2003/03/04 (前回 02/28)

 一眼レフ用のリモートスイッチ(レリーズ)を買いました。昨日のことです。これです。

レリーズ   ジャック

 右の写真のように、コードの先端のプラグをカメラの側面にあるジャックに挿して使用します。さて、さっそくカメラに装着して使ってみたのですが、スイッチのお尻にアナが開いていることに気が付き、これは一体なんだろう、と気になりました。
お尻

 ……お尻のアナ……て、そういうことじゃなく、いや、そうって言えばそうなんですが。ちょうど、カメラ側面のジャックと同じぐらいの大きさのアナです。あ、そうか、ていうことは、コードの長さが足りないときにもう一個スイッチをつないで延長できるようになってるんだな……んなわけないだろ(<いわゆるツッコミ) などと思いながら、さっそくリモートスイッチを使って何枚か写真をとりました。
 さて、今日になり、スイッチの箱を捨てようとした私は、箱の中に入っていた説明書を何気なく見ました。すると、こんな図が載っているではありませんか。
図   収納

 なるほど! あのお尻のアナは、カメラ側面のジャックをふさいで保護していたプラスチックの蓋、つまりコレ
図2

をなくさないようにくっつけておくアナだったのか。つまりボールペンのキャップをお尻に挿すような案配ですな。さらには、スイッチを使わない時には、コードを巻いて、プラグをここに挿しておけばいいんだ。ついでに、もう一つの謎だったスイッチ側面にある溝も、巻き付けたコードをはさむためのものだということがわかりました。なるほど!!これは便利だ。やるじゃんねすかへ!じゃなくてきゃのん! あー、すっきりした……………で、これこれ……すでにないんですけど Σ(゜□゜; 
 あー、説明書見るの一瞬遅かったなあ。ていうかなくすの早すぎ。最初にプラスチックの蓋をはずすとき「あー、これ、こんなちっちゃいの絶対すぐなくすぞ」と思った、ということだけは鮮明に覚えています。
 ま、ジャックの蓋がなくてもどうってことないでしょ。ていうか、ずっとプラグ差しとけばいいんじゃんΣ(゜□゜;

2003/03/10 (前回 03/04)

 先週の土曜日(8日)、WORLD PEACE NOW 3.8(日比谷公園で集会>有楽町までデモ)、というのに行ってみました。そのことについて、あれこれ、言い訳、ないし分析のようなものをしてしまいそうになるのですが、それはやめて、純粋に見てきたことの報告だけしたいと思います。
 実は日比谷公園に行くのも初めてでした。池にカルガモがいました。世界各地での数十万、百万単位のイラク戦争反対デモが伝えられる中、日本で先月行われたデモの参加者はたった5000人だったのですが、今回のデモは、結局主催者発表で4万人、ということで、近年にない大規模なデモになったようです。とにかく人が多くて、片側車線だけのデモだったので、予定では公園を3時半に出発のはずが、かなり後ろの方だったとはいえ、そもそも公園の外に出るまでに恐ろしく時間がかかりました。私が公園を出たのは結局5時すぎてました。有楽町についたのは6時半近く。その後ご飯を食べて店を出たらまだやっていて、しばらく観察していたら、最後尾がついたのは7時半でした。まあ、昔はもっとすごかったのかもしれないですが、最近にしてはなかなかだったのではないでしょうか。家族連れみたいな感じでついてきた子供も多そうでしたが、中には、自発的に参加したっぽい、大、高、中学生の男女もかなり見受けられました。私のまわりはそういう感じの若者がかなりいて、ちょっと恥ずかしかったのも事実です。「せんそうはんたい!」と大声をはりあげていた高校生(中学生?)ぐらいの男の子が、よく見ると迷彩柄の服に迷彩柄のバンダナだった、というのが、なんというか、ほほえましいというか……。信号待ちの時にたまたま横に止まったトラックや乗用車が、デモ隊にエールを送ってクラクションを鳴らし、デモ隊が盛り上がる、という心温まる(?)場面も何度か目撃しました。
 今回のデモは、一応、いままでデモに行ったことがないであろう人がかなり集まった、というのは事実なようです。そして、彼らの雰囲気にどことなく気恥ずかしさを感じたのも事実です。この気恥ずかしさはどこかで見たことがある……そうだ、ワールドカップだ……。実際、「せんそうはんたい」というシュプレヒコールにまじって「おーれーおれおれ……」という例のやつがわき起こる場面も目撃しました。顔に「NO WAR」などとペイントしている若者も見かけました。少し前、香山リカが、ワールドカップで日の丸を無邪気に振り回すような若者が続出したことを「プチ・ナショナリズム」と呼びましたが、するとこれは、「プチ・ナショナリズム」じゃなくて「プチ・反戦運動」でしょうか。どちらにもその根底には「群衆的一体感を感じて盛り上がりたい」という気持ちがあることは否定できないとおもいます……いや、それが良いとか悪いとかそういうことをいいたいわけではないのですが。いかんいかん、つらまらないことをしたり顔で語りそうになってしまった(ていうかもうやってしまった)。もうやめます。とりあえず、「プチ反戦運動」、「プチナショナリズム」に負けずがんばってほしいものだと思います(ていうか両方やってる人もいそうだけど)。
 しかし、状況はかなりやばいところまで来ている見たいですね。アメリカは何が何でも戦争をするのか。

2003/03/11 (前回 03/10)

