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■ライブ
●5月17日(月)20:00〜23:00 村田BAND
村田正洋 tp. 小川銀士 sax. 宮野大輔 dr. 永野潤 p.他 1800円 調布 GINZ
●5月21日(金)20:00〜22:00 project H
永野潤p. 鈴木亮b. 小宮山春樹ds.他 dj カワイエイイチ 1500円のみもの付 吉祥寺バー・ドロップ


■ 2004/04/30  

 28日の朝日新聞社説「非常勤講師――こんな処遇ではいけない」を読んで、苦笑してしまいました。私は、まさしく、ここで「深刻だ」と憂慮されている「ほかに仕事を持たず、大学で教えることを専業にしている非常勤講師」なので……。

 首都圏や関西の非常勤講師組合の調査によると、1コマ、90分の講義を受け持って、平均賃金は年30回で計約30万円。年齢は平均で42歳だ。講義の準備や試験の採点にかかる時間を考えれば、学生の家庭教師並みの時給である。
 専任教員並みに5コマの講義を担当しても、年収は150万円ほどにしかならない。講義のための本代や学会に出席する費用は自己負担だ。契約は1年ごとで、専任教員になれる保証もない。
 文部科学省の調査によると、専業の非常勤講師は全国で延べ約6万7千人にのぼる。いくつかの大学を掛け持ちしている人が多いので実数は2万数千人と見られるが、こうしたパートタイム教員が科目の3〜4割を担当しているのが日本の大学の現実である。


 ちなみに私の場合、今年は、前期は8校で10コマ、後期は7校で11コマです。専業非常勤講師の中には、もっとたくさんやっている人もざらにいるみたいですよ。キツイことはキツイですが、でも、非常勤の口自体もなかなかない状況なので、たくさんやらせていただいている私は恵まれているのだと思います。
 問題があること自体ほとんど知られていないようなので、こうやってとりあげられるのはいいことだとは思います。が、「非常勤講師の問題をいつまでも大学の恥部にしていてはいけない」とここまで大げさに言われると、なんか私自身が「恥部」みたいで(まあそうなんですが)恥ずかしい(/ω\)

■ 2004/04/25  

イラク戦争関連誘拐事件

イラク戦争を巡って女性一人、男性二人の邦人三人が拉致・監禁されている。
(参照→ http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0403180.htm) こちらのケースで犯行グループは声明も要求も出していない。
そりゃそうだ。
ただのテロリストなんだから。

 常岡浩介氏の日記04/16(金)より。時期はずれになってしまいましたが、この間読んだ人質事件関連の文章の中でもっとも面白かったものの一つなので、僭越ながら紹介させていただきます。

■ 2004/04/15  

「ファルージャの目撃者より:どうか、読んで下さい」

 以下に紹介する文章の筆者、ジョー・ウィルディングは、イラクの子どもたちにサーカスを見せようという活動をしている外国人のグループのメンバーで、弁護士になる準備をしているイギリス人女性(ここ参照)だということです。益岡賢氏による全文の翻訳はhttp://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404d.html他、英語原文はhttp://www.onweb.to/palestine/siryo/jo-fallujah-en.htmlにありますが、ここでは、抜粋して紹介します。
 彼女は、「ファルージャの状況は絶望的であり、手足が吹き飛ばされた子どもをファルージャから運び出していた」という知人のジャーナリストの話を聞いて、4月11日、バスを使って医薬品をファルージャに運び入れ、けが人をバグダットに運び出そうとします。手記は、バスがファルージャの診療所に到着したところからはじまります。

(……) どうやって決意したか、自分自身で何を思い、お互いに何を聞いたかについては想像にお任せしよう。私の決断を狂気と言うのも結構。けれども、そのとき思ったのは次のようなことだった:もし私がしないならば、誰がするのだろう? いずれにせよ、私たちは何とか無事到着した。
 到着後、私たちは物資をバスから降ろした。荷箱はすぐに引きちぎるように開かれた。最も歓迎されたのは毛布だった。そこは病院と呼べるものではなく、ただの診療所だった。米軍の空襲でファルージャの大病院が破壊されてから、ただで人々を診療している個人医の診療所だった。もう一軒の診療所は、ガレージに臨時で作られたものだった。麻酔薬はなかった。血液バッグは飲み物用の冷蔵庫に入っており、医者たちは、それを非衛生的なトイレのお湯の蛇口の下で暖めていた。


