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■ライブ
●6月11日(金)20:00〜22:00 project H
永野潤p. 鈴木亮b. 小宮山春樹ds.他 dj カワイエイイチ 1500円のみもの付 吉祥寺バー・ドロップ
●7月29日(木)20:00〜23:00 村田BAND
村田正洋 tp. 小川銀士 sax. 宮野大輔 dr. 永野潤 p.他 1800円 調布 GINZ

●映画「たった8秒のこの世に、花を。画家・福山知佐子の世界」出演:福山知佐子 監督:稲川方人上映予定

■ 2004/05/29

 ゆうべは、「朝まで生テレビ」をなんとなくちょっとだけ見てしまった。まえにも書いたけど、私はあの番組が苦手です。私は大変人間の器が小さい人間なので、筑紫哲也にくってかかるお父さんじゃないけど、カッパのペラペラしゃべりに逆上してテレビを破壊したりしてしまうのです。ずいぶん久しぶりに見たのですが、今回はパソコンのモニターで見たので、さすがに破壊することもなく(て、テレビも普通破壊せんが)、しかも、今回は見ていてとくに腹も立ちませんでした。といって、面白かったかというと全然そんなことはなく、なんだかわびしい気分になって、途中で見るのをやめました。あんまり腹が立たなかったのは、煽り役の田原がいなかったからかなあ。
 カッパは、「対北朝鮮外交カードを考える会」の中心メンバーであり、日本単独で北朝鮮への経済制裁が出来る外為法改正、万景峰号の入港を阻止するための「特定外国船舶入港禁止法」を推進する、対北朝鮮強行派のカッパです。いや、だと思っていました。が、昨日ちょっと見ていたかぎり、なんか様子が違うのです。彼は今回、自民党の代表として、コイズミ訪朝を一定評価する、というような立場に立たされており、「コイズミ訪朝は失敗だ!屈辱外交だ!」とわめく他の出演者にさんざん叩かれてしどろもどろになっていました。森内閣がしたコメ支援は完全に失敗だったが、その時お前は責任者の一人だったではないか、みたいに突っ込まれてかなり痛々しいいいわけをしていました。カッパの器はやっぱり小さかった。いやカッパだから皿が小さかったか(ベタですまん)。なんか、哀れになってきました。ま、カッパのことはいいです。あと、声を裏返らせながら机をバンバンたたく勝谷某とか(興奮したサルのようだった)、超〜〜キモイというか、ウザかったですが、まあいいです。腹たつというより悲しくなった。
 それはとにかく、私が途中の一部を見た印象では、議論の流れはこんな感じになっているようでした。すなわち、コイズミ訪朝は失敗であり、それを、お人好しの国民が「よかったよかった」などと支持してしまったのは憂慮すべきことだ、という感じの流れに。
 さて、ここに出演するような人たちが、「国益が…」「国益の…」「国液は…」「濃く液を…」と連呼し、外交「戦略」がどうの、外交「カード」を切っただの切られただの、んな話を飽きもせず何時間もやっていたのは、まあ、いつものことだなあ、と見ていたわけですが、今回気づいたのは、彼らのテーマは「国益」の他にもう一つ、「世論」なんだな、てこと。
 つまり、長期的な「国益」を考える能力もなく、外交戦略のノウハウも知らず、お人好しの素人である「国民」が、心情的に、マスコミ報道に流されて、愚かな「世論」を形成し、コイズミを支持してしまう。そこが大いに問題だ、というような話題が、繰り返し出されていたように思う。
 そういう意味では、前々回の私の日記のような、北朝鮮「人道支援」に関する話は、非常にナイーブでどうしようもない話だ、と彼らには言われてしまうのだろうな。「北朝鮮の人々がかわいそうだからコメ支援いいじゃないか」なんていうのは、何にもわかってないバカの証拠、とかね。まあいいや。で、印象的だったのが、宮台先生と小林よしりんの対決シーン。記憶で書こうと思ったのだけど一応録画したので、起こしておこう(*1)。

宮台 (……)世論が政府の縛りになる。世論はいつも関係があるのですね。世論をどうコントロールするかってことは、極めて、重要。それについてまず、失敗を……
小林 世論なんかもうすぐ変わるんだってそんなものは。いちいち世論ばっかりね……やるのはポピュリズムに走るんだよ!
●$%#&■!!△!!(双方発言して混乱)
宮台 いいですか、世論をどういうふうにコントロールするのかが自分たちのフリーハンドを縛るのだからそれは当たり前なんですよ!(`Д´)重要なのは。ね。
小林(ため息)こんなに世論を次から次に調べるようになったね、マスコミっていうのはちょっと異常だよ。
■!△%#●$&!!!(双方発言して混乱)
宮台 まったく誤解している。世論に追従するべきだと言っているのではなくて世論をコントロールしろと言ってるわけ。
小林 コントロールうぅ?(−−メ)
宮台 要はですね、外交交渉っていうのはですね、我々国民が評価する対象なんだからあ、例えば何をやったかってことじゃなくて、それについてどういう説明を政策担当者が与えるかが重要なんで……
小林 違う違う、全然違う! 小泉に関して説明なんかいらないの。小泉のファンなんだから。小泉ポピュリズムになってて、小泉が民主党になって民主党の政策言えばみんな小泉に追随するの!
宮台 だからそれはダメだって僕は言ってるわけ!

 ……もうやめよう。きりがない。世論に追従するな、というのと世論をコントロールするべし、という二人は対立しているようでなんかあまりそうは見えない。すなわち、彼らは自分が「世論」なるものについて云々する世論の外にいる人間であると思っている点で共通している(まあいろいろ反論はありそうだけど)。だけど、どうなんだろうなあ……。そもそも、「世論」て何?   会場には視聴者からfaxなどで送られてくるの意見が書かれたボードがある。そこにかいてあるのはというと

軍事力をもって解決をするべき
拉致問題が解決するまでは米、経済支援をしない
北朝鮮の不当な要求には応じずにアメリカと協力すべき
次回の日朝交渉には金正日が来日して欲しい