 イラクでもっとも高級なアッラシード・ホテルの玄関には、湾岸戦争当時のアメリカ大統領、つまり父ブッシュのタイル張りの顔がはめ込まれていて、そこには「BUSH IS CRIMNAL」(ブッシュは犯罪者だ)と書かれているそうです。ホテルに入る客は否応無くブッシュの顔を踏んでゆかなければならない、というわけです(森住卓氏のホームページその写真が掲載されています)。
 ところで、60年前の日本でも、同じ様なことがやられていたようです。中沢啓治の『はだしのゲン』に、ゲン兄弟と母親が憲兵に呼び止められ、地面に書かれたルーズベルトとチャーチルの顔(顔の横には「鬼畜米国ルーズベルト、鬼畜英国チャーチル」と書かれています)を踏まされる場面が出てきます(注1)。「きさまたちはなぜあれをふんずけて通らない!あのにくき鬼畜米英の指導者をふんずけられないとは、きさまたち非国民だぞ」怒鳴る憲兵にしたがってゲンたちは顔をふんずけますが、後でゲンの母親はこう言っています。「あんなものをふんずけて戦争に勝てると思っているんだから情けないね」。(図は『はだしのゲン』第1巻127ページ)鬼畜米英
 最近、マンガ喫茶で『はだしのゲン』を読んだのでこんな話からはじめたのですが、といっても私は、フセインが支配するイラクの軍国主義は、戦前の日本の軍国主義と共通している、とかそのようなことをいいたいわけではありません。そもそもどちらも実際に体験したわけではない私には、何も言えません。しかし、1945年の日本と2003年のイラクに共通点があることも事実です。それは、どちらの国も、疲弊し、アメリカに対抗する力をほとんど失っているにも関わらず、圧倒的な戦力を持つアメリカ軍の攻撃を受け、多数の市民が殺戮された(されようとしている)、という点です。
 1945年7月、ベルリン郊外のポツダムでトルーマン・アメリカ大統領、チャーチル・イギリス首相、スターリン・ソ連首相が会談しました。会談ではドイツの戦後処理とともに日本についても話し合われ、7月26日、日本に対する共同宣言、ポツダム宣言が、米英中3国首脳の名で(注2)発表されました。宣言は、「日本軍国主義の駆逐」「日本国軍隊の完全武装解除」「日本の無条件降伏」などを含んでいました。7月28日、当時の日本首相鈴木貫太郎はこの宣言を「黙殺」すると言明しました。アメリカはそれを口実に、8月6日広島へ、8月9日長崎へ原子爆弾を投下しました。原子爆弾による死者は、広島長崎合わせて30万人を越えると考えられています。
 2003年3月、アメリカは、イラクが大量破壊兵器を隠し持っており、国連の査察に非協力的だ、ということを口実に、イラクへの攻撃を行おうとしています。その時に死ぬのはやはり多くの市民です。先日、アメリカの軍事関係者が、イラク攻撃について、開戦の初日に300発から400発のミサイルをイラクに撃ち込み、翌日も同じ数のミサイルを投入する、という作戦を明らかにしたそうです。集中的な大量破壊によってイラク側の戦意喪失を図るこの作戦について、この軍関係者は、それによって「ヒロシマのような効果」が期待できる、と言ったのだそうです。
 日本政府がこの発言に対して抗議したという話は聞きません。そして、日本政府は、アメリカが国連決議なしにイラク攻撃に踏み切った場合でも、アメリカの行動を支持する方針を固めたとのことです。小泉首相をはじめ、政府関係者は、しばしば「反戦の声が、イラクを、フセイン政権を利することになる」などと言います。アメリカに反対するということはイラクを支持するということだ、という発想、それは、アメリカの原爆投下を批判することは戦前の日本の軍国主義を免罪するということだ、というのと同じくらいバカげた発想です。
 いうまでもないですが、『はだしのゲン』のメッセージはそのような発想からまるで離れたところにあります。そもそも原爆は、作者中沢の父親(ゲンの父親のモデルでもあります)のような、軍国主義日本に反対していた人間をも殺したのです。中沢氏の父親は反戦活動を行ったため治安維持法違反として逮捕され、一年半留置場に拘置されています。中沢は小さいときから、日本がいかに無謀な戦争をしているか、と聞かされてそだったそうです。しかし、中沢氏が6歳の時、原爆が投下され、氏の弟と父親は、爆風で押しつぶされた家の下敷きになり、焼け死にました(お姉さんは一気に柱で押しつぶされ即死だったそうです)。物干し台にいて助かった中沢氏の母親の耳に、炎上する家の中から聞こえる、弟の「お母ちゃーん、熱い、熱いー!」と叫ぶ声と、父親の「キミヨー、何とか出来んのかー」と叫ぶ声が一生こびりつくことになったそうです。国民学校の壁によりそっていたため熱線の直撃を免れて助かった中沢氏は、その後、文字通りの地獄絵図を目の当たりにしました。「無謀な戦争を遂行させ原爆投下を招き寄せた日本の戦争指導者共と、平然と原爆を投下したアメリカは許せん」という激しい怒りが、中沢氏に『はだしのゲン』を書かせました。(注3)
 さて、中公版の『はだしのゲン』には、評論家呉智英氏が『はだしのゲン』について書いた「不条理な運命に抗して」という文章が収録されています。次回はこの呉氏の文章について書くことにします。

※『はだしのゲン』は中公文庫版などで読むことができます。この中公文庫版には、ダウンロードしてパソコンで読めるeBOOK版もあり、10daysbookからオンラインで販売されています。こちらで購入できます。読んだことがない方は、ぜひお読み下さい。