 診療所には、米軍の狙撃兵に撃たれたと思われる、頭にケガをした子供たちやその祖母がうめいていた。治療中電気がとまり、医師は懐中電灯の光で手術を続ける。

 女性たちが叫び声をあげながら入ってきた。胸や顔を手のひらでたたき、祈りながら。ウンミ、お母さん、と一人が叫んでいた。私は彼女を抱きかかえていた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキが私をベッドのところに連れていった。そこには、頭に銃による怪我を負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。米軍の狙撃兵が、この子どもたちとその祖母とを撃ったのである。一緒にファルージャから逃れようとしたところを。
 明かりが消えた。換気扇も止まり、急に静かになった。その中で、誰かがライターの炎を付けた。医者が手術を続けられるように。町の電気は何日も前から止まっており、発電器の石油が切れたときには、石油を入手するまで、とにかく何とかしなくてはならない状況だった。デーブがすぐに懐中電灯を渡した。二人の子どもたちが生き延びることはなさそうだった。


 別の部屋では、腹を撃たれた老女が白旗を持ったままベッドにねていた。彼女の話では、街は米軍海兵隊に制圧している地域と地元の戦士が統制している地域に分断されている。米軍制圧地域から脱出しようとした彼女たちは、自分たちを狙撃したのが米国海兵隊兵士であるという固い確信を持っている。

 米軍の狙撃兵たちは、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と救助活動も麻痺させている。ファルージャ最大の病院が爆破されたあと残った次に大きな病院は米軍が制圧する地域にあり、狙撃兵たちによって診療所から遮断されている。救急車は、銃弾による損傷を受けて、これまでに4回、修理された。路上には遺体が転がったまま。遺体を取り戻しに道に出ると狙撃されるので、誰も遺体を取り戻すことができない。
 イラクに行くなんて、私たちは狂っている、と言った人たちがいた。ファルージャに行くのは、完全に正気の沙汰じゃない、と多くの人たちが言った。そして今、ファルージャでは、ピックアップ・バンの後ろに乗って狙撃兵のところを通り、病いや怪我で倒れた人たちを車で連れてくるなんてことは、これまで見たこともないほど狂ったことだと私に向かって言っていた。私だって、それは分かっている。けれど、私たちがしなければ、誰もしないだろう。


 筆者らは、救助活動を妨害する米軍の狙撃兵にアメリカアクセントで呼びかけ、路上に放置されたけが人と遺体を診療所に運ぶことを了承させ、けが人と遺体をバンに載せた。

 彼[路上から運び出した若いイラク人の戦士]はサンダルを履いていたのではないかと思う。というのも、そのとき彼は裸足だったから。20歳になっていない感じで、偽のナイキのズボンをはき、大きく28という背番号のついた青と黒の縞模様のサッカーシャツを着ていた。診療所で、この若い戦士をピックアップから降ろしたとき、黄色い液体が彼の口から流れ出た。人々は彼の顔を上向きにしてクリニックに連れて入り、臨時の死体安置所にすぐに運び込んだ。

