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U・P・ヤウヒ『性差についてのカントの見解』書評

『週刊読書人』 第2549号(2004年8月13日)

永野 潤


 訳者あとがきによると、本書は「『フェミニスト』が誕生する以前にフェミニストでありえたかもしれないカント像」(傍点引用者)を浮かび上がらせるものである。しかし、様々な発言や伝記的事実から、カントが女性蔑視者であったことについては既に有罪が確定しており、どちらかと言えば「カントがフェミニストだったなんてありえない!」とされているのが現状である。こうした逆風の中で、著者は、カントの冤罪を訴える困難な戦いに立ち上がったというのだろうか?だが、執念深く証拠を探し出す弁護人たる著者が立証しようとしているのは、「カントが性差別主義者ではなかったこと」というよりは、「カントが性差の問題について深く考察していたこと」である。たしかに、公刊された著作を見るかぎり、カントが女性の権利といった問題について真剣に考えていたようには思えない。だが、生前未公刊資料も含めた文献を丹念に読み込むことで、著者は、「性差」の問題がカント哲学において重要なテーマであったことを明らかにする。著者は、あらゆる偏見を批判していく〈啓蒙的偏見批判〉の構想と、男性理性を普遍化するために「他者」としての女性を要請する〈性の両極化〉の構想の境界閾で葛藤するカントの姿を浮かび上がらせる。したがって、著者の目的はカントの「無罪」の証明ではない。著者は、性急な断罪と免罪のどちらからも距離を置き、矛盾と葛藤に満ちた、性差についてのカントの揺れ動く「見解」を明らかにしようとする。ところでカントは、啓蒙を「それ自体罪のある未成年状態から抜け出ること」と規定した。そして、未成年状態とは「他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如」とされる。その意味で、啓蒙はあらゆる「後見関係」の批判に向かうはずである。ところが、カントはある場面では「婦人は市民的営為については常に未成年状態にある」と述べ、女性に対する性的後見を肯定している。ここには矛盾がある。だがさらに別の場面では、カントは「女性は大きな子供以上のものに決してならない」と言ったルソーを批判し、女性の未成年状態が「自然的な」ものではなく作られたものであると考えている。つまり、そうした場面でのカントは、女性が未成年状態から自ら抜け出しうること、すなわち女性の自己啓蒙の可能性をみとめているのである。たとえばカントのこうした側面こそが、ありえたかもしれないフェミニストの方向性である。ボーヴォワールは「人間は女性に生まれるのではなく女性として作られる」と表現したわけだが、著者は「ボーヴォワールのこの表現を哲学的にたどれば、カント以外のどこにも行き着かないだろう」とさえ言う。というのもカントは「人間とは教育が人間から作り出したものにほかならない」と言っているからである。
 このように、著者はカントの矛盾をありのままに描き、早急に答えを出すことを控えている。それは「性差」の問題が現代もなお答えの出ていない問いだからでもある。こうした著者の立場は、一見、権威カントへの「譲歩」と見えるかもしれない。だが著者は、議論の前進が緩やかになった現代の状況を停滞とはみなさず、むしろ「早計な議論による障害の危機を軽減」するもの、と考える。したがって本書は、フェミニズムによるカントへの「譲歩」や「免罪」ではない。むしろ本書自体が、腰を据えたフェミニズムにおける「性差の議論の深まり」を示しているのである。