-------注
*1 『はだしのゲン』は一応フィクションですが、作者の中沢啓治の体験に基づいて書かれているので、おそらく実際にこのようなこともあったのでしょう。

*2 ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名しませんでした(8月8日の対日宣戦布告ののち署名)。そのかわり、待介石中華民国総統の同意を得た、という形で、米英中3国首脳の名で発表されました。

*3 さらにいえば、『はだしのゲン』は、「悪いのは国家であって、民衆はいつも正しい」というような発想をも逃れています。『はだしのゲン』は、「あんな非国民はしごかんといけんのだ」と父親を密告した町内会長、原爆のやけどを負った息子をバケモノ扱いして部屋に閉じこめている一家、原爆孤児をさらって悪事をはたらかせるヤクザ、等々に対するゲンの激しい怒りが描かれています。ゲンは許せない人々を殴り、おしっこをかけ、立ち去ります。

2003/03/13 (前回 03/11)

前回からのつづき)
 と、いうわけで、中公版の『はだしのゲン』に収録されている、呉智英氏が1996年に執筆した「不条理な運命に抗して」という文章なんですが、ある意味でいつもの呉智英節ともいえる文章で、それなりに面白いとも言え、いちいち反論したりするようなものではないのかもしれませんが、あえてちょっと私の考えを書いてみたいと思います。
 呉氏の文章は、『はだしのゲン』の解説として収録されているわけで、当然『はだしのゲン』を評価(というか称賛)する内容になっています。ただし、その評価の仕方は、例のごとくかなりひねくれています。氏は「長年、『はだしのゲン』を愛読し、そのすばらしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとして使っている」そうなのですが、同時に、『はだしのゲン』の評価がある「定説」に支配されていることを憂えています。その「定説」とは、「『はだしのゲン』は反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核を訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核の思想は正しい思想である」というものだ、と呉氏は言います。しかし、氏は、この定説の前提となっている「反戦反核の思想は正しい」ということに対して疑問をなげかけ、反戦反核という思想は「正しいとは言えず、かといってまちがっているとも言えない」と言います(*)。
 この部分、『はだしのゲン』にかこつけて自説を展開しているだけとも思えるし、その内容にも納得いかないのですが、しかし、氏が感じているらしい、『はだしのゲン』がいつも「反戦反核の思想」と結びつけられて評価され、また逆に批判されてしまう、ということにたいするもどかしさのようなものは、なんとなくわかるような気がします。氏はこう言います。

 そもそも、何かを訴えたマンガが、何かを訴えているが故に良いマンガという評価の仕方に疑問もある。こうした評価の仕方だと、そのマンガの訴えが誤っていたら、マンガ自体を否定しなければならなくなる。もっとも、マンガ自体が否定されてもしかたがないような作品もある。それは、訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガだ。政党や宗教団体の宣伝マンガが、その好例である。
  マンガにしろ、美術にしろ、文学にしろ、何かを訴えるということは評価の基準にならない。その訴えた何かが正しかったか、まちがっていたのかなど、本質的な問題ではない。反戦を訴えようが、逆に好戦を訴えようが、また、反戦も好戦もその他の何も訴えていなかろうが、良いマンガは良いのだし、良い美術は良い美術なのだし、良い文学は良い文学なのある。それよりも、人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ。「はだしのゲン」は、この意味においてこそまさしく傑作マンガである。


 この氏の主張には、基本的には賛成です。たしかに、『はだしのゲン』を評価する人の中に、このマンガを「マンガとして」評価せず、「正しい思想を描いているから」というだけで評価している人がいるのは事実なのでしょう。そういう人は、『はだしのゲン』を評価しているつもりでも、実は『はだしのゲン』を本当の意味で読んではおらず、それどころか、マンガという表現手段を実は心のどこかでバカにしている、という人も多いでしょう。しかし、『はだしのゲン』は、「反戦を訴えているから」傑作なのではなく、「マンガとして」傑作なのだ。その通りです。……が、呉氏の次のように言うとき、私は「それは違うのではないか」と反射的に感じました。

『はだしのゲン』の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、『はだしのゲン』は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。

 さて。呉氏の言う、「稚拙な政治的言葉」とは、次のようなもののことでしょうか?

「戦争はわしらを不幸にするばっかりだ 日本は武力ではなく平和の道にすすまんといけん……わしはそう信じているんだ」(『はだしのゲン』eBOOK版第1巻40頁)

「ばかたれっ 朝鮮の人をばかにするようなことをいうなっ」「だ、だってみんないうとるぞ、朝鮮人や中国人はばかだって」「だまされるんじゃない! 戦争をはじめた日本のオエラ方がばかだとおしえこんだんだ。日本人がすぐれていて朝鮮人や中国人はばかでダメな人間だとな。よその国の人間はみんなだめで鬼みたいなやつだとおしえ……弱い相手だから日本は戦争に勝てるとしんじさせるためだ(……)おまえたちはだまされるんじゃないぞ。朝鮮の人や中国の人みんなと仲よくするんだ。それが戦争をふせぐたったひとつの道だ。軍人が政治の権力をにぎると軍国主義の暗いおそろしい世の中になるんだ。」(eBOOK版第1巻79-80頁)

「いつの世でもひとにぎりの権力者のために戦争で死んでいくのは名もない弱い国民だ……。」(eBOOK版第2巻109ページ)