 その後、筆者らは救急車に乗り、別の病院に閉じこめられた病人の救出に向かった。

 私たちは、手に着いた血を洗い、救急車に乗った。別の病院に閉じ込められた人々がいた。これらの人々はバグダッドに行く必要があった。サイレンをならし、ライトを点滅させながら、私たちは救急車の床に座って、パスポートとIDカードを窓から外に向けて見せていた。私たちは救急車に人々を詰め込んだ。一人は胸の傷をテープで貼り合わせ、もう一人は担架に乗せて。足がひどく痙攣していたので、彼を運んでステップを昇るとき、私は足を押さえていなくてはならなかった。
 診療所よりも病院の方がこうした怪我人を治療するのに有利だが、病院には適切な手当をするに十分な物資が何もなかった。怪我人をバグダッドに運ぶ唯一の方法は、私たちが乗ってきたバスで連れ出すことだが、そのためには、診療所に怪我人を連れて行かなくてはならなかった。私たちは、撃たれたときのために、救急車の床にすし詰めになって乗った。私と同年代の女性医師ニスリーンは、私たちが救急車から降りたとき、涙をこらえきれなかった。


 診療所につくと、医者が走り出してきて、妊娠し、早産しかけている女性を連れてきて欲しい、と筆者に要請した。筆者らは救急車に乗ってその女性の救出に向かった。が、その途中で、救急車が米軍の銃撃に会う。

 私の手のところで何かが飛び散った。救急車に銃弾が当たったと同時だった。プラスチックの部品が剥がれ、窓を抜けて飛んでいった。
 私たちは車を止め、サイレンを止めた。青いライトはそのままにしておいて、待った。目は、建物の角にいる米軍海兵隊の軍服を着た男たちの影に向けていた。何発かが発砲された。私たちは、できるだけ低く身を伏せた。小さな赤い光が窓と私の頭をすり抜けていくのが見えた。救急車に当たった銃弾もあった。私は歌い出した。誰かが自分に向かって発砲しているとき、他に何ができるだろう?
 大きな音を立ててタイヤが破裂し、車がガクンと揺れた。
 心底、頭に来ていた。私たちは、何の医療処置もなく、電気もないところで子供を産もうとしている女性のところに行こうとしていたのだ。封鎖された街の中で、はっきり救急車であることを表示しながら。海兵隊は、それに向かって発砲しているのだ。一体、何のために?
 一体、何のために?
 アッザムはギヤを握り、救急車を逆行させた。道の真ん中の分離帯を超えるとき、もう一つのタイヤが破裂した。角を曲がったときにも、銃弾が私たちに向けて発砲されていた。私は歌い続けていた。車輪はキーキーと音をたて、ゴムは路上に焼き付いた。
 診療所に戻ると、人々が担架に駆けつけたが、私は頭を振った。彼らは新たについた弾痕に目をとめ、私たちが大丈夫かどうか寄ってきた。彼女の所に行く他の方法は無いのか、知りたかった。ラ、マーク・タリエク。他に方法はない。私たちは正しいことをしたんだ、と彼らは言った。これまでにも4回救急車を修理したのだから、今度もまた修理するさ、と。けれどもラジエータは壊れ、タイヤもひん曲がって、そして彼女は今も暗闇の中、一人っきりで、自分の家にいて、出産しようとしている。私は彼女の期待に背いてしまった。
 もう一度行くわけにはいかなかった。救急車がなかったし、さらに、既に暗くなっていたので、私の外国人の顔で、同行者や連れ出した人々を守ることも出来ない状況だった。その場所の所長代理はマキだった。彼は、自分はサダムを憎んでいたが、今はアメリカ人の方がもっと憎い、と言った。
 向かいの建物の向こう側のどこかで、空が炸裂しはじめた。私たちは青いガウンを脱いだ。数分後、診療所に一台の車が突進してきた。姿を目にする前に、男の叫び声が耳に入った。彼の体には、皮膚が残っていなかった。頭から足まで焼けただれていた。診療所でできることは何もなかった。彼は、数日のうちに、脱水で死ぬだろう。
 もう一人の男性が車から引き出されて担架に乗せられた。クラスター爆弾だ、と医者たちは言った。この犠牲者だけなのか、二人ともがそうなのかははっきりしなかった。