 これは、世論?世論じゃない? これが仮に世論としますね、すると、これらの世論の持ち主たちはつまりこの番組を見てる、てことです(見たからfax送ったのであって、当たり前)。ていうか、朝生って、みんな見てますよね。もちろん、新聞なんか読まない、ニュースなんか見ない、という剛毅な方々(見習わなくてはいけない?)も世の中にはい〜〜っぱいいるのは分かってます。そういう人々は朝生も見ないでしょう。が、私の周りを見回すと、ちょっとでも社会や政治というものに関心がある人の、この番組の視聴率は非常に高いような印象があります。つまり、朝生を見るような人はみんな朝生を見ている(あたりまえ)。が、世論というのは「朝生を見るような人たち」の意見とは違うの?だとすると、その、世論を担う人々である「国民」の方々は、みんな「世論をコントロールすべきなんですよ!」なんていう番組を見ている。そして彼らはどう思うのだろうか。「そうそう、私たちの世論をコントロールしてちょうだい!宮台センセイ!もうどうにでもして!濃く液をちょうだい(下品ですまん!)」などと思っているわけがない。おそらくみんな、宮台センセイ、よしりん、カッパ、などのどれかに同化して、「そうだそうだ、まったくこの人は外交というものをわかってないね」とか言ってテレビの前で出演者にくってかかったりしているのだろう。
 そういえば人質事件の時も、急にみんな専門家ぶりはじめて、何年もイラクで生活してきた人たちに対して、「危機管理がなってない」とか言いだしてましたね。ま、でも今にはじまったことじゃないか。テレビを見ながらみんな昔から専門家気取りでこんな風に言ってた。

今日の小泉は変化球のキレが悪いね。
安倍晋三、ここは引っ張るなよ。右ねらいで行け!
金正日には変化球から入るのが鉄則じゃないか。
福田、なんだその配球は!

 みんな、コントロールされる側だなんてこれっぽちも思っていなくて、「カードを切る」側と自分を同化している。そうして、いっぱしの外交戦略家きどりで、朝生を見ているに決まっているではないですか。しかし、とすると、世論をコントロールする側と思っている人たちの形成する世論、というのは何と呼べばいいのだろうか。世論論?
 あるいはこうも言える。「世論をコントロールしている気分を持つ」ようにコントロールされている、いやもっと言えば、「コントロールされていない」と思うようにコントロールされている……。そして、朝生はまさに、そうしたメタコントロールの道具になっているのではないだろうか?ま、巧妙なコントロールはみんなそうですよね。コントロールがばれたらコントロールにならないもの。
 てなことを考えながら、たまっていた新聞を読んでいたら、木曜日の朝日夕刊に、法政大教授杉田敦(*2)が、「小泉訪朝から再訪朝まで――『世論対策』政治の行方――『操作』への違和感広がる今、正攻法を」というコラムを書いていました。

 ところで、世論操作的なものが、今に始まったことではなく、日本だけの現象でもないとしても、このところ、なぜそれが目につくようになったのだろうか。(……)
 いずれにせよ、こうした政治のスタイルがそう長続きするとは思われない。人々は、自分たちが世論操作の対象とされることに、違和感を持ち始めている。情報を小出しにし、争点を隠して、支持だけを調達しようとするような政治は、いつか世論に見放されかねない。そうならないためにも、政策論を軸にした正攻法の政治への脱皮が望まれるところである。(朝日新聞東京版2004年4月27日16面)


 うーん、そうかなあ。「人々は、自分たちが世論操作の対象とされることに、違和感を持ち始めている」のかなあ。というか、はじめから、世論操作の対象どころか、どっちかというと操作「する」側のつもりになっているのではないかな。そして、いっぱしの「政策論」をたたかわせているつもりになっているのではないかなあ……。
 ……ま、いいや、長くなりすぎたので今日のところはこの辺で。朝生と違って誰も読んでいない日記を終わることにしよう。

*1 朝生なんてどうでもいいとかいいつつなんでこんなに一生懸命やってるんだろう、俺。
*2 なんか名前を聞いたことがあると思ったら、しばらく前、この人が書いた岩波「思考のフロンティア」『権力』を読んでいたのでした(この本はとてもわかりやすかったという印象があります)。

■ 2004/05/26  

 近況報告……の予定が結局また政治ネタ(?)連発。

卒業式で『日の丸』反対記事配布
元教師宅を捜索
 東京都板橋区の都立板橋高校の卒業式で、元教師の男性(63)が都教育委員会の方針を批判する記事のコピーを配布した問題で、警視庁板橋署は二十一日、元教師が開式を遅らせた威力業務妨害の疑いがあるとして、埼玉県内の元教師宅を家宅捜索した。
 この問題で、同校と都教委は同署に被害届を出していた。
 関係者によると、三月十一日の卒業式で、元教師は都立学校の日の丸・君が代問題を掲載した、雑誌記事のコピーを保護者らに配布し、校長の制止に反して「この卒業式は異常だ」などと叫んだ。
 このため開式が約五分遅れたとされる。
 都教委は昨年十月、都立学校の式典で日の丸掲揚と君が代斉唱を義務付ける通達を出しており、一部教職員らが反発している。
 元教師は「雑誌の記事の内容を説明しただけで、式を混乱させたつもりはない」としている。
東京新聞 2004年05月21日


