2003/04/03 (前回 03/24)

 ちょっと間が空きました。まよっていた、というのもあります。あのことを書くのか、書かないのか……イラクのことを書くのか、イラブのことを書くのか……。どちらにせよ、何が変わるわけでもない、とも思える……しかし、そのことについて、少し重苦しい気持ちがしていたのも事実です。ということを書いたからどうだ、というわけでもまた、ないのですが。というわけで、今日はあのこととあのことでないことの二本立てで行ってみます。
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 心おきなく殺すためには、相手が悪いやつである必要がある。「悪いやつ」が「殺される」、というよりも、どちらかというと、「殺されるやつ」はいつでも「悪いやつだった」ことにされるわけです。あいつらはいかに残忍、卑劣、傲慢、冷酷……なやつらであるか、ということが言い立てられます。しかし、そうしたことが事実であるかどうか、は実はあまり重要ではない。見え見えの嘘だって開き直ってつくでしょう。でっちあげだってするでしょう。そもそも、「……てことにする」のが目的なわけだから。で、そういう自分たちの宣伝の目的にあわないことを言う人がいると「敵の宣伝にのせられている!だまされるな!でっちあげだ!」と怒りだす。「『相手の言っていることは宣伝だ』と宣伝する」わけだから、世話がない。
 相手の悪事は針小棒大にかき立てるくせに、自分がやっていることは、とるにたらないものであるかのごとく誤魔化します。最たるものがピンポイントで、ピンて、どんなでっけえピンだよ!と三村風に突っ込みたくもなる。まさに棒大針小。いやそれ以上だ。米軍が使用しているクラスター爆弾は東京ドーム8つ分もの広さの範囲に爆弾をばらまくことができるそうで、てことは「東京ドーム8つ分大針小」だ。というわけで、「爆撃」は「誤爆」に、「侵攻」は「戦争」に、「イラク国民の殺戮」は「イラク国民の解放」に、「毒ガス(化学兵器)」は「無力化ガス」に、「核兵器」は「通常兵器に」*……という具合に言いかえられます。
 つまりは、でっち上げとでっち下げ、針小棒大と棒大針小、過大評価と過小評価、が組み合わさった、宣伝、いや宣伝ですらない、強弁と言おうか……。
 さて、この「宣伝」で重要なことは、自分たちが殺人に荷担している、あるいは、目の前で殺人が行われているのを看過している、と「思いたくない」人々、つまり、われわれ(もちろん、日本は戦争に荷担してますよ!)の心理に付け入ろうとしていることです。冷静に考えると「どう考えても嘘」ということが、何度もなんども言われているうちに、なんとなくうやむやのうちに「そういうこと」になってしまうことがあります。それは、「事実を直視したくない」というやましさがどこかにあるからだと思います。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ、危ないものじゃないから。ちょっと元気が出る栄養剤みたいなものだから。」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ちょっと休憩していくだけだから。何もしないから。」

 だいじょうぶ、だいじょうぶ。よくあることだから、戦争なんて。すぐ終わるから。
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 amazon.co.jpで、シンディ・シャーマンの作品集と、ポリーニのシェーンベルクピアノ作品集と、アイヌのユカラのCDを買いました。シンディ・シャーマン**、すごく好きなんですが、作品が好き、というのもありながら、彼女の地の顔自体が実はけっこう好み、というのがある(爆)<とか書くのか?こういう時……。でもあんまり気分が晴れる写真ではない。シェーンベルクもあまり気分が晴れるものではないかもしれないけど、やっぱりシェーンベルクはかっこいいなあ!と改めて思いました。アイヌのユカラの感想は後ほど。あとは、ミシェル・ンデゲオチェロの「peace beyond passion」というのを買いました。あ、そうそう、前回「とあるサイト」なんて書き方をしてしまいましたが、失礼でしたね。正確には、「追い風まかせの逃避行を皆様にお約束する“浮き雲エアライン”機長のO'と申したり申さなかったりいたす方」であったり「『デコ広人間 大集合!』司会」であったり「このご時世に腋の下からブランコを吊している方」であったりするところのO'さんの⊂xone⊃というサイトです。
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* 劣化ウラン弾は核兵器です。ていうと、針小棒大だ!とアメリカ軍は言うんだろうけど。
** セルフ・ポートレイトの写真作品を発表し続けているアーチスト(て言い方恥ずかしいんだけどそうとしか言えないなあ)

