■ 2003/12/11

人大杉栄、なんちて(爆〜ニン)
 ご無沙汰してしまいました。とってもとっても忙しいデス(当社比、ですが)。私的にも世の中的にもキッツイ状態が続いておりますが、これ以上間を開けるとますます書けなくなりそうなので、とりあえず、最近読んだマンガの感想でも書いてみますデス。まず
『のだめカンタービレ』二ノ宮知子
 流行っているらしいことは知っていたのですが、7巻が出ているいまごろになって読みました。読み始めると面白いので一気に読破。音大のピアノ科の学生(♀)(野田恵略して「のだめ」)が主人公の、ラブコメというかギャグマンガ、デス。ちなみに私、この作者のデビュー作『トレンドの女王ミホ』は、なぜか昔リアルタイムで読んでいたのデス。その後活躍して今やベテラン、デスね。
 かなり取材をしていて、クラシック音楽マンガとしても面白いと思います。ちょっと特殊な世界にいる変な人たちを描いたマンガ、ということでは、佐々木倫子系をねらっているようなところもありますが、佐々木倫子よりもスピード感のある素直な笑いです。ストレス解消にはもってこいです。次巻が出るのが楽しみデス。
 マンガのテクニックはそつなくてかなりうまいと感じました(などとエラソウに言えるほどたくさんマンガを読んでいるわけでもないですが)。その意味でとても読みやすかった。ただ、表紙の絵は、わざとかもしれないですが中身と雰囲気が全然違います(こう言ってはなんですが、絵はそんなにうまくないかもしれない)。私はあれを見て最初敬遠していたので、失敗しました。
 某大学の授業には、音楽系の学生さんもいるので、「最近のだめ読んでます」と言ってみたら、アンケートに「のだめ読みたいのですが、お金がなくて買えません、貸して下さい。むきゃ〜(<最後の一言はウソ)」と書いてきた人がいました。金がなくてのだめが買えないって、あんたはのだめデスか!
 と、ここまで書いて時間切れです。残りはまたこんど。
 そうそう、ひさしぶりのプロジェクトHライブ、下北の美容室パラッツォでやります。Running Teacherでお忙しいことと思いますが、是非お運び頂ければ幸い、デス(その前にゼラス・クリスマス・ライブもあるでよ)。

■ 2003/12/14

 夏目房之介の『手塚治虫はどこにいる』を読みました。ひょっとすると前読んだかもしれないのですが、改めて読んでみるとやはりなかなか面白い。前書いたように、どうも私は手塚治虫とサルトルがかぶって見えるのですが、今回もついついそのことを考えながら読んでしまいました。前ここで、サルトルは晩年批判されたところが手塚と違う、というように書きましたが、そうでもなかったみたいです。

 六〇年代後半には手塚治虫はすでに〈古い〉といわれ、またさきの『劇画について』のような発言から、劇画派の知識人や若いマンガ愛好家たちに〈保守派〉〈良識派〉の印象をもたれてしまう。(191ページ)

 『劇画について』というのは、手塚が虫プロのマンガ専門誌「COM」67年10月号に掲載したコラムのことで、その中で手塚は、劇画について「内容が希薄で安易なアクションでページを埋めている作品が多い」と苦言を呈したとのことです。これはまああれですね、サルトルが、構造主義について「構造主義はブルジョアジーがマルクスに対して築いた最後の砦だ」と言った、てやつでしょうか。いや、これは完全にこじつけですがね。
 サルトルとの対比の話はおいといて、やはりこの本で面白いのは、夏目氏ならではの、「線」についての分析ですね。手塚は、劇画の台頭に相当焦って、後期には、自分の絵に劇画のタッチを取り入れることに成功し、数々の傑作を残します。すでに巨匠となっていた手塚が自分のスタイルを変えるというのは並大抵のことではなく、その点でもやっぱり手塚という人はすごい、などとよく言われます(私もそう思います)。夏目氏もその手塚の柔軟性は認めます。が、彼は、後期の手塚の絵の変貌を目の当たりにして、当時「線が荒れた」「キャラクターの表現が類型的になった」と違和感を感じたのだそうです。この違和感を改めて分析し、手塚と時代との関わりを考察する、というのがこの本のメインです。それはちょっとここで簡単にまとめることはむずかしそうなので、興味有る方は読んで見て下さい。ただ、後期の手塚への違和感、というのはやはり世代の差も大きいようです。この本には、夏目氏と編集者との会話が一部出てくるのですが、50年代の手塚に親しんで育った夏目氏(1950年生まれ)に対し、当時(1992年)30代だったという編集者は、むしろ後期の絵の方が違和感がない、と言っています。私は、1992年にはかろうじて20代でしたが、やはりこの編集者と同じ感覚だと思います。私にとって最初に出会った手塚の線とは、『ブラックジャック』の線であり、『三つ目がとおる』の線です。私はむしろ、それこそちょうど1992年ごろに、手塚の『ファウスト』を読んで、初めて、初期手塚の絵はなんて美しい(というかかわいい)んだろう、ということを知った、という感じです。そういえば、田中圭一という、手塚絵のパロディーで有名な漫画家がいますが(『神罰』には笑わせてもらいましたが)たしかこの人は私と同世代で、したがって彼のコピーする手塚絵も、あきらかに後期絵ですね。逆に、少なくとも一時期の高野文子という人は、50年代の手塚の線をコピーしようとしているのではないか、なんていう気がするのですが(最近の高野さんはまたちょっと違うようにも思いますけど)。
 さて、夏目氏の「線」の分析ですが、面白いとは書いたものの(たしかに面白いのですが)あまりに繰り返されると、ちょっとこだわりすぎ?と感じられる部分もあります(うわ、偉そうなことを言っている)。が、夏目氏のこの本は、線の分析ばかりではなく、手塚マンガの内容というか、思想についての興味深い分析もあります。次回そのことを書きます。