 まず第一に、私は、呉氏の「稚拙」という言葉使いにずるさを感じます。ある政治的言葉が「稚拙」かどうかは、いったい何を基準にして決まるのでしょうか。また仮に『ゲン』の政治的言説が「稚拙」だったとして、それはその言説の正しさとは関係のないことです。こう言うと、「ほらお前は思想の『正しさ』にとらわれている」と言われそうですが、いや、私の言いたいのはそういうことではないのです。私が問題にしたいのは、むしろ、呉氏がさらに、その「稚拙」な政治的言説を「作者の訴えと単純に解釈してはならない」と言っている部分なのです。どうしてそのようなことが呉氏に断言できるのか、不思議です。むしろ、『ゲン』の政治的言説が作者中沢啓治の訴え「ではない」などと、どうして言えるでしょうか。
 中沢啓治はすばらしいマンガ家なのだが、ところどころイデオロギーに影響されて「稚拙な」政治的言葉を書いてしまっている。が、そういうところは気にせずに、人間を描いた傑作として『はだしのゲン』を読め、と呉氏はおそらくそういいたいのでしょう。彼はこう言っています。

素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない 中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。

 だが、私はこう思うのです。たとえ「稚拙」であろうと、「とってつけた」ように見えようと、『はだしのゲン』の中に見られる「政治的言葉」は、まぎれもなく作者中沢氏の言葉だったのであり、彼が心から訴えたかったことだったのではないか、と。そして、その「政治的言葉」は、一個のマンガ作品としての『はだしのゲン』、そしてそのすばらしさと決して切り離すことができないものなのではないか、と。呉氏は「政党や宗教団体の宣伝マンガ」を貶めて「訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガ」といい、『はだしのゲン』はそのようなマンガとは違う、と主張していました。しかし、私は、「訴えを除いてしまったら何も残らない」ということは、『はだしのゲン』にも、別の意味でやはりまさしく当てはまると思います。「稚拙」であろうとなんであろうと、反戦反核の「訴え」を取り除いた『はだしのゲン』は、もはや『はだしのゲン』ではありません。というのは、反戦反核の思想は、『はだしのゲン』という一個の作品を構成する不可欠な一部分だからです。
 『はだしのゲン』のマンガ表現が、政治の言葉に付随する単なる挿し絵にすぎないと考える人がいたら、それは、『はだしのゲン』に対する冒涜だ、と言いたくなります。が、逆に、『はだしのゲン』にみられる政治の言葉が、マンガ表現としての傑作に付随するとるにたらないものだと考える人に対しては、やはりそれも『はだしのゲン』に対する冒涜ではないか、と言いたくなります。『はだしのゲン』に見られる政治の言葉は、卓越したマンガ表現と結びついているからこそ訴える力をもつのだし、また逆に、『はだしのゲン』というすばらしいマンガ表現は、反戦反核の「訴え」と結びつくことによってはじめて輝きを得るようなものだと思います。「思想」と「表現」が分かち難く結びついた一個の作品が、傑作『はだしのゲン』なのであって、その意味では、マンガは思想の挿し絵だと思っている読み手と、思想はマンガの夾雑物だと主張する呉氏は、思想と表現を切り離しているかぎり同じアナのムジナであると思います。
 ところで、呉氏はこう言っています。

 私は他の場所で書いたことがある。『はだしのゲン』は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。二種類の政治屋とは、『はだしのゲン』は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。

 たしかにそうかもしれません。が、私は上の文章に、『はだしのゲン』を誤解した三種類めの政治屋、というのを付け加えたい気分です。すなわち、「『はだしのゲン』のすばらしさは反戦反核の訴えとは無関係だと主張する政治屋」つまり呉氏自身です。
 おそらく、呉氏のことなので、私ごときのこのような「稚拙な」反論は十分想定ずみだと思います。そうしたことをすべて見越した上で、あえて『はだしのゲン』の解説を書き、いわば「褒め殺し」を行う、という政治的魂胆が呉氏にはあったのではないか、というのは勘ぐりすぎでしょうか……。

※呉氏の文章は、中公愛蔵版『はだしのゲン』第三巻巻末を参照しました。

--------注
* 氏の議論はこうです。冷戦においてまがりなりにも平和が保たれていたのは、そもそも、核均衡理論という、「観念的な平和主義や核アレルギーとは違ったリアルな軍事観・政治観」があったからだ。だが同時に、核均衡理論自体が、観念的な平和主義や核アレルギーの広汎な存在がなければ成立しない理論だった。「もし、核兵器が恐ろしくないという誤解が広まったら、いつ戦争が始まったかわからない。核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡理論を支えているのである。」
 まともに相手をするべきではないのかもしれませんが、ちょっと稚拙な反論を試みてみます。まず、そもそも「均衡」という言葉そのものが欺瞞ではないでしょうか。米ソの双方は、常に均衡を破ろうと軍拡競争を行っていたわけですから。それがあとづけ的に「均衡理論」だの「抑止理論」だのと呼ばれただけです。また、平和主義が核均衡理論を支えていたなどというのはまったく嘘で、米ソの指導者たちの、報復、つまり自国が攻撃されることに対する単なる恐怖は、「平和主義」とかけらも関係がないと思います(報復がなければ戦争を起こそうとすることのどこが「平和」主義でしょうか)。

2003/03/16 (前回 03/13) Have You Met Miss Jones?

