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演技する機械

――サルトルのイミテーション・ゲーム――

永野 潤


 「機械は考えることができるか Can machines think?」アラン・テューリングは、1950年に書かれた「計算する機械と知能 Computing Machinery and Intelligence 」という論文の冒頭で、こう問うている。「計算する機械」と「思考する人間」。この常識的な対比に対して、テューリングは、「思考する機械」の可能性、という問題を投げかけたのだ、ともいえる。ところで、サルトルの『存在と無』の中に、シガレットを数える compter 人間の話がある。テューリングのいう「思考する機械」について考察する前に、われわれはまず、サルトルが描く「計算する人間」について考察することにしよう。

計算する人間

 では、この「計算する人間」と、「計算する機械」はどう違うのか。
 ところで、テューリングは、先に上げた論文において、「機械は考えることができる」とする立場に対するさまざまな反対意見を検討している。彼が四つ目にあげている反論が、「意識をよりどころにする議論」である。この意見によると、たとえうまくソネットを書いたり、協奏曲を作曲することのできる機械ができたとしても、それだけではその機械は「考えている」とは言えないことになる。機械は、ただ単にソネットを作りだすだけではだめで、「考え、かつ感じたがゆえに」ソネットを書くのでなければならない。。
 この議論に従えば、「考える」とは、単に計算するのではなく「意識的に」計算することだ、ということになる。「意識」といった場合、対象についての意識と自己についての意識の二つの側面が考えられるが、この場合問題となっているのは、後者の「自己についての意識」である。人間は「単にソネットを書くにとどまらず、それを書いたことをも知っている」のであり、単に計算しているだけの機械とは違い、「計算することを知っている」(Turing:60)。私は、数えているだけではなく、数えていることについて意識している。つまり、「単に計算すること」と「考えること」の差異は、自己意識の有無に求められるといってもいい。そして、サルトルはまさにこの「意識をよりどころにする議論」に従っているように思える。
 私がシガレットを数えているとき、「数についての意識」があり、そうした意識があるためには「数えることについての意識」がなければならない、というわけである。「数えるためには、数えることの意識をもたなければならない(EN20)」
 このことの証拠としてサルトルが指摘するのは、次のような事実である。  しかし、そのように、対象意識をもつためには自己意識がなければならない、と言うことから、直ちに問題が生じてくる。というのも、もし、「対象」についての意識があるためには「自己」についての意識がなければならない、ということだとすると、今度は、「自己」についての意識があるためには「自己についての意識」についての意識がなければならない、ということになり、無限遡行が生じるからである(EN:19)。したがって、自己についての意識は、対象についての意識のありかたとは区別されなければならない。サルトルは、後者を措定的(定立的)意識、前者を非措定的(非定立的)意識[*1]、と呼ぶ。
 むろん、自己を対象として措定的に意識することもある。ただし、それは「反省」という特殊な場合である。ここで問題になっているのは、無心にシガレットを数えている状態にさえある自己意識、「前反省的コギト cogito pre're'flexif(EN:20)」である。そのことを強調するため、サルトルは、非措定的自己意識の場合には「についての de 」という言葉をかっこに入れ、「自己(についての)意識 conscience (de) soi」と書く。では、この自己(についての)非措定的意識をどのように理解すればいいのだろうか。それは一種の「感覚」である、と理解することもできる。たとえばそれは数えている最中に意識が数えていることに「気付いている」ことである。私は、自分が数えていることをあらためて反省するまでもなく、数えている最中にすでにそのことに気付いている[*2]。それは、一種の身体感覚や気分、「意識がみづからめざめてゐることそれ自体の感触(Yamazaki:202)」としてとらえるべきものなのだろうか。たしかに、そのように理解させる側面がサルトルの記述にはある。サルトルは、「非定立的な意識は、身体(についての)意識である」と言う(EN:395)。シガレットを数えているとき、私は数えている私の手を認識しているわけではない。にもかかわらず、私は手の運動をたえず感じている。「身体は生きられるのであって、認識されるのではない il est ve'cu et non connu(EN:388)」。
 しかし、非措定的自己意識が反省におけるような自己についての「認識」ではないとしても、それは、対象意識に付け加わったりまつわったりする感覚のようなものでもまた、ない。サルトルはこう言う。
 つまり、まず「数えること」があって、それに対して非措定的意識が付け加わる、というのではなく、逆に非措定的意識があってはじめて数えることがありうる、というのである。その意味で、「数えるためには、数えることの意識をもたなければならない(EN20)」のである。
 しかし、これは奇妙なことである。というのも、サルトル自身が指摘するように
 だが、サルトルによると、循環があるように見えるのは「数えること(についての)意識」と、「数えること」あるいは「数える意識」を別々のものとして考えるからである。サルトルは、「数えること(についての)意識」は、「数える意識」と別の意識なのではなく、「数える意識」の存在の仕方だ、という。
 サルトルは、われわれは身体を認識するのではなくそれを「生きる」のだといっていたが、さらにこのようにも言う。
 「非措定的自己意識」は、「計算する人間」がまた「思考する人間」でもあることの条件であったが、この自己「(についての)意識」は、自己「を生きること」、さらには自己「を存在すること」とされる。サルトルは、「意識のなかに対立の法則を導入してはならない(EN19)」と言い、「無限遡行をさけようと思うならば、意識は直接的な関係 rapport imme'diat であって、自己から自己への思考的な関係ではない、としなければならない(EN19)」と言う。そして、この「直接的な関係」とは、「存在的な関係 relation existentielle 」である。