 この記事を読んで、「戦前と同じ弾圧の時代に突入だ!」と驚き怒る人も多いでしょう。もちろん私もそう思います。といっても、この先生の行動を賞賛する気が起こってくるかといえば、全然そんなことはない(*1)。
 では、生徒や親の、この教師に対する反応はどうだったのでしょう。「ケシカラン反日的分子だ!非国民だ!」などと言う人は……もちろん少数でしょう。おそらく、大多数の生徒や親の反応は、こんなところではないでしょうか。「卒業式は生徒のものなのに、ほんとに迷惑な先生だね。君が代反対?そんなの、口パクでもなんでも、てきとうに歌っとけばいいじゃん。たかが歌なんだから。」
 多くの人が、君が代や日の丸に敬意の念を抱いているか、というと全然そんなことはないと思います。昔は祝日というと日の丸を玄関先に出している家がたくさんありましたが、今はそんなの見たことありません。カラオケで君が代を歌っている人も見たことない。つまり、みんな君が代なんてどうでもいいと思っている。そんな風潮を憂いているウヨや戦前オヤジの方々は多いでしょう。そうした焦りが、君が代日の丸強制、という時代錯誤的な動きにつながっている面もある。逆に言えば、「強制されなきゃ歌われないほど、君が代の権威が失墜している」ともいえる。というわけで、私の知り合いの中には「強制されればされるほどますますうっとおしがられて嫌われていくのだから、君が代強制の動きなど放っておけばいいのだ」と楽観視(?)している人もいます。
 が、どうも私はそこまで楽観的にもなれないのです。たしかにみんな、君が代なんて「たかが」歌、と思っているかもしれない。そこはウヨや戦前オヤジにとってはがゆいところなんだろう。が、それは逆に、どんなものでも「たかが」と思えてしまう人が多い、ということを示してもいる。てことは、どんなものでもやれと言われたらやる、という人が多いことでもある。「熱心に」やる人は、少ないかもしれない。それは、安心材料かもしれない(戦前オヤジにとっては不満材料)。しかし、「やらない人」は、圧倒的少数となり、しかもそれだけでなく、その少数者が、ヒステリックなまでに否定され、排除される。結局、圧倒的多数の人が、「そんなに嫌な顔もせずやる」。そしてこれ、まさにイラク人質の問題とリンクしているんじゃないだろうか。「ダサイことすんなよ、たかが歌なんだからどうだっていいじゃんかよ」と言う人は、君が代を「重視」しているわけではない。それどころかどっちかというとバカにしている。それと同じで、人質とその家族を非難した人々も、必ずしも自衛隊のイラク派兵を「重視」しているわけではない。おそらく、実質的にはそんなに意味のあることをしているのではない、というのは分かっている人も多いだろう。ところが、いや、だからこそ、彼らはイラク派兵に反対しないのです。「いいじゃん、たかが自衛隊、たかが水くみに行くだけでしょう。アメリカがやれっていうんだったら、適当にやっとけばいいじゃん。」そして、その「たかが水くみ」に目くじらをたてて、キーキー言うダサい人たちは、たまらなく目障りなんでしょう。てわけで、昨日の日記のように「自衛隊は無駄なことやってるんだよ」なんていくら言っても、あんまり意味ないんですよね……。

 「バカなやつだよ。まったく迷惑なやつだ。適当にうなずいてりゃ会議なんて終わるのに、発言なんか初めやがって。おかげで長引いちゃったじゃねえかよ。こんなくだらない会議、適当に終わらせろっつの。今日は定時で帰って塊魂やろうとしてたのに。だいたい、ああやって会議で積極的に発言しちゃったりするようなヤツってさ、なんか目がキモいんだよな。声でかいし。ウザイっつの。」

 急いで付け加えねばならないが(<この言い方、お堅い文章でたまに見かけますが、笑っちゃいますよね)もちろん私だって、いうまでもなく「会議なんて適当にうなずいてやりすごす」派、ですよ。だからこそ、でもあるんですが、イカレ小泉をいくら非難しても空しいだけ。君が代をダラダラ歌っている人だって、コーチョー先生やキョーイク委員会が大好きなわけではない。むしろどうでもいいと思っている。だけど、そういうのにいちいちたてつくニッキョーソの先生、プロ市民のやつら、福島瑞穂とか? ああいうの、ウザイ。大嫌い。……てわけでしょう。

 だから、サヨは泥沼にはまっていくわけ。「『ケシカラン反日分子!』などと言う戦前オヤジは、ケシカラン!!」などと、声を張り上げれば張り上げるほど、ウザがられ、浮いていく。

 サヨ的な表現で、こういうのありますよね。「権力の横暴が白日の下にさらされた!」しかしこれ、権力にとって、「失敗」なのでしょうか。言い換えると、「あからさまな弾圧」というのは、弾圧のやり方としては「拙劣な」やり方なのでしょうか。一昔前まではそうだったのかもしれないですが、ひょっとして、今は逆なんじゃないでしょうか。上のニュースのような、ビラをまいただけで家宅捜索とか、逮捕とか、そういう戦前と見まごうばかりのひどい弾圧が明らかになったときに起こるのは何か。弾圧されている人への同情の声?……いや、こういう声なんじゃないですか?「ああ、あの人達って弾圧されるような人たちなんだ、ハンタイとか、トウソウとか、いっちゃうようなああいう人なんだ」
 ということは、上のようなニュースに対して、「戦前と同じ弾圧の時代に突入だ!」などと怒れば怒るほど、不利になっていく。闘えば闘うほど、負けていく。ひょっとすると、戦前オヤジは、コイズミは、イシハラは、わざと、時代錯誤的な、低レベルなウヨ言説を振りまいているのではないか?と勘ぐりたくさえなります。つまり、サヨどもに与えられた毒まんじゅうというか、撒き餌というか。
 それにしても、ほんと、しんどい時代すね。ていうかちょっと悲観しすぎ?

*1 この文、いったんあえて削ったけどやっぱり復活させます。

■ 2004/05/25  

 また大分間があいてしまいました。まあ、忙しいということもあるのですが。しかし、書くことがない、というか、ありすぎて書けないというか。私のページの数少ない貴重な読者から、「最近ホームページが勇ましいですね」とか、「政治的ですね」とよく言われます。私は、自分の政治ネタは、ひねりがなくてあまり面白くない、と思っているので、書いては自己嫌悪に陥ります。かといって、あえて政治ネタにまったく触れない、という勇気もなく、そもそも近況報告を面白可笑しく、というのも苦手だし……という感じで、定期的に、書く気力が減退します。まあ、といいつつこうやってまたぐずぐずとはじめちゃうんですがね。
 しかしあれですね、最近はテレビだけではなくて新聞を読むのも憂鬱ですね。朝日に世論調査の結果が載っていました。内閣支持率は54%で前回調査の45%から上昇、というのは、もういちいち何か言う気力もわきません……。しかし、「食糧や医薬品を援助することには61%が反対だった」というのを見ると、いやになってしまいますね。「25万トンの食糧や1000万ドル相当の医薬品を国際機関を通じて北朝鮮に人道支援することには、過半数が「反対」と答えた」と、いうのですが……。実は私、かつて一度、無作為抽出と思われる朝日新聞の電話アンケートを受けたことがあります。今回もそれと同じだったとすると、「日本が25万トンの食糧や1000万ドル相当の医薬品を国際機関を通じて北朝鮮に人道支援することをどう思いますか?賛成ですか?反対ですか?」というように質問され、それに対して、半分以上の人が「反対です」と答えた、ということですかね?(いや、ちょっとは躊躇し、ためらったりしたのだ、と思いたいですが、そのためらいを映し出せない世論調査の仕方にもおそらく問題が大ありでしょう)。私たちは、顔が見えない人間に対しては、そんなにも冷たくなれるわけですね。拉致家族にあんなにも激しく同情した私たちは、「私は人道支援に反対します」と、堂々と言えてしまう、その程度しか「あちら側」の人間に対しては関心がないのです。こんなことを言うと、良識派ぶっている、とか、いい子ぶっている、と言われるんでしょうが。
 しかし、前から思っているのですが、「兵糧攻め」というのは兵法の一つであって、要は戦争の仕方の一つでしょう。しかも、今日の「経済制裁」は、大量の「非戦闘員」が死亡するわけだから、きわめて非人道的な大量破壊兵法、大量殺戮兵法だ。日本はこの大量殺戮兵法を使って、北朝鮮と事実上戦争しているわけです。しかし、それにしても「経済制裁」とは、そうしたことを覆い隠す、なんとイヤらしい言葉でしょうか。イラクについても、アメリカは悪いが、国連はいい、みたいに思っている人もいるようです。で、アメリカの侵攻以前に、湾岸戦争以来10年もつづいた「経済制裁」によって100万人とも言われるイラク人が死亡したにもかかわらず、そうしたことはアメリカ軍による爆撃以上に、ほとんど話題にならない。しかし、そのような非人道的大量殺戮兵法たる「経済制裁」にお墨付きを与えていたのが国連なわけです。