 ノラ・ジョーンズって、たぶん今ジャズのCDの一番売れ筋、みたいな感じで、CDやさんのジャズのコーナーに行くといっぱいならんでいたりするのですが(なんか、グラミー賞をとったとかどうとか)、そういうのを買うのは何か恥ずかしい、というか、そういうのに対しては「けっ」とか言うのがかっこいい、という意識がなくはないのですが(<それが恥ずかしい)、ついうっかり買ってしまいました。町田のジャズ喫茶でなんか聴き覚えのある曲が流れてきて、ちょっと反応してしまったのですが、なんとなくカンで、これはあのタラコ唇のCDではないか? と思ってそのあしでCDやさんに行って試聴してみたら、ドンピシャだったのでちょっとびっくりしました(ていうかたぶん前に試聴してそれが頭にのこってた、とかそんなのだと思うけど)。で、買ってきて改めて聴いてみると……まあまあかな(えらそーに)。
 ……と思って今なにげなく検索したら、なんと、ジョーンズ嬢は、あのラビ・シャンカールの娘さんなんだそうで。まじっすか。いやあ、なんかちょっとインド人ぽい美人だなあと思ったんですが(ほんとに)そしたらほんとにインドの血をひいていらっしゃったんですね。でもジョーンズ嬢はジョーンズ嬢の母親が離婚した後お生まれになったということで、父親との接点はほとんどないとのこと。そういえば、三枝くーん!(とホームページ上で呼びかける)、ラビ・シャンカールの娘って、シタール奏者の人もいまししたよねえ。てことは異母姉妹なのかな?。
 もう一枚はウェイン・ショーターの「アレグリア」。先に出たライブ版でも同じ感想を持ったのですが、ピアノのダニロ・ペレスが意外といいなあ、と思いました。そういえば二枚ともブライアン・ブレイドが参加しています(ジョーンズ嬢の方では大人しいけど)。

2003/03/18 (前回 03/16)

思う会だの、見守る会だの、救う会だの……まったく。
--------------------------
 盗撮ビデオ買いました。(´Д`;)ハアハア <て、この手の見えすいたエロ系ネタ振りって、もううんざりなんですが、一応お約束ってことで……で、何を買ったかというと、山と渓谷社『野鳥図鑑』(NHKビデオ)全8巻、です。「NHKが野鳥を愛するかたに贈る379種の野鳥を収めた好奇心あふれる、待望のオリジナルビデオシリーズ」ということです(被写体の許可をとらずにこっそり撮っているといういみではまさに盗撮ビデオですがね)。
 今、カモ類の巻(第5巻)ちょっとだけ見たんですが……すごいっすよ。BGMなし。思い出したように時々トモロヲ風説明ナレーションが入りますが、そのほかは、延々と、これでもか、と、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥、鳥(字幕で種名が入る)……です。……すばらしい。(´Д`;)ハアハア いやあ、それにしても、昔、鉄道を愛する哲学者N沼さんに、よく月刊『鉄道ファン』などの雑誌を見せていただき(吊革特集、とか)、マニアの方の世界はすごいなあ、と感服させていただいたものですが、このビデオ、それに劣らずマニア度はすごいかもしれないですね。数年前だったら、私自身、誰が買うんだ、こんなもん、と思ったかもしれません。
 さて、で、これ、全8巻、いくらだったと思いますか。何と、一巻280円!全部合わせても2,340円です。近所のHARD OFFでたまたま見つけて、ちょっと迷ったんですが、買い占めてしまいました(ハードオフといいつつソフトも売ってるんですよね)。もちろん、定価ではありません。定価は一巻3,100円。全部合わせると24,800円。90パーセント以上OFFではないですか。ていうか、セット価格が、定価の一巻分より安い。なんか、こんなに安く見させてもらって、いいんですか、悪いなあ、て感じすらします。
 それにしても、さすがNHK、すばらしい映像です。いつも私が遠くから見ているカモを、あり得ない近さからなめ回すように映してます。……まじかわいい!!(´Д`;)ハアハア >最初にもどる。
--------------------------
平沢進、「殺戮への抗議」と銘打ち、MP3楽曲の無料配信。

2003/03/19 (前回 03/18)

 製作期間3年、世界20カ国以上を旅して、100種類以上の渡り鳥の旅物語を映像化した、映画『WATARIDORI』。一昨年、フランスで初公開され、大ヒットしたそうですが、ついに日本でも公開ということで、実に楽しみです。