演技する機械

 では、自己を意識すること、すなわち「私は私を意識する」は、結局「私は私である」という同一律に還元されるのだろうか。
 しかし、そのように考えることは、別の困難を引き起こすことになる。テューリングは、前述の論文の中で、「意識をよりどころにする議論」に対してこのように言っている。
 そして、テューリングは、自己意識とはまったく異なった観点から、「思考」をとらえるのである。テューリングは、冒頭にあげた「計算する機械と知能」という論文の中で、後にテューリング・テストと呼ばれることになる「イミテーション・ゲーム」を提唱している。テューリングは、このテストに合格した機械は、「思考する機械」と呼ばれる資格がある、と考えた。このテストについて少し詳しく見てみよう。
 このテストの原形は、男性(A)、女性(B)、質問者(C)の三人で行われるゲームである。別の部屋に隔離された質問者には、AとBの姿は見えず、声も聞こえない。彼(彼女)はテレタイプによって二人に質問し、回答もテレタイプで行われる。さて、男性(A)は、回答を通じて、女性(B)のふりをする。たとえば、服装を聞かれたら、「スカートをはいています」などと答えるわけである。つまり、このゲームでは、A、Bはどちらも「私は女性である」と主張することになる。質問者の目的は、二人の回答者のどちらが「ほんものの女性」であるか当てることである。
 ここで、男性(A)の役割を機械が演じたものが、テューリング・テストである。したがって、この場合、機械(A)も人間(B)も、どちらも「私は人間である」と主張することになる。はたしてどちらが「ほんものの人間」なのか?それが質問者に当てられなければ、この「人間を演じる機械」は知性を持っていると言える、とテューリングは言う。 ここでは、外からうかがいしれない自己意識などは問題となっていない。テューリングによると、「人間である」とは、「人間であるふりをする」ことでしかないのである。
 ところで、サルトル哲学において、「演技=ゲーム jeu」という概念が重要な役割を果たしていることは知られているだろう。サルトルは、『存在と無』において、そのことをカフェのボーイの例を用いて語っている。それは、「人間を演じる機械」ではなく、まるで「機械を演じる人間」である。
 重要なことは、このカフェのボーイの例が、「われわれは何であるのか? que sommes nous (EN:98)」という問いに呼応するものだ、ということである。ここでサルトルはまさに人間の「存在の仕方」を問題にしている。前述のサルトルの言い方に従えば、彼は、カフェのボーイを「存在している」わけだが、では、それはどのようなことなのか。
 「カフェのボーイである」とは「カフェのボーイであることを演じる」ことである。つまり、演技は、人間の「存在の仕方」である。「われわれは何ごとにせよ、それであることを演じる jouer a` l'e^tre より以外には、それであることができない」。これはすなわち、人間は「それであるところのもの ce qu'il est」ではないということである。つまり、「私は私ではない」。しかも、それが、私の存在の仕方である。ようするに、私は「私ではないという仕方で私である」。
 テューリングは、「人間を演じる機械」の出現を予想したが、こうしてみると、サルトルの描く人間も、そうした機械とそれほど異なったものではなく、そもそも「人間を演じる人間」でしかなかったのである。
 さらに興味深いのは、サルトルが、自己意識そのものを、一つのゲーム jeu として描いているということである。
 サルトルの自己意識は、「私は私である」に還元されるものではない。「意識の存在は完全な同等性において自己自身と一致することがない(EN:116)」のであり、それは「自己からの脱出 e'chappement a` soi」、「自己破壊 auto-destruction」(EN:110)、「崩壊 de'sagre'gation」(EN:111)、「存在不安定 inconsistence d'e^tre」(EN:121)である。ところで、サルトルのいう演技とは、この存在不安定から逃れるためにわれわれが行うゲームでもある。そのゲームを、サルトルは「自己欺瞞 mauvaise foi 」と呼ぶ。したがって、われわれは、いわば、演技から逃れるために演技し、ゲームとしての自己の存在から逃れるためにゲームを行うのである(EN:81,111)。
 さて、ここでわれわれは、再び冒頭でとりあげた「シガレットを数える」私に立ち戻ることにしよう。いまやわれわれは、あの「シガレットを数える人間」も、「数えることを演じている」のだということを知っている。したがって、サルトルは「数えるとは、数えることを演じることである」と言うはずである。ところで、われわれが反省以前に非措定的な自己意識を持っていることの証拠としてサルトルが指摘するのは、「あなたはそこで何をしているのか?」とたずねられたならば、即座に「私は数えている je compte」と答えられる、ということだった。だが、そもそもこの答えが、一つの問いに対する答えであった、ということを忘れてはならない。「あなたはそこで何をしているのか?」。「誰か」がたずねる。しかし、それは誰なのか。