 というわけで、こんなものをいちいち相手にするのがバカだ、というのは重々承知の上で、日刊ゲンダイ5月25日3面

 山梨学院大教授の宮塚俊雄氏(朝鮮現代経済史)がこう言う。
「もともと破綻状態の北朝鮮経済ですが、02年7月から金正日総書記が始めた『経済改革』によってインフレが急ピッチで進行して大混乱しています。さらに90年代後半の大飢饉で、コメは恒常的に毎年100万〜200万トン不足。国民の不満は危険水位に達し、怒りは爆発寸前です。死に体の金正日体制が内部崩壊するためには、このまま日本を含む各国が断固、経済制裁を続けていれば時間の問題でした。それを『盗人に追い銭』同然の小泉内閣の食糧・医療品支援がカンフル剤となり、延命させてしまう可能性があります」(……)
(……)金正日体制の内部崩壊を持っていれば拉致問題も自動的に解決したはずだ。それを政治的野心で先延ばしさせた小泉の責任は極めて重い。


 なんと「勇ましい」こと。記事には「金正日のヤクザまがいの脅し」云々という表現もあるけど、この記事を書いている人たちは、親分を殺るために、平気で何十、何百万人のカタギの国民を飢え死にさせろって言うわけで、こりゃヤクザもビックリすね。
 こういうことを言うやつらの頭の中はどうなっているのだろうか?とも思うけど……いやまてよ、この人たちの言ってるのは正しいかもしれない。

 「(……)今回のコメ支援も特権層がヤミ市場に横流ししてひと儲けする道具に使われたり、幹部の胃袋に入って終わるのが関の山です。(……)瀕死の国民が救われる保障はあり得ません」(北朝鮮ウオッチャー)

 たしかに、無駄な支援で国民の税金が無駄遣いされるのは耐えられませんね。同じ日刊ゲンダイに載っていた記事ですが

 そんな自衛隊の《本業》は人道復興支援。水をサマワ住民に供給しているが、隊員550人のうち、実際に水を作っているのは10人程度にすぎない。
 1日に約150トンの水を生産しているのだが、半分は隊員の風呂や便所に費やされ、残り70トン程度が住民に提供されている。1リットルノミネラルウオーターで「7万本」分に当たるわけだ。
 が、実はサマワの商店街では1リットルのペットボトルが日本円で30円で売られている。30円×7万本だと、費用は210万円なり。サマワ陸自の年間予算はすでに350億円を超えようとしている。つまり、1日に1億円を費やして210万円の水をせっせっと作っていることになる。50倍以上の無駄な予算をかけて作る「黄金の水」である。


 一日一億円で210万円の水を作るのが「関の山」。フランスのNGOが八倍もの量の水をはるかに低コストで作っているというそんな「人道支援」こそ、まっさきにやめるべきでしょうね。

 いや、それにね、宮塚キョージュやゲンダイの言うとおり、破綻状態の経済、ヤクザまがいの独裁者、私腹を肥やす特権階層、そんなトンデモない国の体制を内部崩壊させるためには、悠長にまっているだけではだめだ。兵糧攻めでもして、国民の不満を危険水位にまで上げてやるほかはないでしょうね。このトンデモない国、すなわち日本の食糧自給率はたった40%。こんな国を締め上げるのは赤子の手をひねるより簡単だ。とにかく、イカれた独裁者に54%もの支持率を与えてしまうようなアホな国民にわからせるにはそのぐらいしないとね。
 ……うーん、むなしい。次回は、近況報告でもしてみますか(近日更新予定)。


■ 2004/05/08  

 『ダ・ヴィンチ』6月号、買いました。前から書いているように、目当ては、山岸凉子のマンガ「テレプシコーラ」です(先月休載だったのでひさしぶり)。で、これまた前も書きましたが、この雑誌、何というか、ぬる〜い雑誌で、正直いって、「テレプシコーラ」がなければ、購読することはなかったろうと思います(*1)。なんて、偉そうですね。すいません。とかなんとかいいながら、けっこう読んでいるんですけどね。もちろん中には面白いのもありますが、たいていは、惰性でなんとなく読んで終わり、という感じですかね(て何様ですかね、私)。というわけで、そんな、なんとなく読んでしまうものに吉崎宏人氏の『ご隠居サマと熊さんの ニュースの寺子屋』というコーナーがあります。「新聞、ニュースで騒いでいても、どうもイマイチ腑に落ちない。あんな事件にこんな事件、いったいどうして起きてるの?平成の床屋政談、『ニュースの寺子屋』」ということで、今回のテーマは、「回転ドアや遊具による相次ぐ子供の事故。あるいはイラク人質事件から「安全」について考える」だそうです。で、そのイラク人質事件に関したところです。