■ 2003/12/15

 昨日の日曜日は、水戸芸術館に「YES オノ・ヨーコ展」を観に行きました。
 期待以上にすばらしかったです。今回展示されていた代表作は、ほとんど30年以上前の作品なのですが、大変かっこいい。コンセプチュアル・アートの先駆者とも言える彼女の作品は、当然ながらデュシャンの強い影響が見られます。
 ところで、彼女の作品を特徴づけるキーワードは、「インストラクション」です。例えば、「釘をうつための絵」というのは、白く塗った板の前に、ハンマーと釘が置いてあるというもので、つまり、作者のインストラクション(指示)にしたがって、鑑賞者が実際に釘を打っていく。これだけみると、言ってみれば「参加型アート」といった感じで、いまとなってはそれほどめずらしくもない、と感じられるかもしれません。が、彼女のインストラクション・ペインティングの本質は、実は「インストラクション作品を作る」ことにあるのではない。指示にしたがって実際に何かをやること自体は少なくとも重要ではない。指示そのものが重要なのです。つまり、「インストラクション作品」なのです。1962年の展覧会では、作品ではなく、作品を作る手順を書いた「指示書」が展示されました。この指示書は「楽譜」と呼ばれました。たとえばこんなものです。

三楽章の絵
キャンバスにタバコで小さな穴をあけ、しめった綿を入れた袋に種を入れキャンバスの横につるし、毎日水をやる。
一楽章
キャンバスがつたにおほわれる迄。
二楽章
つたが枯れるまで。
二楽章
キャンバスが燃やされて灰になる迄。
楽章の終わりごとに写真をとっておく。


 これは、かろうじて達成が可能な指示です。が、このとき展示された「楽譜」のなかの、「頭の中で組みたてる絵 PAINTING TO BE CONSTRUCTED IN YOUR HEAD」というシリーズは、このようなものです。

頭の中で組みたてる絵
その一
四角:
キャンバスが円になる迄頭の中で変形していく。その過程に於けるあるところで止め、その形から想起した色、音、にほひ、或いは物体をキャンバスに張って置く。


 こうした「指示」は、そもそも何が「指示」されているかが明確ではない。つまり、少なくとも、指示が現実に達成されることは重要ではないのです。上の「楽譜」を観てもわかるように、最初期から、オノにとっては「想像 imagination」が非常に重要な意味を持っていました。ところで、「インストラクション」とは、「イン・ストラクション」でもある(オノは「イン・ストラクチュア」という言葉も用いています)。「インストラクション instruction」とは、もともとは「in 上に + strucere 組み立てる=積み上げる=教える」から来ているのですが、オノは、「in」を「中に」ととっているわけで、インストラクションとは、頭の「中に」「組み立てる」=想像する、ことでもあるのです。さらには、オノにとって「in」とは「中に」だけでもない。1964年の「インサウンドについて」という文章では、オノは「インは in like really in-within-inner-non-un-insane-crazed…」と言っています。つまり「in」には、「否定」の意味も込められていたのではないか。とすると、インストラクションは、ストラクチャーの否定でもある(とするとそれは、デストラクション、デコンストラクションにつながることになる)。といってもそれは、あからさまな否定、破壊、でもない。むしろ、指示であるように見せかけておきながら、いつのまにか指示でなくなっている、とそんな感じであり、指示のパロディーというか、自己崩壊していく指示のようなものです。そこには、「命令」とか「強制」という匂いはありません。例えば