 筆者たちは、夜になって、ヤセルというイラク人戦士の家を訪れる。ヤセル氏らとの会話の中で、筆者は、高遠菜穂子氏のことを話題にした。

 私は菜穂子[高遠氏]のことを話題に出した。目の前にいる戦士たちのグループは日本人捕虜を取っているグループとは無関係だが、人々が、この夕方私たちがしたことに感謝している間に、菜穂子がストリート・チルドレンに対してしていたことを説明した。子どもたちが、どれだけ彼女のことを愛していたかも。彼らは何も約束はできないが、菜穂子がどこにいるか調べて、彼女と他の人質を解放するよう説得を試みると言った。事態がそれで変わるとは思わない。この人たちは、ファルージャでの戦闘に忙しいのだから。他のグループとも無関係なのだから。けれども、試してみて困ることはない。

 次に彼女たちは、海兵隊地帯での病人の救出に向かう。

 私たちは飛び降りて、海兵隊員に、家から病人を連れ出さなくてはならないこと、海兵隊が屋根に乗っていた家からラナに家族を連れ出してもらいたいこと、13人の女性と子供がまだ中にいて、一つの部屋に、この24時間食べ物も水もないまま閉じ込められていることを説明した。
「我々は、これらの家を全部片付けようとしていたところだ」と年上の方が言った。
「家を片付けるというのは何を意味するのか?」
「一軒一軒に入って武器を探す」。彼は時計をチェックしていた。何がいつ行われるのか、むろん私には告げなかったが、作戦を支援するために空爆が行われることになっていた。「助け出すなら、すぐやった方がよい」。
 私たちは、まず、道を行った。白いディッシュダッシャーを来た男性がうつぶせに倒れており、背中に小さなしみがあった。彼のところに駆けつけた。またもや、蠅が先に来ていた。デーブが彼の肩のところに立った。私は膝のところに立ち、彼を転がして担架に乗せたとき、デーブの手が彼の胸の空洞に触れた。背中を小さく突き抜けた弾丸は、心臓を破裂させ胸から飛び出させていた。
 彼の手には武器などなかった。私たちがそこに行って、ようやく、息子たちが出てきて、泣き叫んだ。彼は武器を持っていなかった、と息子たちは叫んだ。彼は非武装だった。ただ、門のところに出たとき、海兵隊が彼を撃った、と。それから、誰一人外に出る勇気はなかった。誰も、彼の遺体を取り戻すことはできなかった。怯えてしまい、遺体をすぐに手厚く扱う伝統に反せざるを得ない状態だった。私たちが来ることは知らなかったはずなので、誰かが外に出て、あらかじめ武器だけ取り去ったとは考えにくい。殺されたこの男性は武器を持っておらず、55歳で、背中から撃たれていた。
 彼の顔を布で覆い、ピックアップまで運んだ。彼の体を覆うためのものは何もなかった。その後、病気の女性を家から助け出した。彼女のそばにいた小さな女の子たちは、布の袋を抱きしめ、「バーバ、バーバ」と小声でつぶやいていた。ダディー。私たちは震えている彼女らの前を、両手を上に上げて歩き、角を曲がって、それから慌ててピックアップに彼女らを導いた。後ろにいるこわばった男性を見せないように、視線を遮りながら。
 私たちが、銃火の中を安全に人々をエスコートするのではないかと期待して、人々が家からあふれ出てきた。子どもも、女性も、男性も、全員行くことができるのか、それとも女性と子どもだけなのか、心配そうに私たちに尋ねた。私たちは、海兵隊に訊いた。若い海兵隊員が、戦闘年齢の男性は立ち去ることを禁ずると述べた。戦闘年齢? 一体いくつのことか知りたかった。海兵隊員は、少し考えたあと、45歳より下は全員、と言った。下限はなかった。
 ここにいる男性が全員、破壊されつつある街に閉じ込められる事態は、ぞっとするものだった。彼らの全員が戦士であるわけではなく、武装しているわけでもない。こんな事態が、世界の目から隠されて、メディアの目から隠されて進められている。ファルージャのメディアのほとんどは海兵隊に「軍属」しているか、ファルージャの郊外で追い返されているからである[そして、単に意図的に伝えないことを選んでいるから]。私たちがメッセージを伝える前に、爆発が二度あり、道にいた人々は再び家に駆け込んだ。(……)