熊さん「安全といえば、イラクの人質事件はどう思います。『個人の安全』に、『国家』てえものが絡んできますが」
ご隠居「ペルーのテロリストによる日本大使公邸占拠事件を覚えてるだろう」
熊さん「人質は15人。ペルー政府は150人の特殊部隊を送り込みました」
ご隠居「兵士2名、人質1名が犠牲となったが、ペルー政府は5人の犠牲者までを計算していたから、政府としては作戦は成功だった」
熊さん「犠牲者が出ているのに?」
ご隠居「この場合、個人の安全と、社会の安全はトレード・オフの関係にあるということだね」
熊さん「じゃ、今回のイラク人質事件の場合はなおさら……」
ご隠居「危険だという警告にも拘わらず、危険も想定しながら自らの意思で現地に残ったという意味では、仮に最悪の結果でも致し方なかった」
熊さん「是非はともかく、自分の安全最優先なら近づくなと」
(……)
ご隠居「ある大学の先生が言っていたけど、これは『身体性』の問題とも関係あるらしいよ。危険な場所や人物に近づいたとき、人間は本来『ヤな感じだな』というのを身体で感じたものだ」
熊さん「その感覚が鈍っている、と」
ご隠居「そういうすき間に、犯罪がやすやすと忍び込んできたりする」(『ダ・ヴィンチ』2004年6月号 p.138.)


 ……ま、この程度のものにいちいち目くじらをたてていたらきりがないので、放っておくのが一番なのですが、ケーススタディとして興味深い点もあるので取り上げさせていただきます(だから何様だ>俺)。
 小泉首相は「自分たちの目的達成のために全く関係ない市民、国民を殺戮して平然としている」のがテロリストだと国会で語ったそうです。てことは、「自分の安全最優先なら近づくな」という吉崎氏の意見に従えば、ファルージャで子供も含むイラクの市民、国民を700人も殺戮して平然としているこんな危険なテロリストの国、アメリカは、真っ先に渡航禁止にでもしなきゃいかんことになりますね。そうそう、マイケル・ムーアの『ボーリング・フォー・コロンバイン』によると、アメリカの銃による死亡者数は年間11,127人(ドイツ381人、フランス255人、カナダ165人、イギリス68人、オーストラリア65人、日本39人)。こんな国に行こうという人は、自己責任なのだから、強盗に撃たれて殺されても助けを求めたり、文句をいったりしないことですね。しかし、「危険な場所に近づくな」と言われたって、逃げる場所のない場合はどうするのでしょうか。自分の家に武装集団、テロリストたちが襲ってきて、狙撃されたり、クラスター爆弾を落とされたりする。それは、「最悪の結果」でなくてなんだろう、と思いますが、そんな中、イラクの市民、国民は、「個人の安全」を省みずに、「社会の安全」を守るために「テロとの戦い」に立ち上がった。ところが、吉崎氏の目には、どういわけか、彼らは「危険なテロリスト」にしか見えないようです。ペルーの日本大使公邸占拠事件については、ずっと前書いたことがあるのですが、このとき、「ペルーのテロリスト」フジモリ大統領は、人質を一人も傷つけなかったMRTAの兵士を、投降して無抵抗なものをも含めて、14人全員皆殺しにさせました。ところが、やはり吉崎氏の目には、この14人は単なる「テロリスト」にしか見えないらしく、その死は、「犠牲」の数には入らないらしい。……ま、いいでしょう。こんな風に思っている人はめずらしくもないわけで。ただ、それだけに、ご隠居気取りでしたり顔、てところが、とてつもなくサムい恥さらしになってますね。もちろん私もサムいはずした文章を書くことでは人のことは言えないわけで、気を付けなきゃ、と思いました(結局最後まで偉そうですいません)。それにしても、最後に「身体性」の話を持ってきているところが、これまた皮肉がきいています。まったく、こんな文章を書いてしまうというのは、まさしく「身体性」の問題ですね。やすやすと馴致されてしまっている身体が「身体感覚が鈍っている」と警告を発しているという皮肉。それこそ「そういうすき間に権力はやすやすと忍び込んできたりする」ので、気を付けないと。
 さて、もう一つ、『ダ・ヴィンチ』からの話題。こちらは、意外と(<やっぱ偉そうだ)面白いなあ、と毎回読んでいる藤野美奈子氏の連載「みなっちの失恋反省会」。これは、藤野美奈子氏が、自身の体験もおりまぜつつの恋愛話をするエッセイマンガです。今回みなっちは、母親に「どーしてあんなしょーもないお父さんと結婚したの?」と訊ねたときのことを描いています。洗濯物をたたみながら母親はこんなふうにうち明けます。「かあさん5人ほどお見合いしてね あんたのおじいちゃんが決めたの 父さんにしろって 昔は親の言うことは絶対だったからね」その5人の内訳は、「高校教師、公務員、大病院内科医、まあまあでかい和菓子屋の息子、サラリーマン」なのですが、かあさんは、3人目(大病院内科医)がいい、と思いながらも、おじいちゃん(父親)のアドバイスにしたがって5人目(サラリーマン)と結婚したわけです。ところが、結婚して3年目、おじいちゃんは、かあさんをこっそり部屋に呼び「すまん ワシの目が狂っとった やっぱり三番目がよかった」と頭を下げるのです(家族にいっさい頭を下げたことのないおじいちゃんだったとのこと)。「でも5番目にも少しはいいとこあったんでしょ?」と問いただすみなっちに、かあさんは、結婚生活を続けるほどにお父さんの人間の器の小ささが明らかになった、と救いがないことを言うのです。で、引用した次のシーンに続くのです。