2003/04/21 (前回 04/03)

 新学期がはじまったりして、さすがにちょっと忙しかったりすることもあり、また大分間があいてしまいました。が、生きてます……。
 何を書くかネタがなくて困るのですが、とりあえずこの間思いついたやつを書きます。

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(20××年、国立邪頭大学モダンジャズ学部モードジャズ科入試問題より)

■ジョン・コルトレーン作曲の「Mr.P.C.」の説明として正しいものを選べ。

(ア) P.C.とは、ポール・チェンバース(Paul Chambers)の頭文字で、コルトレーンがベーシスト・ポール・チェンバースに捧げて作った曲である。

(イ) P.C.とは、パーソナル・コンピュータ(Personal Computer)の頭文字で、ここでは、IBM-PC/AT互換機のことを指す。「Mr.P.C.」とは、米マイクロソフト社のビル・ゲイツ社長のことであり、この曲はコルトレーンがビル・ゲイツに捧げて作った曲である。

(ウ) P.C.とは、フランス語などでの共産党の略称である(Parti Communiste)。「Mr.P.C.」とは、ミスター共産党と呼ばれた日本共産党の元最高指導者、野坂参三のことであり、この曲はコルトレーンが野坂参三に捧げて作った曲である。
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 まあ結局、ほとんどこのネタの焼き直しなんすけどね。


2003/04/25 差別も偏見も国境もなくなるさ (前回 04/21)

 22日、環境問題を訴えるライブ「アースデー・コンサート」で、参加アーティスト忌野清志郎が2曲目の「あこがれの北朝鮮」を歌い出して1分後、ライブを生放送生中継していたTOKYO FMは放送をカット。リスナーからのファクスを紹介するなどのコーナーに切り替えたそうです(記事はここなど)。局側は、「アースデーという趣旨で事前に相談した曲と違った曲だったので、中断した」と言っているそうですが。しかし、じゃあ、忌野が1曲目に歌った「風に吹かれて」(カットされなかった)は、アースデーの「趣旨」に合っているんだろうか……。何とでも言えますね。ちなみにアメリカでは、「風に吹かれて」は今たぶんラジオ放送禁止リストに入っているでしょうから、そもそも最初から放送されないでしょうけど。
 「あこがれの北朝鮮」は、1995年インディーズから発売された「タイマーズ」のアルバム「不死身のタイマーズ」に収録されているようです。というわけで、せっかくなのでネットで探してきたアルバム収録時の歌詞を無断で掲載させていただきます。

  あこがれの北朝鮮
 北朝鮮で遊ぼう 楽しい北朝鮮
 北朝鮮はいい国 みんなの北朝鮮
 キム・イルソン キム・ジョンイル
 キム・キム キム・ヒョンヒ
 おーい キムって呼べば みんなが振り向く