--------------------------
鳥を見守る会 「いよいよ戦争がはじまります。われわれ鳥を愛するものとしては、戦争になるというと、真っ先に心配になるのが水鳥のことです。ああ、今でも思い出すと、涙が出ます。10年前の湾岸戦争で、油まみれになったかわいそうな水鳥、ウミウの映像……。もうこれ以上鳥が苦しむのを見るのはごめんです! イラクの水鳥たちを野獣フセインから守る、今回のアメリカによるイラク攻撃を、当会は断固支持します! ところでアメリカの象徴(国鳥に指定されています)が何か知ってますか? ハクトウワシです。学名 Haliaeetus leucocephalus 海岸や湖などの水辺に住んで魚や水鳥を食べる鳥で……」
魚のことを想う会 「水鳥によるボラ攻撃反対! 凶暴な水鳥は、何の罪もないボラたちに空から襲いかかり、殺戮しています。 水鳥による大量殺戮に反対しましょう!」
鳥を見守る会 「困るねえ、観念的平和主義者はこれだから。自然の摂理だよ。これは。強いものが勝ち、弱いものは食われる。地球の歴史の中で戦いというのは常にあったのです。……だいたいねえ、ボラを食べてるのはカワウで、油まみれになった水鳥は、ウミウ。そんなことも知らないのかなあ。困るなあ。いいですか、カワウというのは、学名 Phlalacrocorax carbo で日本では本州と九州で繁殖している大型の水鳥で集団で樹上に巣を作り繁殖するんだが特に上野不忍池のコロニーは大都会の中にあるということで世界的にもめずらしい例でしてねそれでウミウは学名 Phlalacrocorax filamentosusu で日本では全国の沿岸や島の岩礁地帯に生息するんですが長良川の鵜飼いのウは川だからカワウかと思いきや現在はウミウが使われているんですねこれがまたそれで……」
魚のことを想う会 「うるさい! ウミウだかカワウだか知らないがな、あの油まみれの水鳥の映像、あんなものうそっぱちのヤラセじゃねえか。イラクが破壊した油田とはぜんぜん別の場所で撮った「油まみれの水鳥」の写真を、あたかもイラクによる油田破壊の犠牲者のようにみせかけてたんだよ。そんな情報操作にまんまとダマされるとは、だからてめえら鳥頭って言われるんだよ。ま、生まれて初めて見たモノを親と思いこんでのこのこついてくような刷り込み野郎じゃしょうがないか。だいたい、『WATARIDORI』だってな、とんだヤラセ映画だよ。撮影スタッフがヒナから育て、刷り込みを利用して撮影機材に慣れさせたそうじゃねえか。かわいそうに、撮影に使われた鳥は一生野生にもどれないね。」
鳥を見守る会 「だ、だまらっしゃい! このサカナ野郎どもめ! カワウくんは、サカナのDHAを摂取しているから頭がいいんです。それより、サカナどもこそ、なんてバカなんですか。エサに釣られて人間に釣られまくっているくせに。DHAでも摂ったらどうですか。ははーん、わかりました。トドのつまり、あなたたちはイラクの手先ですね? いくら魚の卵だからって、全体主義独裁国家イクラを支持するなんて、あなたたちは民主主義の敵だ! アカだ! 国賊だ!」
××を救う会 「……さっきから聞いてると、てめえらゆるせん! 人間より鳥や魚の方が大事だってのか!」
鳥を見守る会 「なんですって? 油まみれのウミウちゃんがかわいそうではないというのですか? なんてひどい。イラクだか、北朝鮮だか知らないですがね。そんなところの人間が、はらわた出して死のうが、脳味噌はみ出させて死のうが、そんなこと知ったこっちゃないんです。重油にまみれて真っ黒になったウミウを見て涙を流さないなんて、人間じゃない!」
油を守る会 「鳥はどうでもいい! 油がもったいないじゃないか!」


* 全体主義独裁国家イクラというのは、しりあがり寿のパクリです。
* 蛇足ですが、ボラは成長するにつれて違う名で呼ばれるいわゆる出世魚で、その最終段階がトドです。
* まじめな話、これから情報操作に注意しなければなあ、と思います。もうすでに、「イラクの生物化学兵器使用の恐怖」などとあおり立てている番組もありますね(フジテレビだったかな)。ほんとにしょうがない。油を守る会は、爆弾も雨霰と振らせますが、お金も湯水のように使えるので、情報操作もお手のものです。それにまんまと乗っかる日本のマスゴミ。やれやれ。
* いまさらですが……米英によるイラク侵略戦争反対、日本政府は戦争支持を撤回せよ、です。


2003/03/21 (前回 03/19)

イラクに平和を。
ブッシュにプレッツェルを
--------------------
 地下鉄銀座線溜池山王の駅を出ると、青い服を着た、棒を持った男が立っていました。男の横を通り過ぎ、歩いていくと、青い服の男達の数はどんどん増えていきました。数十メートル歩いたところで、道を曲がろうとしたら、そこに立っていた青い男に通せんぼされました。「ちょっとちょっと!どちらへい行かれるんですか?」「……」「どちらへ行かれるんですか?!」「コンビニですよ。そこの。……通して下さい。」「いやいや!ちょっとまってください、抗議活動とかに来たんじゃないですか?」「……そこのコンビニに行きたいんですよ。……ローソンですよ。」「いやいや、なんか、小走りであわてて通りすぎようとしてましたよね。ホントはどこに行こうとしてたんですか?」「……だからコンビニですよ。」「いやいや、ねえちょっと、ほんとはどこに行こうとしてたんですか?」20代前半ぐらいでしょうか。180センチぐらいありそうな、その警官の目つきは、忘れられませんね。「だから、コンビニって行ってるでしょう。もういいですか?」と私はそのまま通り過ぎようとしたのですが、再び警官に通せんぼされました。「いやいやちょっと!……ねえ、ほんとはどこに行こうとしてたの?」「コンビニですよ。」「……ほんとはどこに行こうとしてたの?」「コンビニですよ。」「……ほんとは、どこに行こうとしてたの?」「コンビニですよ。」「ほんとはどこに行こうとしてたの?」「コンビニですよ。」……とまあ、押し問答をした結果、結局通ることができました。……というわけで、私は、コンビニに行きたかったのでコンビニに行ったのですが、コンビニに行った後アメリカ大使館の前に行こうと思っていたので、ただちにその目的を達成しました。
 言うまでもないですが、警察官には、通行を妨げる権限はなんらありませんし、そもそも、本当は私には、どこに行くかという質問に答える必要もなんらありません(任意の質問のはずですから)。
 よく、TVでイラクの人へのインタビューが流れると、その後、必ず「この人達は自分の意見を言う自由はありませんから。言わされているだけです。」などと「専門家」だか「識者」だかが言います。日本はそんなに違いかあるのかなあ、と、こんなことがあると思ってしまいます。
--------------------
「いまどきサルトルなんかやって、いまどきジャズを聴いて、おまけにいまどきデモですか。30年前からぜんぜん変わってないですね。」
「思考停止に陥った従来型の左翼はあいも変わらぬやりかた、進歩がないですね。困ったものです。」
「デモって、なんか団体行動みたいな感じが肌に合わないんですよね。それから、組織って嫌いなんで。」