(『ダ・ヴィンチ』2004年6月号 p.59.)
 もしや熟年離婚、と心配するみなっちに「ばかね、人生トータルよ」「最後に笑ってポックリいくんが勝ちなんよ」と器の大きさを見せるかあさん、というのがオチなのですが、私が注目したいのは、「テレビの筑紫哲也にバカみたいにくってかかる」てところなのです。このマンガ、どの程度実話に基づいているのかわかりませんが、この「筑紫哲也」ていうのが、すごくリアリティがあるのです。器の小さいお父さんがくってかかるのは、「小泉」でも「石原」でもなく、なんといっても「筑紫哲也」でしょう。このお父さんは、確実に「朝日新聞」も敵視しているでしょうね。これ、案外根の深い問題ではないか、とも思うのです。なぜお父さんは筑紫哲也が嫌いなのか。お父さん、こう言ってはなんですが、絵に描いたような、「負け組」ではないでしょうか。「高校教師、公務員、大病院内科医、まあまあでかい和菓子屋の息子」に軒並み破れた、しがないサラリーマン。かあさんと結婚できたのかもしれないが、それも失敗だったと言われ、かあさんには人間の器が小さいとバカにされ、娘には「しょーもないお父さん」とバカにされ……。そうしたやり場のないうっぷんのはけ口が、テレビの筑紫哲也に向けられる。しかし、なぜお父さんは、筑紫哲也にバカにされている、と思うのか……小泉や石原を応援してしまうのか。小泉の言う「痛みをともなう構造改革」とやらは、また、小泉が尻尾をふるアメリカが輸出しているグローバリズムなるものは、勝ち組がますます勝ち、負け組がますます負けるような社会を作りだすのではないか。「負け組」が、「自己責任だから仕方ない」と切り捨てられる世の中を作り出すのではないか(*2)。
 誤解されないように言っておきますが、私も、筑紫哲也も朝日新聞も、大嫌いですよ。ですが小泉も嫌いだ。ところが、なぜお父さんたちはあんなにも小泉にやさしいのか。と、いうわけで、今日は、90年前に書かれた大杉榮の文章で終わります。(ちょっとベタですが)。

 夜なかに、ふと目をあけてみると、俺は妙なところにいた。
 目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖を造っているのだ。
 俺のすぐ傍にいる奴が、かなり長く延びた鎖を、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端を隣りの奴に渡した。隣りの奴は、またこれを長く延ばして、自分のからだに一とまき巻きつけて、その端をさらに向うの隣りの奴に渡した。その間に初めの奴は横の奴から鎖を受取って、前と同じようにそれを延ばして、自分のからだに巻きつけて、またその反対の横の方の奴にその端を渡している。みんなして、こんなふうに、同じことを繰返し繰返して、しかも、それが目まぐるしいほどの早さで行われている。
 もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている。みんなの顔には何の苦もなさそうだ。むしろ喜んでやっているようにも見える。
 しかしそうばかりでもないようだ。俺のいるところから十人ばかり向うの奴が、何か大きな声を出して、その鎖の端をほおり投げた。するとその傍に、やっぱりからだ中鎖を巻きつけて立っている奴が、ずかずかとそいつのところへ行って、持っていた太い棍棒で、三つ四つ殴りつけた。近くにいたみんなはときの声をあげて、喜び叫んだ。前の奴は泣きながらまた鎖の端を拾い取って、小さな輪を造っては嵌《は》め、造っては嵌めしている。そしていつの間にか、そいつの涙も乾いてしまった。
 またところどころには、やっぱりからだ中鎖を巻きつけた、しかしみんなに較べると多少風采のいい奴が立っていて、何だか蓄音器のような黄色な声を出して、のべつにしゃべり立てている。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである、」というような意味のことを、難しい言葉や難しい理窟をならべて、述べ立てている。みんなは感心したふうで聴いている。
 そしてこの広い野原のような工場の真ん中に、すばらしい立派ななりをした、多分はこの工場の主人一族とも思われる奴等が、ソファの上に横になって、葉巻か何かくゆらしている。その煙の輪が、時々職工の顔の前に、ふわりふわりと飛んで来て、あたりのみんなをいやというほどむせさせる。(大杉榮「鎖工場」(1913)より)


 著作権が切れているので、原文が青空文庫で読めます。こちら
*1 巨大掲示板の山岸スレを見ても、立ち読みしている、という人が多いみたいです。
*2 「自己責任」と新自由主義、グローバリズムについては、toku氏の遅ればせの革命4月26日をぜひお読み下さい。



■ 2004/05/02  

 イラク人質問題について追加。あまり大したことは書けませんが、ちょっと。
 人質や家族へのバッシング、費用請求など、ひどいものでした。これがいかにむちゃくちゃか、というのは、理屈でははっきりしているわけで、あらためて言うまでもありません。その辺は朝日新聞で高橋源一郎が書いていたとおりです(19日夕刊「どこかの国の人質問題」)。が、言うまでもなく、こうしたバッシングは理屈の問題ではないのですよね。何かというとサルトルを引き合いに出してしまうのは、単に私のネタの貧困さを明らかにしているだけなので、恥ずかしいのですが、どうしても私はサルトルの『ユダヤ人』(*1)を思い出してしまいます。

[反ユダヤ主義は]思想とは全然別物である。むしろ、情熱である。たしかに、それは論理的な形をとってあらわれることも出来る。「穏健」な反ユダヤ主義者とは、落ち着き払った調子で、こんなことを言える物腰の柔らかい男でもあろう。
 「わたしは、なにも、ユダヤ人を毛嫌いしているわけではありません。ただ、かくかくの理由により、国家活動における彼等の領域が、制限されていた方がいいと思うだけなのです。」しかし、彼はそのすぐあとで、こちらが信用出来そうだと思えば、更に打ちとけた調子でつけ加えるだろう。
 「おわかりでしょう、ユダヤ人には、『何かが』ありますよ。だから、わたしには生理的に堪えられないのです。」
 こうした理屈を聞くのは一度や二度ではないのだから、よく検討して見る必要があるだろう。先ず、これは感情的な論理から出発している。なぜかといえば、まさか、「トマトの中には、きっと『何かが』あるんですよ。だから、わたしは、あれを食べるのが大嫌いだ」などと、真面目に言う人があるとは、とても考えられないではないか。(サルトル著、安堂信也訳『ユダヤ人』岩波新書青版B79、1956年、p.5.)


 「おわかりでしょう、ああいう人たちには、『何か』がありますよ。だから、わたしには生理的に堪えられないのです。」この文の「ああいう人」には、人質家族、街頭でビラ配りするような人たち、デモに行くような人たち、市民運動なんかするような人たち……などを代入してみれば、よろしいかと思います。特に、最初の3人の人質家族の「態度」に、生理的不快感を刺激された人がずいぶんいたようです。不思議です。生理的不快感というなら、私はコイズミの顔の方が本当に気持ち悪くて見るに耐えないのだけど。テレビに映ったら即チャンネルを変える(*2)。昨日も新聞に載っていたコイズミの顔写真を見て逆上し、発作的に指パッチンで穴を開けました。
 それはともかく、人質、ないし人質家族への反感というのは、生理的、身体的なものらしいので、理屈で説得してもあまり意味はない。絶叫する家族、絶叫するデモ隊のシュプレヒコール、などに対して「ちょっとあれは引くよね」と言われたりする。この言葉はもともと「身を引く」というちょっとした身体的動作を現していたのでしょう。が、この、かすかな反射的動作が無数に集積し一点に向けられたとき、人質とその家族に向かうあのような恐るべき暴力が生まれたのでしょう。「引く」という身体的反応が、人質、家族、支援者、などの「態度」や「顔つき」など、それ自体身体的なものに起因しているらしいことは示唆的です。このような一節を思い出しました。ちょっと長いですが引用します。