 こうして、彼女たちが命がけで救出したけが人をのせたバスが、バグダードに出発する時がやってきた。筆者らは最初そのままファルージャに残ると主張したのだが、イラク人戦士に説得され、強い心の痛みを感じながらファルージャを去ることにする。

 バスが出発しようとしていた。バグダッドに連れていく怪我人を乗せて。やけどした男性、顎と肩を狙撃兵に撃たれた女性の一人、その他数人。ラナは、手助けをするために自分は残ると言った。デーブと私も躊躇しなかった:私たちも残る。「そうしなければ、誰が残るだろう?」というのが、そのときのモット−だった。最後の襲撃の後、どれだけの人々が、どれだけの女性と子供が、家の中に残されただろう? 行く場所がないから、ドアの外に出るのが怖いから、留まることを選んだから……。私はこのことを強く考えていた。
 最初、私たちの意見は一致していたが、アッザムが、私たちに立ち去るべきだと言った。彼も、全ての武装グループとコンタクトをとっているわけではない。コンタクトがあるのは一部とだけである。各グループそれぞれについて、話をつけるために別々の問題がある。私たちは、怪我人をできるだけ早くバグダッドに連れて行かなくてはならなかった。私たちが誘拐されたり殺されたりすると、問題はもっと大きくなるので、バスに乗って今はファルージャを去り、できるだけ早くアッザムと一緒に戻ってきた方が良い。
 医者たちが、私たちに別の人々をまた避難させに行ってくれとお願いしてきたときにバスに乗るのは辛いことだった。資格を持った医師が救急車で街を回ることができない一方、私は、狙撃兵の姉妹や友人に見えるというだけで街を回ることができるという事実は、忌々しいものだった。けれども、それが今日の状況で、昨日もそういう状況で、私はファルージャを立ち去るにあたり裏切り者のように感じていたけれど、チャンスを使えるかどうかもわからなかった。
 ヤスミンは怯えていた。彼はモハメドにずっと話し続け、モハメドを運転席から引っぱり出そうとしていた。銃弾の傷を受けた女性は後部座席に、やけどをした男性はその前に座り、空箱のダンボール紙を団扇にして風をあててもらっていた。熱かった。彼にとっては耐え難かっただろう。  サードがバスの所に来て、旅の無事を祈った。彼はデーブに握手してから私と握手した。私は両手で彼の手を握り、「ディル・バラク」、無事で、と告げた。AK47をもう一方の手に持った13歳にもならないムジャヒディーンにこれ以上馬鹿げた言葉はなかったかも知れない。目と目があって、しばらく見つめ合った。彼の目は、炎と恐怖で一杯だった。
 彼を連れていくことは出来ないのだろうか?
 彼が子供でいられるようなどこかに連れていくことは、できないのだろうか?
 風船のキリンをあげて、色鉛筆をプレゼントし、歯磨きを忘れないように、ということは?
 この小さな少年の手にライフルを取らしめた人物を捜し出せないだろうか?
 子どもにとってそれがどんなことか誰かに伝えられないだろうか?
 まわり中、重武装した男だらけで、しかもその多くが味方ではないようなこの場所に、彼を置いて行かなくてはならないのだろうか?
 もちろん、そうなのだ。私は彼を置いて行かなくてはならない。世界中の子ども兵士と同じように。