 北朝鮮で遊ぼう あこがれの北朝鮮
 北朝鮮はいい国 平和な北朝鮮 あこがれの北朝鮮

 いつかきっと みんな仲良くなれる
 いつかきっと そんな世界がくるさ
 差別も偏見も国境もなくなるさ
 あこがれの 朝鮮 朝鮮民主主義人民共和国

 シャララララー
 ビビンバー

 おーい キムー なんだーい ゼリー

 今回のライブでは、忌野は、「キム・ヒョンヒ」を「キム・ヘギョン」に、「差別も偏見も国境もなくなるさ」を「差別も国境もテポドンもなくなるさ」と変えて歌ったようです。
 また、5曲目に歌った「君が代」パンクバージョンも、放送されなかった模様です(こちらは、最初から放送予定がなかった、と局側は言っているそうなのですが……)。この「君が代」パンクバージョンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、国歌・国旗法案が問題となっていた1999年8月、ポリドールから発売予定だったアルバム『冬の十字架』に収録されていたのですが、ポリドールは、結局この曲を問題としてアルバムを発売中止にしてしまいました。ポリドールは最初清志郎サイドに君が代抜きの6曲での発売を打診したが、清志郎はこれに応じなかったそうです。発売中止にした理由について、ポリドールの菅谷憲・邦楽制作本部長は「政治的、社会的に見解が分かれている重要事項に関して、一方の立場によって立つかのような印象を与える恐れがあり、発表を差し控えた」と説明したそうです。また、「君が代に対して、何らかの態度を示すことを棄権したと考えてもらっても結構だ。発売を中止することこそが、中立的な態度と判断したのだ」と発言した幹部(菅谷氏かどうかは不明)もいたそうです。
 つまり、「一方の立場によって立つ」こと、「何らかの態度を示す」こと、それ自体が、よくないこと、とされているわけです。そして、そういう「政治的なもの」ものを排除することが「中立的な態度」だ、とされている。
 要するに、今や、「政治的に偏っている」というのは、「頭痛が痛い」と同じように冗語なんですね。だって、「政治的である」ことそのものが「偏っている」ということなんですから。TOKYO FMはおそらく右翼芸人鳥肌実なんかも放送自粛するでしょう。
 そういえば昨日、このページを見ている人から、「永野さん、米軍基地とか行ってるんでしょ?」と言われました。「いや、基地じゃないよ、大使館だよ。」と答えたら、「ふーん……行って何するんですか?」と……。「何するって……叫ぶんだよ。」「あっはは、叫ぶんですか。」彼は別に私を非難しているわけではないと思います。が、「そんなことよくやるね」あるいは「そんなことやってどーすんの」とあきれているような口調はありました。いや、別にいいんですけど。一方で、「えらい!私にはとても出来ないよ」と妙に感心されることもあるのですが、それもまた苦笑してしまいます。大使館行った、ていっても2・3回行っただけですし……。
 もちろん、「よくやるよ……」「えらい!」の他に、「いいかげんにしろ!」というのもあると思います。電車の吊り広告でたまたま眼に入ってしまったのですが、どこの週刊誌だったか、「いいかげんにしろ!芸能人反戦商法」という記事見出しがありました。つまり、「商法」だ、と。「ポーズだ」「偽善だ」「恥ずかしい」て、たぶんそういうことでしょうね。そう言っている人はそういう芸能人より少し頭がいいようなつもりになっているのかもしれません。
 ……とここまで書いたのですが、同じようなテーマについてここで何度か書こうとしたものの、どうもうまく書けないんですよね……。「中立」なんて欺瞞だ、と言いたくはなりますか、政治的無関心が世の中を危険な方向に……なんてそんな結論で「はいおしまい」とはとてもできない。もうちょとビミョーで複雑な話をしなくてはならないように思います。
 が、いずれにせよ、そうこうしているうちに有事法制や個人情報保護法(メディア規制法)なんかがやばいところまで来ている、ということだけは事実なようです。
 そんな話はやめにして、1990年のアルバム「カバーズ」に収録されているRCサクセション・バージョンの「風に吹かれて」(原曲はボブ・ディラン)の歌詞も紹介してしまいましょう。

  風に吹かれて(RCサクセション・バージョン)
 どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?
 どれだけ金を払えば満足できるの?
 どれだけミサイルが飛んだら戦争が終わるの?

 その答えは風の中さ
 風が知ってるだけさ

 いつまで追っかけられたら静かに眠れるの?
 どれだけテレビが歌えば自由になれるの?
 いつまでニュースを見てたら平和な日が来るの?

 その答えは風の中さ
 風が知ってるだけさ

 どれだけ強くなれたら安心できるの?
 どれだけ嘘をついたら信用できるの?
 いつまで傷つけ合ったら仲良くできるの?

 その答えは風の中さ
 風が知ってるだけさ

 したがって、
 どれだけ風が吹いたら解決できるの?
 どれだけ人が死んだら悲しくなくなるの?
 どれだけ子供が飢えたら何かが出来るの?