 作家の辺見庸は、地下鉄サリン事件の現場に居合わせて、吐き気を抑えながら、倒れた人たちを地上に担ぎ出した。辺見は、死者一二人の中には数えられなかったが、約五〇〇〇人の重軽傷者の一人だった。彼は小説『ゆで卵』の中で、このとき遭遇した二通りの制度的な身体を描き出している。
 第一の制度的な身体は「元気な通勤者」である。大方の通勤者たちは、床にへたりこんでいる人たちに目もくれず、あるいは見ても顔をしかめるだけで、通路に投げ出された足をひょいひょいと跨いで、急ぎ足で改札口を目指した。人が倒れて苦しんでいてもその足はとまらなかった。何が起ころうと、役所や会社に遅れないこと。「定刻出勤」ということに制度化された身体が、地下鉄構内の「最大多数派」だった。辺見は言う。「こちらのほうが、へたりこんでいる人々よりも不気味で奇妙に見えた」。
 第二の制度的な身体は、ボランティアである。その若い男は、会社のバッジのほかに小鳥のバッジをスーツの襟につけていた。時期によっては、それに赤い羽根や緑の羽根がつけ加わるはずだ。若い男は、辺見の肩をポンポンと叩いて、よく通る明るい声で、この人たちを助けましょうよ、と言う。「世の中、お互い様ですから」。バッジ男は、いかにも手慣れた身のこなしできびきびと動き、通りがかりの通勤者に「おたくさんも、そっちのおたくさんも、ねえ見てないで、手伝ってくださいな、みんなお互い様なんだから」と呼びかけて数人を難なく参加させ、「おたくさん、そっちの肩持ち上げて」とか、「頭、頭が先で足はあと」などと「指示」して、何人かを効率よく地上に運び出した。辺見は、このボランティアとして制度化された身体が、緊急の場面で救助活動に果たした役割ないし機能を認めている。それでも、嫌な感じが残ることは打ち消しようもない。なぜだろうか。それはおそらく制度化された身体が人に強いるものを発散しているからである。「やるか」の一言ですむのに、「世の中、お互い様ですから」と言った過剰な自己言及性。人が逃れようもなく従ってしまう澱みない命令の言葉。「おたく」という不快な三人称的呼びかけ。そして人を統率する強制的な音頭取り。制度化された身体は、他の身体をシステムに取り込もうとして、パフォーマティヴィティを型にはめようとする。「嫌な感じ」は、制度化された身体が他の身体に強いる権力作用と、その権力性を被う「お互い様」との二重拘束に由来する。(栗原彬「模範的な身体」『越境する知1身体:よみがえる』東京大学出版会、2000年、pp.7-8.)


 「制度化された身体は、知の身体を欠くことによって権力システムに服従し、服従することによって支持する」と言う栗原氏は、続いてこう書いている。

 制度化された身体の裂け目は、「奇妙な感じ」や「嫌な感じ」である。苦しんでいる者を跨いで行き過ぎようとして一瞬よぎる自分への「嫌な感じ」。そして身体が立ち止まる。制度化された身体に何かが起こり始める。(同書、p.9.)

 確かにそうでしょう。そこから出発するしかないのでしょう。
 しかし、この「嫌な感じ」という身体的反応は、制度化された身体の裂け目ともなりうると同時に、身体の制度化の糧でもある。人質バッシングをした人々(第一の制度的身体を持つ人々)は、残念ながら、自分の身体への「嫌な感じ」を決して持とうとはしない。「ボランティアの身体」という、「ああいう人たち」つまり他者の身体への「嫌な感じ」を増幅させ、そのことによって自己の身体を正当性しているわけです。そう考えると、救いはなく、暗澹たる気持ちになってきます。
 事態はけっこう複雑です。栗原氏が言うような第二の制度的身体、ボランティアの身体への「嫌な感じ」、私も感じなくはない。なんなら、それを「反戦運動する身体」「デモに行く身体」「WEB日記で体制批判を書く口先だけの私の身体」への違和感に広げてもいいです。さらには、たとえば「デモに参加する身体」の中にも、裂け目はある。同じデモに参加した人が、このように言っていました。「デモはいいんだけど、シュプレヒコールって嫌い。ああいうことしてるから一般の人がデモに参加しずらいんじゃないかな」。私は、これにも強い違和感を感じます。が、今そういうややこしいことを言うと、暴力的な単純化の回路の中に入って、自己責任論とやらの嵐にエネルギーを与えてしまうだけのような気がするので、やめておきます。
 さて、人質や家族へのバッシングが、理屈ではなく感情の問題、すなわち身体の問題だ、という話ですが、再びサルトルに戻りましょう。サルトルは、反ユダヤ主義が身体レベルの問題だということを示すために次のような例をあげます。

[反ユダヤ主義は]たとえ、うわべは理性的論理によって表現されても、実は肉体的変化まで伴いかねないものなのである。ある人々は、今まで同衾していた女から、自分はユダヤ人だといわれると、急に、不能になってしまう。ある種の人々は、中国人や、黒人に対する嫌悪と同様、ユダヤ人に対する嫌悪がある。(サルトル『ユダヤ人』p.6.)

 だが、これにつづいて、サルトルはこう書いています。

 しかし、この反撥は、肉体から生まれるものではない。なぜなら、ユダヤ人の女を、その人種さえ知らなければ、平気で愛することが出来るのであるから。この反撥は、むしろ、精神から肉体へと進むのである。それは、魂の契約[アンガージュマン]なのである。ただ、それが非常に深く、非常に全体的であるため、生理的にまで拡がるのであり、ちょうどヒステリーと同様なことが起るわけである。(同)

 制度的な身体のあり方は、何も遺伝子によって決定されているわけではない。身体は「作られる」、いや、我々は身体を「作る」のです。サルトルはこう言います。

 反ユダヤ主義は、自己の自由な、そして総括的な選択の結果であり、単に、ユダヤ人に対してだけでなく、人類全体に対して、歴史と社会に対して、その人のとる一つの総合的な態度である。それは同時に情熱でも、世界観でもある。(同書 p.14.)

