「やろうと思えば何でもできる」というような意味での「自由」として誤ってとらえられている。(マーガレット・ホイットフォードも、サルトル哲学において「自由」が、「存在論的自由 ontological freedom」と「ある状況における自由 freedom in a situation」というニつの意味をもっているといった上で、このニつの自由がこれまでしばしば混同されてきたということを指摘している。この混同は、サルトル自身のこの言葉の曖昧な用法によるところが大きいのであるが)。サルトルの「存在論的自由(意識の自発性)」は、日常もちいられている意味での「自由」なのではなく、むしろ「自由の条件 condition of freedom」である[*4]。それは、「意識が原因結果の言葉では定義できないという事実[*5]常的意味を雑れて、むしろ意識のもつ根源的「偶然性」として理解するべきであると考える。サルトル哲学における後者の「自由」は、一般的に考えられているように「主観性」からではなく、「偶然性」という観点から見られなけれぱならないし、『自我の超越』におけるサルトルの根本的関心も、意織の自発性、すなわち人間の条件としてのこの根源的偶然性にあったと考えるぺきなのである[*6]

第五節 本来性の道徳と日常

 ここで、我々は『自我の超越』において、超越的対象としての「自我」が「蓋然的」なものとして排除され、意識そのものは「絶対的内面性」としてとらえられていた、ということを思い出す必要がある。意識が、一方で「内面性」としてとらえられ、他方で「偶然的なもの」としてとらえられるということは、実は異なった二つの「秩序」の対立を示しているのである。そのことを考えるために、まず我々は『自我の超越』における倫理的主張について見ておかねばならない。
 サルトルは、超越的「自我」を意識に「内在」するものと考える「自我論」を、それが理論的に誤っているということからのみ批判するのではない。サルトルは、我々が自我を内在的なものと考えてしまうことのなかに実践的な背景をよみとるのである。サルトルは以下のように言う。
 つまりサルトルは、「自我」の役割が、意識に自分自身の途方もない自発性をおおい隠すところにあると考えていた。そして、不安から逃れるために自我を構成してしまう不純な反省に対して、純粋な反省を対置するサルトルの理論が、彼にとって実践的ないし道徳的な意床をもつものであったことは明らかである。
 ここにみられるサルトル的道徳は、「本来性の道徳」として規定し得るようなものである。ここで我々が「本来性の道徳」というものは、日常的あり方において非本来的状態に頽落している人間が、自己の本来的あり方を自覚することに道徳性をみとめるような道徳観のことである。そして、こうした道徳においては、非本来的状態とは、何らかの実質的非道徳性を意味するのではなく、単に自己の本来的あり方が「隠蔽された」状態のことをいう。したがって、この道徳は、人間の状況を、自己の本来的存在からの疎外としてとらえ、そこからの回復を訴えるだけで、何らかの具体的価値を人間に向かって外側からおしつけはしないのである。
 さて、『自我の超越』の不純な反省と純粋な反省との対立は、本来性の道徳の観点からみると、以下のようになるはずである。すなわち、不純な反省とは、自我を自分にとって内在的なものであると思い込み、それによって自発的意識という自己の「本来的」あり方を隠蔽する、日常的、非本来的状態のことを意味する。それに対して純粋な反省は、自発的意識という本来的あり方の道徳的自覚という意味をもつ。
 したがって、ここには二つの「ordre(秩序・順序)」の対立があることになる。一つは、本来的な存在論的「秩序」であって、この秩序のもとでは、「超越論的意識」の自発性こそが我々にとって一次的な「内面性」なのであり、「自我」の自由は、不純な反省によって構成される「超越的な」ものでしかない。もう一つは、非本来的な日常的「秩序」であって、この秩序のもとでは、逆に、「自我」の自由が、我々にとって一次的な「内在的なもの」としてとらえられている。そして、この秩序に対しては、ふだん隠蔽されている「超越論的意識」の自発性の方は、時析、我々の日常を脅かす恐るぺき「偶然」あるいは「不条理」として現れてくるのである。つまり、日常的な秩序のもとでは、存在論的には二次的でしかないものが、さしあたりたいてい一次的なものとしてあらわれてくる。その意味で、日常的な秩序のもとでは、まさに「順序が逆にされている l'ordre est renverse'」わけである。
 こうした意味で、サルトルのいう「純粋な反省」とは、日常的秩序に対して存在論的秩序を「対立」させ、日常が、その基盤において可能性のなかにつりさげられたものでしかないことを、我々に示すものなのである。サルトルは、「自我」か、超越的なものでありながら我々にとって「親密な intime」ものである、という。つまり、「不安」とは、慣れ親しんだ親密な日常が突然相貌を変え、そらぞらしいものとして立ち現れてくることである。強迫神経症の婦人がとらわれたあの「可能性の眩暈」は、日常性をとりまき、それを見えないところで支えている「外部」との一瞬の遭遇、あるいは、主観性の底に不気味にひろがる「偶然性」との一瞬の遭遇だったということができる。我々は、『自我の超越』における「意識からの自我の排去」が、「超越的なもの」から「内面性」ヘの、すなわち「外部から内部への」運動として見ることができるといった。しかし、日常的秩序からの脱出という道徳的観点が加わったとき[*7]、その同じ運動は、日常性という内部から、それを支えている見知らぬ外部への運動として見えてくることになる。それが、『自我の超越』における「恐るぺき」自発性についての議論であったといえる。
 したがって、サルトルのいう意識の「自由」とは、日常的秩序からみればむしろ恐るぺき「外部的なもの」なのであって、その意味で、サルトル的自由を日常的主体の権能であるかのようにとらえるのは、まったく誤っているといわざるをえない。