 これが、「停戦」下のファルージャのたった数日前の情況である。筆者は、この記録を最後にこう結んでいる。

 衛星放送ニュースでは、停戦が継続していると伝えており、ジョージ・ブッシュは、兵士たちはイースターの日曜休暇中で、「私はイラクで我々がやっていることが正しいと知っている」とのたまっていた。自宅の前で非武装の人間を後ろから射殺する、というのが正しいというわけだ。
 白旗を手にした老母たちを射殺することが正しい? 家から逃げ出そうとしている女性や子供を射殺することが正しい? 救急車をねらい撃ちすることが、正しい?
 ジョージよ。私も今となってはわかる。あなたが人々にかくも残虐な行為を加えて、失うものが何もなくなるまでにすることが、どのようなものか、私は知っている。病院が破壊され狙撃兵が狙っており街が封鎖され援助が届かない中で、麻酔なしで手術することが、どのようなものか、私は知っている。それがどのように聞こえるかも、知っている。救急車に乗っているにもかかわらず、追跡弾が頭をかすめるのがどのようなことかも、私は知っている。胸の中が無くなってしまった男がどのようなものか、どんな臭いがするか、そして、妻と子供たちが家からその男の所に飛び出してくるシーンがどんなものか、私は知っている。
 これは犯罪である。そして、私たち皆にとっての恥辱である。
翻訳:益岡 賢


 日本では、小泉純一郎は、「私はイラクであなた方がやっていることが正しいと知っている」とのたまっている。これは犯罪である。そして、私たち皆にとっての恥辱である。
 訳者のコメントも引用しておきます。

 ここで描かれている出来事は、「停戦」下でのものです。米軍は「停戦」と称して空爆や大規模攻撃こそ止めましたが、狙撃兵による狙撃と攻撃は続けています。そして、今、空爆を再開するとの情報が入ってきました。
 ファルージャで米軍が行なっていることは、被占領下パレスチナでイスラエル軍が日々行なっていることに似ています(両軍は合同訓練も行なっています)。そして、インドネシア軍がアチェで、ロシア軍がチェチェンで行なっていることにも。虐殺。これらの虐殺は、いずれも「テロに屈するな」という美しく勇ましい掛け声のもとで行われているものです。
 バグダッド近郊で4人の米国人の遺体が見つかったというニュースがでかでかと新聞に出ています。ファルージャでは600人もの人々が殺されています。子供の犠牲者は100人以上。これらの報道が大見出しになることは、あるのでしょうか。

ジョージ・W・ブッシュ米国大統領のホワイトハウスのFAX番号は、+1-202-456-2461です。
米国の国連代表部のFAXは:+1-212-415-4443
国務長官には、http://contact-us.state.gov/ask_form_cat/ask_form_secretary.htmlからメッセージを送ることができます。
日本の米国大使館・領事館は:http://japan.usembassy.gov/tj-main.htmlからわかります。ちなみに大使館(東京)の電話は03-3224-5000です。
こんなときですので "Stop Carnage in Fallujah"といった単純なものでも。

■ 2004/04/10  

 気が重い。うーむ。ちょっと時間がない。
 「危ないという警告を無視して行ったバカなやつら。自業自得。自衛隊の活動を邪魔した迷惑なやつら」などと思っている人びとが、かなり多いようです。ひょっとするとこの雑記を読んでいる(ごく限られた)人の中にさえも「え?そうじゃないの?」と思っている人がいそうな雰囲気です。
 政府は、自衛隊は人道支援だから撤退させない、と言っているようだが、多大な費用をかけて送られた自衛隊は、支援活動などほとんど何もできていない。一方、NPOによるイラク支援は、自衛隊がイラクに入るはるか以前から行われている。彼らが自衛隊の邪魔をしたのではなく、自衛隊が彼らの活動の邪魔をしに行ったわけだ。自衛隊はそもそも人道支援のためにイラクに行ったのではない。自衛隊の派遣は米軍の軍事占領を支えるためであり、つまりこれは日本の参戦だ。今もイラクの民間人を殺し続けている戦争に加わった日本、殺す側である日本が、民間人を標的にした攻撃を受けることはまったく不思議ではない。テロに屈するな、というが、テロリストブッシュのために派兵を決定したことこそが「テロに屈した」ことではないか。テロに屈するな。だからこそ撤兵せよ。
 ……と、いうようなことは、私が言わなくても「そうだ」と思う人は思うでしょうし……「自業自得じゃないの?」と思っている人にどう伝えればいいのか、大変むずかしい。イラク支援をずっと行ってきたNPOに、いやがらせの電話が殺到しているそうです……。
 とりあえず、昨日の昼、今日の昼、国会前に行って来ました。これからまた国会前に行ってきます。