「夕日を通す絵」
キャンバスの後ろに瓶を一本つり下げる。
キャンバスを西日のあたるところに置く。
瓶の影がキャンバスに映るとき、絵はそこにある。そにになくても、かまわない。
瓶にはお酒、水、バッタ、アリ、歌の上手な昆虫をいれてもよい。なにもいれなくても、かまわない。
1961年夏

 このように、オノの「インストラクション」には、「そこにある。そにになくても、かまわない。」とか、「いれてもよい。なにもいれなくても、かまわない。」というような表現がたくさん出てきます。「Aをする」という指示を出しておきながら、即座に「しなくてもかまわない」と指示そのものをうち消してしまう。こういうところは、ユーモラスでかわいらしくもあり、とても気に入りました。私の友人のKさんが、かつて「いくかもしれないし、いかないかもしれない」と語り、これは、私たちの所属していたジャズ研で「名言」として語り継がれている(?)のですが、私は、オノのインストラクションにも、Kさんのことばと同じ解放的な響きを感じました。
 また、「AあるいはBあるいはC……」と、さまざまなアイテムを次々と選言でつないでいくようなものも多い。しかも、アイテムの間に関連性というか脈絡がない。これもやはり、ストラクチュアを崩してしまう働きを持っているように思いました。
 1964年には、そうしたインストラクションを集めた、「グレープ・フルーツ」という本が出されます(最初のバージョンは500部しか作られなかった)。その中には、そもそも達成できない、あるいは頭の中で(想像的に)だけ達成できる「指示」が満載されています。

THROWING PIECE
Throw a stone into the sky high enough
so it will not come back.
1964 spring

FRY PIECE
Fly.
1963 summer

SUN PIECE
Watch the sun until it becomes square.
1962 winter

 この本には、「imagine〜」という「指示」も多数含まれているのですが、というわけで、ジョン・レノンの「imagine」もこの本に触発されて生まれたわけです(ジョンは「imagine」はヨーコとの合作だ、と言っていたらしい)。なんでもサルトルと結びつけるのはわれながらあれですが、想像力を重視するオノの戦略、初期サルトルともつながります。オノは学習院大学の哲学科卒ということなので、実際、サルトルの影響もあるかもしれない。
 『グレープフルーツ』は、その抜粋が『グレープフルーツ・ジュース』という題で文庫になっています。「YES オノ・ヨーコ展」は、水戸の後、広島>東京>鹿児島>滋賀 と巡回します。

■ 2003/12/29

 とかなんとかいっているうちに、クリスマスも過ぎ、もう三つねると和尚が2です。今年のクリスマスはどのようにすごしたか、といいますと、イブの夜は、機動隊の人々と渋谷のお散歩としゃれ込みました。なかなか楽しい夜でした。暇なときにはまたぶらっと参加してみようか、と思います。
 さて、いろいろと書こうと思っていることはあるのですが、どんどん書きそびれていって時間ばかりが過ぎていきます。とりあえず今日は、あの偉大なリッキー・リー・ジョーンズ嬢の新譜を買いました。ジョーンズ嬢は私、いつのころからかもうすげー好きです。いや、いつのころからって、POP POP の時からだな(やっぱり遅ればせなんですが)。といいつついつものことで、CDを集めたりとか、そういうことはめんどうでしないようないい加減なファンだったのですが、最近になってやっと集めはじめまして、全部ではないですが、大分買いました。ライブのDVDも買いました。POP POP もいいけど、IT'S LIKE THIS もすばらしい。アルバムとして繰り返し聴いてしまいます。GIRL AT HER VOLCANO もいい。一曲目のLUSH LIFE なんか鳥肌が立ちます。彼女はいわゆる「ジャズ歌手」ではないのですが、私はどうしてもジャズを歌っているところを中心に聴いてしまう。しかし、ジャズのスタンダードをこれほど感動的に歌える人が今他にいるだろうか。
 さて、今回の THE EVENING OF MY BEST DAY は、6年ぶりのオリジナル・アルバムだということ。で、この作品、非常にポリティカルな作品になっているという前評判を聞いていたので、期待していました。もともと、彼女が愛国者法に反対したりなどしているらしい、というのはオフィシャルサイトで見てなんとなく知ってはいたのですが。ところで、「愛国者法」(Patriot Act)というのは、同時多発テロ発生直後の2001年10月にアメリカで成立した法律で、正式名称は、Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism(テロ行為を阻止し防止するために必要な手段を提供する法)なのですが、例のごとく頭文字の語呂合わせで作られていて、Patriot(愛国者)法、なのです。要するにこれはアメリカ版盗聴法であり治安維持法であり、反テロの名のもとに市民に対する監視を強化する反動的な法律です。さらに愛国者法IIというのも準備されているらしい。で、今日早速ジョーンズ嬢の新譜を買ってきて歌詞を見てみると……すごいっすよ。まず、一曲目が UGLY MAN(醜悪な男)。これがまさにブッシュのことだそうで。「彼は成長して彼の父親みたいに醜悪な男になった」と。「革命/今やついにそれが起ころうとしてる/あなたの目が向けられていない至る所で/革命」なんてフレーズもあります。……うわあ……。TELL SOMEBODY(REPEAL THE PATRIOT ACT[愛国者法を廃止せよ])というそのまんまのタイトルの曲は、もっとすごい。