 あとにTEの符号とぺージ数を付した引用文はすべて『自我の超越』からのものであり、ページ数は、シルヴィ・ルポン(Silvie Le Bon)による序文と注を含む一九八五年発行の Vrin版のものである。

*1ヘルムート・ファーレンバッハ、上妻精監訳『実存哲学』と倫理学―実践哲学の復権』(哲書房、一九八三)二六五ページ。

*2ibid.

*3シルヴィ・ルボンは、『自我の超越』のなかの「意識は、自分自身の自発性に対して、それが自由の彼方にあるように感じるがゆえに、恐れを抱く(TE,80)という表現に注目し、サルトルがこの論文の段階において行っている、「自由liberte'」と「自発性 spontane'ite'」という言葉の使い分けについて指摘している。「自由の、自発性に対する関係は、自我と心的なもの一般の、非人称的超越論的意識に対する関係と同じである(TE,80.note 73)」。つまり上の表現においては、サルトルは「自我の自発性」を「自由」と呼び、「意識の自発性」を「自発性」と呼んで使い分けているのである。

*4Margaret Whitford, Merleau-Ponty's critique of Sartre's Philosophy.French forum, 1982, p.56.

*5ibid., p.57.

*6平井啓之は、一貫してサルトル哲学における「偶然性」の間題に注日している。平井はあるところで、ペルクソン哲学の影響をうけた実存主義者の共通の特徴が「主観性への信仰」であると主張するジュリアン・パンダを批判している。そして、実存主義が影響を受けたのはむしろペルクソニズムの偶然性の理論であると主張する。「〔二○世紀フランスの〕思想的展開の要には、パンダのいう主観性などではなく、不条理 l'absurdite' あるいは偶然性 contingence,hasard の問題がある」(『フランス文学講座第5巻』(大修館書店一九七七)四九八ぺージ。

*7しかし、いうまでもないことかもしれないが、本来的道徳の間題は、日常的秩序を切り捨てて、本来的存在論的秩序に向かえばいいというょうな単純なものではない。『自我の超越』以後のサルトルにとっては、日常的秩序と存在論的秩序の二者択一的対立構造そのものが間題となっていく。その意味で、以後サルトルにとって日常的珠序から存在論的秩序へ一方的に向かう「純粋現象学」だけではなく、日常的秩序(状況における人間)にある意味でとどまり続ける「心理学」が重要となっていったのである。