 その答えは風の中さ
 風が知ってるだけさ

※「あこがれの北朝鮮」「君が代」ともにこちらから購入できます。

2003/04/27 (前回 04/25)

 今週から本格的に授業がはじまったのですが、さっそく風邪を引いてしまいました。まあ、今のところ大したことはないのですが。いったい今年すでに何回目だろう。こんなことでは先がおもいやられます。
 それにしても、昨日の試合はすごかった……。甲子園の試合はインターネットで中継があるので(私は年間チケットを買っています)見ていたのですが、8回表で10対4になったところで、もうダメだと思いました。インターネット中継は、音声は大阪のラジオMBSのものを使っているのですが、昨日の解説板東なんか、もうダレきってほとんど解説を放棄。「電子辞書、あれは便利ですなあ。原稿書くときは欠かせません。」とか、アナウンサーに「あんたどこの大学出てんの?関学?まあまあやな。」とか、アナウンサーとダレダレの世間話を始めていました。それが……8回裏、9点とって6点差を逆転ですからねえ。しかし、相手の立場に立ってみれば、広島の黒田はすばらしいピッチングだったのに、かわいそすぎます。ぜひこの悔しさをキョジンにぶつけてください。
 ……と、思っていたら、今日は1回表に下柳がいきなり6失点。もういやになります。さらには横浜までキョジンに逆転負け……風邪ということもありますが、一転して今日は最悪の気分です。
 というわけで、気分転換に近所のうどんチェーン店「民芸」(多摩の方によくある)に、「はまぐり豆乳うどん」を食べに行きました。これ、しあわせな気分になれますね。豆乳仕立ての汁に、はまぐり、豆腐、海老、椎茸、三つ葉、そして、生湯葉が入ってるんですよ。最高にうまいです。850円。民芸サイコー!



2003/04/30 (前回 04/27)

 1999年、君が代パンク・バージョンを含むアルバムが発売中止になったときに、糸井重里氏が書いた「忌野清志郎はすきなんだけど」というコラムを読みました。このコラムについては、S.W.Jというサイトの、4月28日のJournalで知りました。

 キヨシローくんとは、なんども一緒に仕事もしてるし、いつも元気でいてほしい人であることは間違いない。しかし、彼の「プロテスト替え歌」は、つまらない。(……)たくさんの、ソウルに響く歌をつくって、歌ってきた彼が、誰でもできるような「反体制」風の替え歌を歌って、ロックだましいは忘れちゃいないぜ、なんて叫んだとしても、ぼくにはサミシイだけだ。

 ……私は、糸井重里は特に好きということも嫌いということもありませんし、別にいつも元気でいてほしい人でもないです。が、矢野顕子の多くの名曲での彼の歌詞はとても好きですし、さすがだな、とも思いました。……しかし、率直に言わせてもらうと、この彼のコラム、サミシイなんてものではない、とても悲しくなるような代物だと、私は思いました。実は前前回の日記で忌野氏のことに触れた時、「『はだしのゲン』はマンガとしてはすばらしいが稚拙な政治メッセージはつまらない」と言った呉智英のように、「忌野清志郎は音楽としてはすばらしいが稚拙な政治メッセージはつまらない」と言う音楽評論家のような人もいるんだろうな、と書こうと思っていたのですが、やっぱりいましたか……ここに。というわけで、糸井氏に対する反論(というか違和感)は、ほとんど呉智英氏に対する反論と重なってしまうので、ここで繰り返すことはやめにします。お暇な方は3月13日の日記を読んで下さい。例えば

『はだしのゲン』の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、『はだしのゲン』は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。

 という呉氏の口振りと

たとえば「君が代」をパンク風に演奏することと、『ぼくが何かわるいことをしてそのことで有名になってしまったとしても、君がぼくのほんとうのことを知っている。上から下まで、ぜんぶわかっていてくれる』というような歌詞とを比べたら、どっちが人間の自由に本当に触れているかが、誰にもよくわかると思う。

