最近読んだマンガ

2004/02/28 さそうあきら『神童』

 最近、単行本を待ちきれない『テレプシコーラ』を読むために、掲載誌の『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)を読んでいます。が、この雑誌、『テレプシコーラ』以外、こう言ってはなんですが、ほとんど読むところがないなあ、という印象の雑誌です。しかし、呉智英の連載「マンガ狂につける薬」は、面白いです。呉智英氏については、かつて稚拙な批判を試みましたが、、マンガ読みとしては、ものすごい人だというのを認めざるをえません(量的にも、深さも)。私などは、逆立ちしても、いや、素っ裸で逆立ちしながら皿回しをしたって、かなわないのです。というわけで、毎回、同じテーマでマンガと非マンガ本を一冊ずつ紹介し(選択はメジャーからマイナーまで多岐にわたる)作品を論じながら思想も論じる、というこの連載、面白いし、参考になります。もちろん「革新派・人権派」知識人なるものへの極めて執念深い当てこすり、というこの人の基本的芸風は、「もういいよ、わかったよ」とうんざりすることもしばしばなんですけど。
 で、この連載の単行本化(2冊目)『マンガ狂につける薬21』(ダ・ビヴィンチブックス、2002年4月)第14章で取り上げられているのが、さそうあきらのピアノマンガ『神童』です。この呉本を読んだ時、私はまだ『神童』は未読だったのですが、呉氏の紹介を読んで、「これは大変面白そうだ、是非読みたい」と思ったのでした。というわけで、『のだめカンタービレ』(以下『のだめ』)『ピアノの森』(以下『森』)と読んできましたが、呉氏の評論を読んで以来、勝手にピアノマンガの「本命」と決めて期待していた『神童』、ついに読みました。結果は……なるほど。期待は裏切られませんでした。連載時から評価が高く、1999年に手塚治虫文化賞を受賞した、というのもうなずけます。というか、『のだめ』も『森』も『神童』以後の作品なので、両作品とも『神童』の影響を受けているのかもしれない。『神童』のコメディー部分を『のだめ』が、スポ根部分を『森』が発展させた、と言えるかも? でも、好みによって違うでしょうが、私のランキングとしては、『神童』>『のだめ』>>>『森』という感じです。個性的な絵もとてもいいし、キャラクターの描き方もすばらしい。呉氏はこう言っています。

 物語の一本の経糸は、少女と青年の恋愛である。凡庸な才能しかない音大生の青年に、美しく勝ち気な小学校五年生の天才少女ピアニストが恋をする。彼女が音大生に会った頃は、まだ初潮さえ迎えていない。
 この恋愛物語に、五十歳を過ぎたオッサンである私が、つい感情移入をしてしまうのだ。誤解のないように言っておく。私にロリ・コン趣味はない(熟女が好き)。(……)私が『神童』を読みながら感情移入したのは、音大生の青年ではなく、彼に恋をする小学生の少女の方である。読み進むうちに私は小学生の少女になりきり、凡庸な音大生に恋をしていたのだ。
 ある日、少女は自分の中に湧き上がる不思議な感情が恋だと気づく。その夜、彼女は初潮を迎える。このシーンで、私は思わず自分の股間を押さえた。むろん、私に初潮が来るはずもない。それなのに、思わずそうしてしまうほど、この少女の気持ちに没入したのである。
 年齢も性別も越えて、小学生の少女と自分を二重写しにさせてしまう。こんな作品はめったにあるものではない。(『マンガ狂につける薬21』66〜7ページ)


 これは別に、呉氏が、自分がロリコン(ちなみに、上記引用の「ロリ・コン」という表記は原文のママです)ではないことの言い訳に書いている、というわけでもなく、たしかに私もそう思います。微妙な少女の自意識をうまく表現していて(特に前半)、読んでいてせつない気持ちにもなります。といって、独特の「素っ気ないまでに白々と乾いた絵」(呉)でコミカルなストーリーがテンポよく進むので、決して湿っぽくはない。まあ、上の引用の「初潮」ていうところだけ見ると、ちょっと陳腐にも見え、斎藤美奈子あたりに「それがかえってオヤジ好みということなのだ」などと嘲笑されそうですけど。
------------------
 と、いうわけでなかなか面白いマンガだったのですが、ちょっとここからは、マンガそのものの評価とは離れた話題に入ってみたいのです。といってもこの話題、はじめると長くなってしまうのですが、なるべく手短にまとめたいと思います。
 ええと、『神童』は、『森』よりも説得力があるとはいえ、やはり主人公の天才ぶりがかなり誇張されて描かれています。その描き方も似ている部分があって、それは「どんなボロいピアノも、主人公が弾くと凡才とまったく違うすばらしいが出て、それは一音出しただけで分かる」というものです。しかし、こういう「が良い、悪い」という評価の仕方、やっぱりクラシック音楽ならではだな、と私は思ってしまうのです。いうまでもなく、クラシックの場合、演奏の優劣の評価において、「旋律の良さ」よりも「音の良さ」のしめる割合がジャズよりも高くなることは当然です。クラシックの場合、同じ曲を演奏する、とは、(原則的に)まったく同じ旋律が演奏される、ということです。したがって、簡単に言えば、演奏会に行って「この曲(旋律)いいね」などと言うのは、つまりその曲を初めて聴いた初心者だ、ということであり、クラシック鑑賞の通になる、ということは、何十回、何百回と聴いたあのバッハやモーツァルトをまた聴いて「この演奏者の音はいいね」などと言えるようになる、ということです。たとえば、たまたま目に留まった新聞文化欄のコンサート評を引用してみます。