■ 2004/04/05  

【噂の……】 某月刊誌の休刊に際して詠める。

仕方ない 来月からは 『情況』か……

 でもタカいんだよね……それにカタすぎるし……。『インパクション』?ていうか売ってないし。

【音楽】 3月26日、渋谷オーチャード・ホールに、まえアルバム購入のことを書いたリッキー・リー・ジョーンズを聴きにいきました。10年ぶりの来日、ということで、当然「行くしかない!」となりそうなものなのですが、不思議なことに、今ひとつ自分の中で盛り上がりに欠ける感じがして(ちょっと去年の阪神優勝直前の心境に似ていた)どうしてだろう、と思っているうちに日にちがたち、ぎりぎりまで迷っていたのですが、結局行きました。ていうか、チケット入手できたこと自体とてもラッキーだったのですが、その件に関して、詳細は書きませんが、お世話になった方、ほんとにありがとうございました(てたぶんここを読んでいないでしょうが)。私は、ホールのコンサートのようなものに行くのは本当に久しぶりで、ましてや、ジャズ・クラシック以外、となると、ひょっとすると初めてかもしれません。というわけで、ロック・ポップス系の「外タレ」ホールコンサートというものが普通どのような雰囲気なのか、というのは全然知らないのですが、やはり、リッキーさんのような音楽は、ああいうクラシック向けのホールではなく、贅沢を言えばクラブで酒を飲みながら聴きたいかも、と思いました。まあそれはともかく、内容はどうだったのか、ということですが、ちょうど4月1日の朝日新聞にコンサート評が載っていました。短いので、全文になってしまいますが引用します。

 10年ぶりに来日した米国のシンガー・ソングライター、リッキー・リー・ジョーンズ(49)は明らかにメッセージを伝えに来ていた。(3月26日、東京・渋谷のオーチャードホール)
 6年ぶりのオリジナルアルバム「イブニング・オブ・マイ・ベスト・デイ」の曲を中心に、淡々と歌っていた彼女は突然、語りだした。コンサートの中盤、反テロ愛国者法を糾弾する「テル・サムバディ」を歌い終え、「ナチス末期のようで、はずべき法律だわ」。
 ラストはブッシュ大統領を歌った「アグリー・マン」だった。《彼は醜い男/いつだって醜かった》。右手を振り上げながら歌った。《今私たちはこの国を取り返す》。
 少女と老女が同居したような独特の生々しい歌声が、今の米国へのむき出しの敵意を増幅した。
 アンコールにも応じず、彼女は消えた。その残像に、孤高のシンガーのメッセージが鮮烈に浮かんだ。(西正之)朝日東京版4月1日35面