 という糸井氏の口振りなどは、あまりにも似ているので、逆にびっくりさせられます。

 いったい、そもそも音楽と政治が無関係であるなどということがどうして言えましょうか。いや、音楽だけでなく、あらゆるものについて。あらゆるものが政治的ではないでしょうか。私が今朝納豆を食べたということも、コーヒーを2杯飲んだということも……。政治と無関係な無垢な場所がある、と思ってしまうこと自体が、まさしく一つの政治的な現象である、と私には思えるのですが……。
 音楽の話にもどれば、確かに忌野氏は直接的に政治的メッセージを歌います。しかし、直接的に政治的メッセージを歌わない、ということ自体も一つの政治との関係のあり方です。もちろん、忌野氏が、他のロックミュージシャンに対して「もっと政治を歌え!」などと言っているのだとしたら(私の知るかぎり彼はそのようなことを言っていないと思うのですが)言われたミュージシャンはもちろん「とやかく言われる筋合いはない」と言う権利があると思うのですが、逆に忌野氏にとってみれば、「政治を歌うな」という糸井氏のようないいがかり(ほとんどそのようにしか読めないのですが)は、まさに「とやかく言われる筋合いはない」以外の何ものでもない、と思います。もっとも、忌野氏のことですから、誰が何を言おうと、かつても、そしてこれからも、歌いたいものを歌うだけだと思いますが。
 もちろん、私だって、忌野氏のあまりにストレートすぎる「プロテスト替え歌」を聴くと、ちょっと恥ずかしいと思ってしまいます。それにそれらのうちには、確かにあまり音楽的に成功しているとは言えないものもあると思います。……が、だからといって、糸井氏の「もともとの国歌に、批判をこめたアレンジを加えてそれを演奏することが、そんなにたいしたことだとは、ぼくには思えないのだ。」とか「忌野清志郎が、わざわざ言わなくたって、その程度のことなら、街頭インタビューの人たちだってマイクに向かって言っている」という言い方には、この人は何を言っているのだ、とほとんど憤りすら覚えます。
 いったい、忌野清志郎以外の誰が、日の丸・君が代を法律で強制しようと言う動きに対して、行動し発言したというのでしょうか。誰も何も言わず、何もしなかったではないですか。いったい、忌野清志郎以外の誰が、表現の自由を賭けてレコード会社と戦ったというのでしょうか。いったい、忌野清志郎以外の誰が、生中継で演奏をカットされたというのでしょうか。「キヨシローくんとは、なんども一緒に仕事もしてるし」……だからどうだというのだろうか。糸井重里よ、恥を知れ!!

 私にとっては、あまりに糸井氏の文章があんまりだったので、つい書き殴ってしまいました。ほんとうは、sugiさんの「無垢ということ」という文章が途中なので、途中で茶々を入れるような格好になっては悪いので(そう言うつもりはもちろんないのですが)sugiさんの文章が終わってから書いた方がいいのかもしれない、と思ったのですが……。sugiさんごめんなさい。sugiさんの結論と私の考え方がおなじなのか違うのかはいまのところわからないのですが、もちろん論争をしようとかそういう気は毛頭ありません……。
 ただ、私は、「あこがれの北朝鮮」という曲には、とても強いメッセージがこめられている、とも読めるように思うのです……。詮索するのは野暮ですし、それに私は昔から詩を誤読するとてつもない才能があるらしいのですが(その話はいずれ書いてもいいのですが)、「北朝鮮で遊ぼう 楽しい北朝鮮 北朝鮮はいい国 みんなの北朝鮮」とか「北朝鮮はいい国 平和な北朝鮮 あこがれの北朝鮮」というのは、一見現在の北朝鮮のことを皮肉ったりちゃかしたりしているようにも読めますが、実は後半の「いつかきっと そんな世界がくるさ」という句と直接つながっているのではないか、と私は思うのです(そんなの当たり前だ、て言われちゃいそうなのがちょっと怖いのですが)。つまり、清志郎は、「未来の」北朝鮮のことを歌っていて、そのような北朝鮮になればいい、と、実に大まじめに歌っているのではないか、不真面目に見せかけて大まじめなのではないか、と……。私は、「拉致家族のことを思うとこのような歌詞は不謹慎だ」などと一見まじめくさったことをいいながら、その実とてつもなく不真面目で、未来のことは何も考えていない、マスコミや、(糸井の言う)「街頭インタビューの人たち」に比べると、忌野清志郎のこの「無垢で純粋な政治性」は、まったく敬服に値するものだ、と思います。というか、本当に、感動さえ覚えます。
 と、最近あまりに(後期?)忌野氏的なものへの風当たりが強いように思えて仕方がないもので、つい必要以上に熱く忌野氏を擁護するような文章になってしまったかもしれません。後でなおしたくなるような気もするのですが、とりあえず勢いでアップしてしまいます。
※ここに直接リンク貼ってる人も多いと思いますが、ちょっとだけトップページ変えました。

5/7(水)ジャムセッション・ホスト@調布GINZ
5/19(月)村田バンド(ジャズ)@調布GINZ


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