バッハの優れた録音で注目を集めているカナダのピアニスト、アンジェラ・ヒューイット。(……)彼女の演奏は、その陰影づけの驚異的な技術の点で、極めて現代的だ。音の立ち上がりや弱音の繊細きわまりない瞬間的コントロールは、「ミニマルな超絶技巧」とでもよぶべき域に達している。しかも彼女の演奏には、こうした響きの陰影に凝る演奏家にありがちな息苦しさが全くなく、常に風通しがよい。ベートーヴェンはロココ風のやや柔弱すぎるものになってしまった。(……)チェンバロによるノンレガートのバッハから出発するグールドに対し、鍵盤との密着感や微細な弦のふるえにこだわる彼女は(……)(2004年2月26日朝日新聞夕刊東京版16面、岡田暁生「ヒューイットのピアノリサイタル―マッチョを浄化する清冽―」)

 ……う、うーむ……岡田さんにもヒューイットさんにもなんら恨みはありませんが、なんていうか、こういうのにはどうもなじめません。「響きの陰影に凝る」「鍵盤との密着感」「マッチョを浄化する清冽」……こういってはなんですが、評論ていうか、ほとんどポエム、という感じがしてしまう。
 さて、それに対して、ジャズの演奏の場合、同じ曲を演奏しても、少なくともアドリブの部分は演奏者によってまったく違う旋律が演奏される。というわけで、ジャズの演奏を鑑賞する場合、「音」とか「響き」とかいったものへの着目の他に、「この演奏者のアドリブの旋律はいい」という聴き方ができるはずなのです。ところが、案外そうでもないのです。ジャズの場合でも、ちょっと通になると、やっぱりみんな「音」だの「響き」だの、言いがちです。「誰々はやっぱりが違う」とか。ジャズピアノについてもいわれますが、音の違いがもっと顕著な管楽器など他の楽器だともっと言われます。で、私としては、ジャズについて音だの響きだのばかりを云々する批評(いい楽器の音、良い演奏者の音、良い録音技師の音、はたまた良いオーディオの音)を聞くと、「なんだよ、音、音って……ジャズはアドリブのフレーズでなんぼだろう」と、愚痴りたくなってしまうのです。たぶんこの愚痴を理解してくれる人、少なくとも私のまわりにはほとんどいないと思うのですが、がんばってもう少し続けますので我慢してください。
 いや、私とて、優れた音楽が優れているゆえんの重要な要素として、「音や響きのよさ」があることを認めるのにやぶさかではないのです。が、いくらいい音でも、演奏された旋律が良くなければ、良い音楽にはならない。こう言ってしまえば当たり前のことなんですが、しかし、どうもジャズ演奏の評価において、あまりにも「音」が偏重され、「旋律」が軽視されているように、私には思えるのです。すごく乱暴な意見ですが、あえて言いますと、アドリブのフレーズを分節化して聞き分けることをしない(できない)人、つまりフレーズの良さを判断できない人が、結構いるんではないか、で、そう言う人が、アドリブを評価しようとするとき、「音の良さ」という判断基準に逃げ込んでいる面があるのではないか。つまり、テーマのメロディーはわかるんだけど(だから「良い曲だ」ということはさかんに言われる)アドリブに入ると、何を弾いているか分からなくなる人、というのが結構いて、そう言う人が、アドリブの部分を全体的印象で評価して「いい音だ」とか「いい響きだ」とか言いがち……と、そういう面があるのではなかろうか。しかし、「音や響きの良さ」というのは、基準があいまいな部分があるので、なんというか、結局精神論みたいなものになりがちだと思うのです。「誰々はものすごく練習したからあの音が出た」とか「誰々は天才だからあの音が出る」とか。こういうことを言うと、「いや、お前こそ音の良さを聞き分ける耳をもっていないから、そういうことを言うのだ」と言われそうなんですがね……。
 で、こっから書くことで分かるように、私の愚痴が、一アマチュアジャズピアニストの単なる個人的なルサンチマンに基づくまさしく「愚痴」であることはあきらかなのですが、ええと、「音だ響きだ」ていうんだったら何かい? 私のように、デジタルピアノしか家に置けず、しかもさいきんそのタッチセンサーが調子悪いので、まんなか辺のGの音が異常に大きい音が出てしまう(弾きにくくてしょうがない)というような環境で練習せざるを得ないような人間、はたまた、ライブっていってもろくに調律してないアップライトがあればまだましで、ピアノすらない、ていうところがほとんど(しかたないのでデジピを使う)というような人間は、いくら練習したって所詮良い音楽はできない、てことかい? 音楽ってのは、防音室とグランドピアノがあるブルジョアの専有物かい? つまり、クラシック音楽のエリート主義、そしてそのクラシック的エリート主義の悪影響を受けたジャズの聴き方が、気にくわない。というわけで、私がどうしてもキース・ジャレットが好きになれないのはまさにそこです。たしかに才能あるのは認めるけど、ツアーの時に自分のピアノを空輸するだの、おかかえ調律師が随行するだの、音がうるさい、とコンサート会場の空調を止めさせただの※……あー、せからしかあ!! で、それをまたありがたがって「さすがキース様の音は、響きは、すばらしい」などとうっとりしてる人々……せからしかあ!! 50年代ぐらいまでのジャズなんて、一流演奏家の名盤といわれているやつですら、調律がちょっと狂ってたりすることはめずらしくない。しかし、それでもかっこいい音楽ができるのが、ジャズのよさではないか……。などと、私は思ってしまうのですが……。ええと、これでもまだ良い足りないこともあるのですが、それはまたの機会にということで。

※ええと、これ、あくまで噂レベルの話なんで……実際は、さすがにピアノ空輸はしてないみたいです(でも「したことがある」てきいたような気もしますが……)。調律師随行と、空調は、ホントなんじゃないですかね、たしか。