ちょっと前まではうまく行ってた/夜ずっと眠れなくなるような悪い夢は全然なかった/兄妹同士 母親同士が/敵対するようなこともなかった /だから誰かに言って/誰かに言わなきゃならないわ/何がアメリカで起こったか誰かに言うのよ
(……)私たちの言論の自由という権利を守るために/あなたがどこまで頑張れるか知りたいの/だってそれは一瞬にして/手の届かないところに消え去ってしまったんだもの……
(……)私たちの民主主義の深さは/それが守る抗議の声の大きさに比例する/抗議の声を――上げるのよ!


 ……うわあ……。
 リッキーさんについて知らない人は誤解するかもしれませんが、私の知る限り、リッキーさんはもともとこのような歌詞の歌を歌う人ではないと思います。10代で家出、中絶、アル中、ドラッグ中毒を体験、というかなり無頼派なお方でして、優等生的なものの対極にあるようなお方。歌詞も、直接的な社会派はなかったと思います(たぶん)。紡木たくが中沢啓治に変身、みたいな感じか?(<よくわからん) しかし、この歌詞だけを見ると……ちょっとあまりに直球すぎて、詩としてはどうなんだろう、という気がしなくもありません……が!いやいや、いいじゃないですか、直球。むしろこれこそが不良の心意気ってもんではないか。そう、前も書きましたが、ちょうど忌野清志郎の場合と同じです。愛国者法の時代、盗聴法の時代だからこそ、ダサいことがむしろかっこいいわけです。糸井重里みたいなやつは、「彼女の「プロテストソング」は、つまらない。たくさんの、ソウルに響く歌をつくって、歌ってきた彼女が、誰でもできるような「反体制」風の歌を歌って、ロックだましいは忘れちゃいないぜ、なんて叫んだとしても、ぼくにはサミシイだけだ。」なんて言うかもしれないが、そんなやつぁほっとけばいいんだ。がんばれ、リッキーねえさん。貴姉の「心意気」が「ソウルに響く」んです。(文中の歌詞はジャケットの日本語対訳(沼崎敦子氏)を使用しました)

永野潤著『図解雑学 サルトル』(ナツメ社)発売中!

村田BAND(村田正洋 tp. 小川銀士 sax. 小沢香菜子 b. 宮野大輔 dr. 永野潤 p.)のCD発売中
Beautiful Fingers/Masahiro Murata \1,500
お問い合わせは永野、または調布GINZ(調布市小島町 2-25-8 フジヨシ小島ビルB1 TEL&FAX 0424-89-1991)まで。

1月22日(木)9:30pm〜11:30pm
森学カルテット(森学 ts. 永野潤 p. CINDY宮田 ds.他)チャージ600円
多摩センター  bar Zealous 042-338-0412 多摩市落合1-7-12 ライティングビルB1

2月13日(金)
projectH(永野潤p. 鈴木亮b. 小宮山春樹ds.)ライブ
@吉祥寺(詳細未定)

2月18日(水)8:00pm〜11:00pm
村田BAND(村田正洋 tp. 小川銀士 sax. 宮野大輔 dr. 永野潤 p. 佐藤えりか b.)1,800円
調布 GINZ 調布市小島町 2-25-8 フジヨシ小島ビルB1 TEL&FAX 0424-89-1991

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