「まったくその通りですね。いまどき戦争、いまどき侵略、いまどき爆撃、30年前からぜんぜん変わってないものだから、こうなっちゃうんですよね。困ったものです。」
「思考停止に陥った従来型の帝国主義のあいも変わらぬやりかた、進歩がないですね。困ったものです。」
「ほんと、団体行動っていやですよね。組織も嫌いですよね。毎日みんな同じ服来て同じ時間に学校に行ったり、会社に行ったり。始業式、終業式、運動会、卒業式、成人式、結婚式、お葬式。あんなことを喜んでやっている人の気が知れませんね。え?やりたくないのにやってるの?これはまた。」

 ねむいので内容はずしてるような気もしますが(それはいつものことか)、とりあえずアップします。

2003/03/22 (前回 03/21)

 テレビを見ると脳味噌がくさります。かくじつにくさります。特にNHK。アメリカが垂れ流す映像と情報を垂れ流しているだけです。いますぐテレビを破壊して、ここ(イラクにいるジャーナリスト常岡浩介氏の日記)や、ここ(イラクにいるジャーナリスト久保田弘信氏の日記)を読みましょう。

--------------------
 「ついに殺戮がはじまってしまった」とか、「この戦争は、大義なき戦争だ」などという言われ方がされることもあります。しかし、本当は、「殺戮はつねに行われている」と言うべきなのでしょうし、「この戦争も、大義なき戦争だ」と言うべきなのだと思います。たとえばパレスチナでは、過去も、また今も、殺戮が続いています*。また、アメリカが行ってきた、グレナダ侵攻、パナマ侵攻、ユーゴ爆撃、アフガニスタン爆撃、湾岸戦争以来のイラクへの爆撃、これらに「大義」が(というか小義だろうが正義だろうが何だって)これっぽっちでもあったとでも言うのか?
 そしてまた、今回は、世界各国で「かつて例を見ないほど」反戦運動が盛り上がっている、などとも言われます。これは、たしかにそうかもしれません。しかし、いや、だとすると、ではなぜ「前回」は、たとえば一番最近で言えばアフガニスタンへの「報復」爆撃の時は、あまり反戦運動が盛り上がらなかったのか(これはもちろん私自身への問いかけでもあるのですが)、やはりそのことも問うていかなければならない問題だと思います。
 9.11.直前の2001年6月、イランの映画監督モフセン・マフマルバフはこう書きました。

(……)1992年のアフガニスタンの人口は2000万人だった。ソ連侵攻開始から現在までの過去20年間に、約250万人が殺され、あるいは死んだ。この大量死と殺戮の原因は、軍事的攻撃、あるいは餓死、あるいは医療設備の不足にあった。言い換えれば、年に12万5千人、一日約340人、一時間14人となる。つまりこの20年間、アフガニスタンでは、5分に一人がこの悲劇により殺され、あるいは死んだのである。ロシアの潜水艦の中で、さほど多くない人数が死の危機にあった時には衛星放送が刻一刻のニュースを流していた世界で、あるいはまた仏像の破壊についての報道になら刻一刻耳を傾けていた世界で、5分に一人のアフガン国民の死については、25年もの間、誰も語ろうとはしなかった。(……)
 私は、この2〜30年間で人口の10%が殺されたり、国民の30%が故国を逃げ出したという国が他にあったとは思えない。そしてまた、世界がこれほどまでに、こうした事態に無関心だったという例を思い出すこともできない。
(モフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(現代企画室)p.21〜23)