変様する機械

 スタンリー・キューブリックの映画『2001年宇宙の旅』(1968)には、HAL9000 という名の人工知能が登場する。木星探査に向かう宇宙船のシステムを管理する HAL は、船体に組み込まれており、人間の身体をまねた特徴をまったくもたない。人間の乗組員との交渉は、音声を通じてのみ行う。しかし、映画の中では、HAL の身体的側面ともいえるものが一つだけ描かれていた。それは、宇宙船の各所に配置されたビデオカメラのレンズ、すなわち HAL の「眼」である。この「眼」が印象的に描かれる、次のようなシーンがある。完璧であるはずの HAL の異常にきづいた二人の乗組員が、HAL の機能を一部停止させるという密談を、HAL に聞かれないように、音声が遮断された作業艇の中でしている。ところが、HAL は、作業艇の窓からカメラを通じて二人を「覗き見」、唇の形を読んで、会話の内容を盗み聞きするのである。この場面で、窓の中をのぞき見る HAL の赤い「眼」がクローズアップでスクリーンに映し出される。窓の中の二人は、自分たちが「見られている」ということを知らない。一方 HAL も、自分ののぞき行為が誰かに「見られている」とは思ってもいない。だが、実際は、HALの覗きを見ている「誰か」がいた。つまり、映画の観客であるわれわれである。もし、そのこと、つまり自分ののぞきが「見られている」ことを HAL が知ったとしたら、どうであろうか。
 サルトルは、鍵孔の前の私をとらえる羞恥を、「根原的な失墜 chute originelle (EN:321,349)」と呼ぶ。鍵孔から部屋の中を覗いていた男を、十歳のジュネ少年に置き換えれば、『聖ジュネ』において、サルトルの思考が、この「根源的失墜」を軸にして展開しているということがわかる[*3]。サルトルは、ジュネの生を決定づけたとされる、盗みを見つけられた場面をこのように描いている。
 覗いている私、盗んでいる私は、「他者にとっての」私、すなわち対他存在である。それは、私にはどうにもならない、私を逃れ出る存在である。重要なことは、私が、この「他者にとっての私」を「生きる」のであり、それ「を存在する」ということである。
 こうして、他者にまなざしを向けられることによっても、「私である」は危機におちいるのであり、そこにまたもやゲーム jeu が生まれるのである。
 さて、ここで強調したいのは、シガレットを数える私に対して何気なくなされたように見えたあの問いかけ、「あなたはそこで何をしているのか?」という問いかけが、あの「眼も眩むことば」ではなかったか、ということである。「誰か」がやってきて、鍵孔の前でかがみこんでいる私を見ている。彼はこうたずねるかもしれない。「あなたはそこで何をしているのか」。つまり、シガレットを数える私に問いかけたのは、彼だったのではないか。すなわち、サルトル哲学における意識は、まさに出発点から他者によって失墜させられていたのである。

結び

 以上見てきたように、サルトルは、「私を存在する」ことそのものである「自己意識」を強調していたが、サルトル哲学における自己意識は、演じられた自己と演じる自己が不断に戯れる「イミテーション・ゲーム」として描かれていたのである。サルトルの哲学が徹底的に「意識の哲学」であることは疑いない。しかしそれは、テューリングが批判するような「意識をよりどころにする議論」とはまったく異なったものである。サルトル哲学は、機械と区別される人間の本質を防衛しようとするヒューマニズムの哲学ではない。サルトルは、人間存在を演技として規定することによって、いわば「人間は人間のふりをしている」と言うのである。

サルトルの著作の略号

EN = L'e^tre et le ne'ant, Gallimard, 1943.
SG = Saint Genet--come'dien et martyr, Gallimard, 1952.

その他の著作の略号

Catalano
= Catalano, J. S., A Commentary on Jean-Paul Sartre's Being and Nothingness, 1974.
Turing
= Turing, A. M., "Computing machinery and Inteligence" in The Mind's I, (ed.) Hofstadter, D. R. and Dennett, D. C., Penguin Books, 1982.
Yamazaki
= 山崎正和『演技する精神』中公文庫, 1988.

*1 サルトルは「定立的 positionnel」と「措定的 thetique」を区別していない。
*2  非措定的自己意識は、自己についての knowledge ではなく、自己についての awareness である(Catalano:32)
*3 1910年、私生児として生まれたジュネは、10歳にして社会から泥棒の烙印をおされ、その後泥棒であること、同性愛者であることを自ら選び、作家になる。一方、1912年、イギリスの官僚の家に生まれ、天才数学者としての名声を得ていたテューリングは、『聖ジュネ』が出版された1952年、窃盗の被害にあったことをきっかけに同性愛者であることが暴露され、その「罪」で告訴された。彼はその2年後、1954年に41歳で自殺している。