 サルトルの言う「選択」とは、意識的な、精神的なものだ、と思っている人が多いでしょうが、そうではありません。それは、「情熱」でもあるような、つまり身体化された「態度」であり「世界観」なのです。サルトルはこう言います。

「人は怒りに身を委ねる(On se met en cole`re)」のであることを思えば、われわれは、反ユダヤ主義者が、自ら選んで、感情的世界に生きることに決めたのだと考えざるを得ないのである。理性的生活より、むしろ感情的生活を選ぶということは、決して稀なことではない[……]反ユダヤ主義者は、憎悪を選んだのであるから、彼等が愛するのは、情熱の状態であると結論しなければならなくなる。

 これを読むと、「ほらみろ、サルトルはやはり主知主義だ」と言う人がいるでしょうが、それは逆なのです。サルトルは、精神を身体の上に置いたのではない。むしろ、サルトルが強調しているのは、「精神とは身体化されてしか存在しえない」ということなものなのです。(*3)
 そのへんの話をしはじめるときりがないのでこのへんでやめます(てもう十分長くなってますが)。さて、では、なぜ人はそのような情熱に身を委ねるのか、つまり、情熱的なものとして自らを作るのか。サルトルはこう説明します。

 だが、どうして一体、誤った論理の方を選ぶことが出来るのだろうか。それは、人間に、不浸透性に対する郷愁があるからである。[……]石のような不変性にひかれる人々がある。重厚で、踏み込む隙を与えず、変化を嫌う。変化などしたら、どうなることかわからないと考える。それは、自己に対する生まれつきの恐怖であり、真理に対する恐れである。しかも、そういう人々をふるえ上がらせるのは、真理の内容ではない。そんなものは、考えて見ようともしない。[……]彼等は、一気に、しかも、今すぐ、完全に存在したがる。意見も、あとから身につけたものでなく、生まれつきのものであることを望む。また、理論を恐れるから、理論や研究が、従属的な役割しか持たぬような生活様式、既に見つかっているものしか探さず、既に出来上がっている自分以外の何物にもなろうとしないような生活様式を選ぶ。そして、それこそ情熱に外ならない。[……]反ユダヤ主義者は憎悪を選んだが、それは憎悪が一つの信仰だからである。それは、言葉と理性をはじめから無価値にすることを選んだことにもなるのである。(同書 p.17)

 私たちは、「ああいう人」とは違う。「まっとうな」「ふつうの」「健全な」日本人、社会人、庶民だ、という、他者を遮断し、他者から身を「引く」身振り……によって、私たちは何を作ろうとしているのか……というと、それは他ならぬ「私たち」なるモノ、なわけです。「生まれつきの」「不変の」私、なんてものは存在しない。そのことへの不安、恐怖から逃れるために、人は「生まれつきの」「不変の」モノであるかのように自らを繕う(作ろう)。「人はアイデンティティを確立するために他者を差別する」というこの結論は、古典的な、というか手垢にまみれたありふれたものかもしれません。が、古くさい主張だから真理ではない、ということはない。スタンダード反社会学講座(*4)の「人間いいかげん史観」じゃないけど、人間なんて、時代が変わろうと、場所が変わろうと、そんなに変わらない。おっと、この言い方はまずい。ややこしいけど、こう言い直しておきます。「『人間は変わらない存在ではない』ということを認めたがらない存在である点において、人間は変わらない」。
 ええと、めちゃ長くなってしまいました(全然「ちょっと」じゃなくなっちゃった)が、最後もう少しサルトルを引用して終わりにしたいと思います。

 そうしてしまった今、彼はなんと安心なことだろう。ユダヤ人の権利についての議論などが、なんと無用にも、また、軽いものと思われることだろう。彼は、一気に、異なった次元に身を置きかえてしまったのだ。時に、ご愛嬌に、自分の立場を弁護することがあっても、別にそれに身をかけているわけではない。仮にそうして見ているだけである。議論の場に、自分の直感的確信を反映して見るだけである。今、わたしは、反ユダヤ主義者達の「言葉」をいくつか並べたが、それは、みんな馬鹿気ている。「わたしは、ユダヤ人が嫌いだ。なぜなら、召使いを無規律にするから」とか、「ユダヤ人の毛皮屋が、盗人同然だから」などなど。だが、反ユダヤ主義者達が、これらの返事の無意味なことに全く気づいていないと思ってはならない。彼等は、自分達の話が、軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼等はその話をもてあそんでいるのである。言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手の方で、彼等には、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話相手の真面目な調子の信用を失墜出来るから。彼等は不誠実であることに、快感を感じているのである。なぜなら、彼等にとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気を挫いたり、とまどいさせたりすることだからである。あまり、こちらが勢い良く攻めれば、彼等は、心を閉ざしてしまい、なにか見事な一語で、もはや議論の余地はないという。といっても、それは、彼等が、説き伏せられるのをこわがっているからではない。ただ、自分が、滑稽に見えるか、あるいは、自分の困惑が、味方に引きいれようとしている第三者に、まずい効果を与えることを恐れているにすぎないのである。(同書 pp.17-19.)

*1 大学一年のときに私が初めて読んだサルトルの本。一般教養の西洋史の授業(前沢先生)で、この本と、広河ルティ『私の中のユダヤ人』を選んでレポートを書いたのだった……。当時は、その後これほどまでサルトルに関わることになるとは思わなかった。この本は、戦後すぐにサルトルが資料も見ずに書いたものだということもあって、「サルトルはユダヤ人やユダヤ教についてまるでわかってない」などと後にずいぶんと批判されたのですが、ホロコーストについてもほとんど分かっていなかったような1946年の段階でサルトルはこれを書いたわけで、そうした批判はフェアではない。私はやっぱりこの本は名著だと思う。サルトルを読みたいという人はこの本をまず読むというのがいいのではないでしょうか。

*2 実は最近またちょっと見始めている。

*3 その意味で、サルトルは、フーコーやバトラーなどと大して違うことを言っていない、と私は思うのです。「いや、『作られる』と『自らを作る』とでは全然違う」と言う人もいるのだろうけど……そうかなあ……。

*4 とても面白いのでご一読をおすすめします。こんど本になるそうです。

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