 9.11.以後、アフガニスタンは一時的に世界の注目を集めました。が、今はどうでしょう……。
--------------------
 さて、その「盛り上がっている」反戦運動についてです。私は以前の日記で、反戦運動に参加する若者たち(ある本に「ラブ&ピースな連中」という表現がありましたが)を冷笑している、ととられかねないことを書いてしまいました。が、あれはまずかったと思います。たしかに、私はどことなく気恥ずかしさを感じてしまったのは事実です。が、それは、恥ずかしさを感じてしまうおじさんとなってしまった私自身の問題であって、彼らについて何ごとかをしたり顔で言う(しかも直接にではなく)というのは、まったくお門違いというか、それこそ恥ずかしいのではないでしょうか。というのも、彼らは、誰に命令されたわけでもなく、好きでデモに参加しているのだし、誰に迷惑をかけているわけでもないのだし、他人に何も強制していない。それについてとやかく言ったり、冷笑したりするすじあいは、誰にもないのです。会社帰りに(好きで)飲みに行って酔っぱらっているサラリーマンについて「なんか恥ずかしい」と言う人がいたらそのサラリーマンだって「お前にとやかく言われるすじあいはない」と言うでしょう。と、あらためて言うと当たり前の話で何なのですが……。
 というわけで、昨日もデモに行ってみて、ちょっと考えが変わりました(数回デモに参加したぐらいのことであれこれ言うのもこれまたかっこわるいですが、まあそこは置いておいて)。言うまでもなく、デモには、「ラブ&ピースな連中」だけではなく、昔ながらの人たちも多数参加しています。「○○労××支部」「○○県××教職員組合」などの幟(のぼり)、赤い腕章、先導するスピーカーから流れるシュプレヒコールに声をあわせる。……うーん。もちろん、彼らについてもとやかく言う筋合いは私にはありません。しかし、スタイルという点で言えば、申し訳ありませんが、ラブ&ピースの連中以上に、こっちのほうが遙かに恥ずかしいのではないか、と思いました。幟、ですよ、幟。世界中のデモの映像が流れますが、こんなものを立てているのは日本だけじゃないですか? 戦国時代(いやもっと前からか?)からあるようなものが未だに普通に使われている、というのは、ある意味貴重な日本文化として保存すべきなのかもしれませんが、それにしても……という感じです。まああれはあれでオヤジのスタイル、なのかもしれませんが、はっきりいってああいうところに混ざりたいとは思わない。手書きのポスターを持って歩く、個人参加のラブ&ピースな若者の方が、よほど親近感がもてます。
 もちろん、個人参加のように見えながら、実際のところは、そうでもなかったり、背後にいろいろな組織の影がちらついたり、ということは多々ある、とは思います。が、私も含めて、純粋な個人参加の人も多数いることは事実だと思いますし、そういう人たちに対してとやかく言う筋合いはどこにもない、ということを、いまさらですが、確認させていただきたいと思います……。いまさら何いってんだよ、と思う人もいると思うので、恥ずかしいのですが、とりあえず。

--------------------
* パレスチナでの殺戮については、毎日新聞が伝える記事を並べただけでも、今月に入ってからだけでこれだけあります。
18日
パレスチナ9人が死亡−−イスラエル軍侵攻で
イスラエル軍重機にひかれ、米活動家死亡−−パレスチナ自治区
14日
イスラエル人2人、軍の誤射受け死亡
7日
イスラエル侵攻、死者は計11人に−−ガザ近郊
6日
イスラエル軍が侵攻し、3人死亡−−パレスチナ・ガザ近郊
パレスチナ人過激派が自爆テロ、15人死亡 路線バス炎上−−イスラエル
3日
イスラエル軍、ガザに侵攻−−パレスチナ人7人が死亡

*昨日紹介したブッシュにプレッツェルを運動の日本語の説明はこちら

2003/03/24 (前回 03/22)

 「ンデゲオチェロ」とは、スワヒリ語で、「鳥のように自由」という意味だそうです。ミシェル・ンデゲオチェロ(本名ミシェル・ベンソン)は、ドイツ生まれでアメリカ育ちの女性ベースプレイヤー、コンポーザー、ボーカルetc.です。とあるサイトで、彼女が、9.11のテロをうけて作っていた"Forgiveness & Love"という曲をフリーmp3としてリリースした、というニュースを知りました。彼女のサイトからたどっていくと、この曲のリリースについての、3月19日付けのメッセージが載っています。というわけで、えーと、ちょっとがんばって訳してみます(なんだこのいいかげんな訳は!とか思っても言わないでね……)。

 私はこの曲を、2001年9月11日の後に書いたのだけど、平和を求める世界的な動きが生まれている今リリースするのがいいと思った。これを書いているとき、私は、イエスや初期キリスト教の伝統が教える究極の愛と許しについて、また、イスラム教の根源にある平和と正義の原理について、いろいろと考えた。それから、繰り返された宗教の使用と誤用(その中には、神がどういうわけか戦争において敵味方に別れる、という前提で行われた祈りもある)について考えた。私は政治家でも学者でもないから、私が考えたことと感じたことを、音楽を通じて追究しようとした。20世紀は、創造的で、テクノロジーが進歩した輝かしい世紀であると同時に、凶暴で、抑圧的な世紀だった。21世紀はそれとは違った世紀になっていくのかどうか……それが、なんといってもみんなに考え、感じ、思いをめぐらせて欲しい根本的な問いだ。私たちは、私たちの知性を、戦争、飢餓、病気、貧困を根絶するために用いるのだろうか? それともそれらを拡大するために用いるのだろうか? 私たちのライフスタイルが、他者の痛みの上に成り立っているという、否定できない事実と、私たち一人一人はどうやって折り合いをつければいいのだろうか? もしアメリカが、9/11の後、国民として、こうした問いに思いを集めていたならば、そして、傷を癒すことよりも復讐することを優先させてしまったのでなかったとしたら、何が起こっていただろうか?

 私はみんなに、希望に根をおろし、相互理解を見据えた対話に参加して欲しい。そうした対話は、派閥的な政治や、傲慢な心を乗り越えていくだろう。この曲を聴き、友人、家族、同僚たちに話すだけでなく、みんなが下のリンクをチェックし、行動を起こすことを期待している。

www.unitedforpeace.org
www.moveon.org
www.truemajority.com
www.notinourname.net
www.future500.com

 この曲をフリーmp3にさせてくれたマーヴェリック・レコードに感謝したい。

 P-FUNKは言っている。「考えろ!考えることはまだ違法じゃない!」 生命は贈り物だ。

ミシェル

 というわけで、曲は以下からダウンロードできます。彼女の意をくんで、紹介させていただきたいと思います。

forgiveness & love






2003>> 01 02
2002>> 03 04 05 06 07 08  09 10 11 12
2001年以前の日記 (不要ファイルを削除して空きを作ったので、古い日記全部復活させました。)