 私も、彼女は「メッセージを伝えに来ていた」のだと思います。愛国者法については、「突然」というより、私は「いつ来るか」と思っていました。が、悲しいかな、私の悲しいほど低い英語聞き取り能力では、メッセージがびしばし伝わってくる、というのからはほど遠いのです。やはり、歌詞が付いている音楽の場合、言葉の問題は大きいなあ、と思わざるを思えません。
 しかし、問題は、それだけではなかったように思うのです。つまりですね、リッキーは「明らかにメッセージを伝えに来ていた」。では、観客はどうだったのか。我々観客は「明らかにメッセージを受け取りに来ていた」のだろうか……。残念ながら、というべきか、それには疑問符を付けざるを得ないのです。この、演奏者と観客の思惑のずれに由来する、ビミョーな空気が会場に流れていたように私は思ったのですが、これは気のせいでしょうか。なんとなく、私が、知り合いに、デモや政治の話をした時のビミョーな空気を思い出します。ていうか、私の場合、ビミョーな空気が流れるだろうことを察知してそもそもそういう話はあまりしないんですけどね……。
 西氏が言うように、全体として、コンサート自体に「淡々と」した雰囲気が流れていました。しかしそれは、米国社会への彼女の静かな怒りと絶望を現していたのかもしれない。ま、もちろん彼女の音楽はもともとギンギンに盛り上がる、というようなものではなく、淡々としてるわけですが……。しかし、そういう怒りや絶望が単なる「淡々」に見えてしまっていたのは、ひょっとすると観客との温度差に由来していたのかもしれない。例えば、客席から「リッキ〜〜!!(ハートマーク)アイラブユ〜〜!!」という女性の「かけ声」があり、続いて男性が「ミートゥ〜〜!」と叫び、微妙な笑い声が上がる、という場面がありました。リッキーさんは、一応それに答えて手かなんか振ってはいましたが、ちょっととまどっているようにも思えた(もっとも私の席はかなりステージから遠かったので表情はまったく分からなかったのですが)。それから、これも「いつ来るか」と思っていたのですが、とちゅうで彼女は、出世作「恋するチャック」(やっぱりサービスでしょう)を歌ったのです。これがね……盛り上がったんですよ……私的にも、です。楽しくてゴキゲンで、やっぱりいい曲です……。しかし、ほんとは彼女は、それよりも愛国者法についてのアジ演説の時にこそ、観客に盛り上がってほしかったのではないか(いやもちろん歓声は上がってはいましたがね……)というわけで、西氏も伝えている「アンコールがなかった」ということも、ひょっとしてそういうビミョーな空気と関係があったのではないか、などと思ってしまうのです。これは私の考えすぎですかね……。もちろん、内容としてみれば、全体としてはよいコンサートだったと思います。ただなんとなく私はそういう空気を感じた、ということです。ロック・ポップス系のコンサートに初めて行った、という私のことですので、ピントのはずれたことを言っているのかもしれませんが。
 まあ、リッキーさんとしてもですね、もし本当にブッシュ批判で盛り上がりたいのであれば、オーチャードホールなどというところではなく、それこそワールド・ピース・ナウのプレコンサートで歌ってアジればいいわけでね(そりゃ反応がまったく違うでしょう。ギャラ出ないと思うけど)。また、日本人に通訳なしで英語で訴えたって、反応が悪いのは当然だし。
 それから、私はもちろん「なんでみんなブッシュ批判でリッキーさんといっしょに盛り上がらないんだ」なんて言うつもりはありません。それは「なんでみんなデモに行かないんだ」と言うつもりないのと同様です(結局またデモの話かよ)。

 「デモに行くやつらウザい」と言う人はウザい。とはいえ、
 「デモに行くおれたちエラい」と思っている人もどうかとは思う。とはいえ、
 「『デモに行くおれたちエラい』と思っているやつらウザい」とそればっか言ってる人もウザい。

 とそのようなことを言いたくてここんとこずっとぐちゃぐちゃ書いているのですが、考えてみると、上のどれでもなく、「イラク派兵反対だしデモウザいとも思わないけど、自分はデモに行くまではしない」という感じの人が、一番多いのかもしれません。「リッキーのメッセージには賛成だけど、いっしょに拳を上げるまではしない」という人々も、そのタイプではないかと。結局、ライブの高揚が政治的な高揚と一致するなんていうことは、もはやないでしょうね(ていうかそんなことがあったのはもう何十年も前なわけですが)。
 がですね、ふと思いました。私がリッキーさんを聴き始めたのは、音楽的にいいと思ったからで、彼女の政治的スタンスについて知ったのは、最近の話です。しかし、明らかになった彼女の政治的スタンスが仮にまったく違ったものだったとしたら、私はどう思っただろうか?たとえば、彼女がブッシュ批判のアルバムを出すかわりに、「9.11.にショックを受けてアルバムを出しました。タイトルは『ゴッド・セイブ・アメリカ』です」とか言ってたとしたら?…………それこそ、ビミョーな気持ち、どころじゃなかったでしょうね……。
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